第3話
反射的にとにかくリュックだけは掴んでいた。
平衡感覚が狂っている。まっすぐ歩く事ができない。息苦しい。急いで逃げようとしているからなおさら身体が言うことを聞かなくもどかしかった。鬼達が葉山の前まで回り込んであざ笑う。
「どうしたどうした?」
「ほれほれっ!きゃははは!」
「早く逃げないと食っちゃうぞー!」
「逃げても食っちゃうぞー!!」
「どっちにしろ食っちゃうぞーぎゃははは!!」
囃し立てる鬼たちの顔も赤く光り輝き不定形で安定しない。目玉がドロリと落ちる者、牙だらけの口がみるみる大きくなり顔全体を覆う者、大きくなったり小さくなったりする者。血が盛大に噴き出して頭が爆発する者。じっと見ている訳にはいかない。いちいち驚いている訳にはいかない。腕で振り払っても、リュックで殴り付けようとしても手ごたえがまるで無かった。足を動かせ!足を動かせ!とにかく足を動かすんだ!葉山はリュックを引きずりながら森を進んだ。巨大な鬼蝙蝠が何匹も空を飛んでいる。バサバサと羽音をたて、でたらめな歌をがなりたてている。
「♪ね~むれ~ね~むれ~わ~にの~口のなか~♪け~つに~さ~さる~よわ~にの~きば~~~♪」
「♪あ~しはみん~なおいし~よ~♪なんの~あし~でも~おいしいいい~よ~♪」
「♪ころせっころせっころせっせ!♪ちちははあにおとうとあねいもうとじいさんばあさんしんせきも~♪おじさんおばさんともだちこいびとみ~なご~ろし~♪」
ギャハッハッハ!!と騒ぎ立てる。すぐ横を走る物を見ると、赤鬼の顔面のついた山羊が飛び跳ねていた。葉山と目が合うと、にやあああっと笑い、ボロボロボロと頭から腐って崩れ落ちた。
「うわっ!!なんなんだこれは・・・・?」
呼吸が苦しい。嘔吐感も激しい。じっとしていられない。苦しくて苦しくて走り回らずにいられない。
後ろから大振りの包丁を振り回しながら、鬼婆が笑いながら追いかけてくる。葉山は喘ぎながら走った。方向感覚が狂っているので、自分が走っている方向がまるでわからなかった。と、前に出した右足を強く引っ張られるように転び、地面に激突した。
「ぐあっ!」
自分が転んでいる向きも理解できず、顔をしたたかに打ち付けてしまった。
「草の輪!!」
「ひっかかったひっかかった!きゃあはははは!」
「お前が仕掛けたのか!!」
鬼婆がすぐ後ろで喜んでいる。どうやら草の輪を結んで罠を作っていたのはあいつらしい。このまま地面に倒れていたら刺される、と判断した葉山は転がった。リュックを掴んだままころがり、そのまま川へ落ちた。3メートルほど落下し、バシャン!と派手に音をたてて川底に落ちた。したたかに身体を打ち付け、しばらく呼吸ができなかった。「ひゅっひゅっ」と何度かあえいで、なんとか息を吸うことができると、川の壁で身体を支えようと腕を振り回し、ボロボロと土くれを落としながら立ち上がった。赤く輝く赤鬼達が周りに何人もいて、葉山の醜態をあざ笑っている。
「これはおかしい。こんなはずは無い。」
混乱しながらも、葉山はヨロヨロと下流へ向かった。今、自分の周囲で騒いでいる赤鬼達、笑いながらボロボロと腐り落ちては復活し、まだ自分を嘲るこいつらは、とても現実のモノとは思えなかった。精神が錯乱している。とにかく後ろから自分を追い立てる者から逃れようと必死に歩いた。
「ちっ」
しばらく川沿いに葉山を見下ろしながら後を追っていたが、坂祭は舌打ちをして追跡を断念した。今日の獲物は運がいい。これ以上は危険だ。そろそろ野犬達のテリトリーに入ってしまう。普通はすぐ前後不覚に陥って、バタバタ暴れながらその場に倒れてしまう。あんなに動けるはずが無いのだが。あいつは思った以上に強かったようだ。楽しまずにすぐ殺せば良かった。だが、自分から逃れたとはいえ、このまま下流に向かうと野犬の群れに襲われるだろう。結局命は無い。坂祭は鬼婆の面を外した。
「仕方無い。次の獲物を待つか。」
彼は自分の小屋に向かって歩き始めた。「ブブブブブ」スマホが鳴った。画面を確認する。
「うるせえなあ。」
だが出ないわけにもいかない。坂祭は応答した。
「はい。木瀬さん。どうしました?」
「お前、逃がしたのか?」
「あ、いえでも、どうせ犬の餌ですよ。」
「確認したのか?」
「いえ、まだです。」
「確認して連絡しろ。」
「え、今ですか?」
「当たり前だ。」
「今行ったら俺も犬に食われちまいますよ。朝まで待ってくれませんか。」
「・・・・・・・・。」
「お願いしますよ。」
「明日朝6;00に連絡しろ。いいな。」
「早いな!でも、ええ、わかりました。ありがとうございます。」
