04:ベーカリー・カタギリの昼下がり
「――それって恋だと思うけど」
アルバイト先のベーカリー。
化粧したアルパカみたいな妙な愛嬌のある先輩は、暇を持て余したのか、私の話に相槌を打ちながら不思議なことを言った。恋? 私が恋? あまりにも自分に不釣り合いな単語すぎて、頭の中に宇宙が広がっていく。うーん、恋か。
「よく分からない。人間の感情って」
「読子ちゃん、それ何かの妖怪かロボットみたいな発言になってるから……花の女子高生が淡々と吐いていいセリフじゃないよ」
「花の……女子高生……?」
ダメだ、脳内のビッグバンが止まらない。
――正直なところ、私にはまともな感情なんてもう残っていないと思っていた。
家族をみんな交通事故で亡くし、親戚をたらい回しにされ始めたのは小学校低学年の頃。暴力は振るわれなかったけど、親しくすることもなく、高校入学後は一人暮らしを始めることになった。それで、両親の残してくれた貯金を切り崩しながら、この先の暮らしについて考えてたんだけど。
「うちでバイトしない?」
一人の男の子がそんな風に声をかけてきたのは、私が教室の隅で、昼食に持ってきた食パンを千切って食べている時だった。
「……誰?」
「クラスメイトなんだけど……片桐幸平。俺の家はベーカリーをやってんだけどさ、今アルバイトを募集してて。望月さんはいつもパン食べてるから、どうかなって」
「……私、客商売に向かない仏頂面だけど」
私がそう言うと、片桐は何が楽しいのかワッハッハと笑い、心配いらないと言った。
「大丈夫。うちの店、ほとんど客来ないから」
「え……それはアルバイトを雇ってる場合なの?」
「収入のメインは、近所のホテルなんかにパンを卸すのと、有閑マダムを相手にしたパン作り教室なんだよ。店やってんのは親父の趣味でさ」
なるほど。客が来ないなら、愛想のない私でも店番くらいは務まるか。
「望月さんは所作が丁寧だから、パンを雑に扱ったりはしなさそうだし。前のバイトはそれで親父に叩き出されたからさ……あと、余ったパンは持ち帰れるよ」
「やる」
「おぉ、急にやる気じゃん。やっぱパン好きなんだ」
いや、単純にお財布事情だけど。
そんなこんなで面接に行くと、なんだか片桐父から妙に気に入られて即採用となった。片桐母からはたびたび夕飯にご招待され、水道水で空腹を紛らす機会もぐんと減った。アルバイトってすごい。
そしてそれ以降、私は片桐とよく話をするようになった。
「……読子って呼ぶのは馴れ馴れしいかな」
「大丈夫。片桐は最初から馴れ馴れしかった」
「え、そう? なんか照れるなぁ」
褒めてはいない。でも、片桐に下の名前で呼ばれるのはちょっと愉快だ。
「片桐、女子に呼び出されてたけど」
「あー、うん……妬いた?」
「私にそんな感情はない。それで?」
問い詰めてみると、彼は案外モテるらしいと分かった。片桐のくせに生意気だ。
「読子。週末、映画でも見に行かない?」
「……お金がない。服がない。シフトも入ってる」
その週末は片桐の部屋でネット配