「お前、・・・・わかってるよな?自分の立場。朝瓜さんが助けなければ・・・」
「わかってますよ!朝瓜様のおかげで生きていられるんです。朝瓜様が居なければ俺なんか3回は死刑になってます!わかってます!」
「・・・・・。では、明日。」
「承知いたしました。失礼します。」
電話を切ると坂祭は唾を吐いた。木瀬の奴、えらそうにしやがって。朝瓜さんは偉いかもしれないが、ただの警備主任のくせに木瀬の野郎は坂祭にまで高圧的でいけすかない奴だ。なにかというと恩着せがましく煩い。森のあちこちに監視カメラをしかけてあるので、こちらの挙動は筒抜けでなんともやりにくい。そのうちあいつも食ってやろうか・・・・。そんな想像をしながら坂祭は小屋へと戻った。
翌朝4;00に起きた。お茶を入れ、お茶漬けをかきこみ準備をした。
「犬どもに会うかもしれないからな。」
床下に隠してあったショットガンを取り出し、山歩き用のリュックを背負い、捜索に出た。どうせ野犬に内蔵を食われた状態で見つかるだろうが、6;00の連絡をしなければいけない。そこはちゃんとしておかなければ自分の存在が危なくなる。川沿い川下に向かって歩き始めた。
ぐんにゃりと世界が右回りにゆがんだ。山も木々も地面もすべて右に傾き歪曲した。坂祭は、立っていられなくなり、たまらず昏倒した。誰かが倒れた自分をのぞき込んでいる。坂祭は見上げて驚愕した。
「お前らは・・・・!」
かつて、まだ都会で働いていた時、坂祭は大勢を殺した。最初は事故に見せかけて殺していた。よく利用していたのが電車だった。ホームドアの無い駅のホームで、狙う相手を巧妙に突き落とすのだ。その頃は憎い相手を殺していた。何回かその方法で殺したあと、自分は選ばれた人間だということがわかった。そこから、気に入った女性を選んで拉致し殺すようになった。そして、人肉食へ手を出すまでそれほど時間はかからなかった。自分は捕食者なのだ。
だが、今自分が無残に無慈悲に殺した者達が、血まみれの姿で自分を見下ろしていた。みんな薄っすらあざ笑っている。自分の番が来たのだ、と思った。恐怖に頭を鷲掴みにされた。血まみれの女達が「ひひっ」と一斉に笑った。坂祭はおびえて反射的に右手を上げた。
「ひっ!」
右手が腐っていた。黒と緑と茶色の混じった腐った血液がダラダラ流れている。腐った傷口に、びっしりとダニが引っ付いてウゾウゾ蠢きながら腕の肉を貪っている。
「ひいいいいいいっ!!!!」
彼の平常心は吹き飛んだ。彼の精神的にも意識、無意識問わずすべての枷がはじけ飛んだ。彼の内蔵していた自身の恐怖がすべて視覚化されたのだった。精神錯乱、では足りなかった。発狂した、といっても良かった。手足を振り回し滅茶苦茶な言葉を叫び、涙鼻水よだれ、大便小便全て噴き出しまき散らしながら彼は走った。ショットガンをぶっ放した。その衝撃でひっくり返った。また起きて暴れた。走って走って走り続けた。
葉山は先回りして木の上で待っていた。錯乱した坂祭がわめきながら走ってくる。葉山はA3サイズのスキャン用紙を下に向けた。タイミングを合わせて、坂祭が丁度下に来た時にre-emerging(再出現)ボタンを押した。ついさっきスキャンしておいた巨岩が出現し、坂祭の上に落ちた。ドッズーーーンンン!!!と凄い音がした。しばらく見ていると、岩の下から坂祭の血がじわああっと染み出してきた。
「ハシリドコロのお茶、ごちそうさん。」
木から降りると、葉山は岩に向かって言った。
自分の症状が幻覚と脳の機能異常、胃腸のけいれん、と見た葉山は、自分の症状を毒物中毒だと判断した。だとしたら管理人に毒を盛られたとしか考えられない。川の水を飲み吐く事を繰り返した。胃液が出ても止めず、何度も吐いた。そして少し休むと、目を覚ました時に幻覚は消え、症状も楽になっていた。手近なところで大きな石を探し、スキャンする。急いで管理小屋へ戻り、眠っている坂祭を起こさぬよう気を付けて、自分が振舞われたお茶と坂祭の普段用のお茶をすり替えておいた。案の定、坂祭は錯乱した、というわけだった。
「こいつ、こうやって山に迷い込んできた人間を殺してたのか。とんでも無い奴だな。」
スマホで調べると、自分が体験した症状はハシリドコロという植物のようだった。幻覚と呼吸困難、苦しくて苦しくて走り回る、とある。まさにこれだった。
「この依頼自体、訳わからんな。」
文句を言いながらも、リュックを抱え直し、少しふフラつきながら葉山はまた川の上流目指して歩き始めた。
END
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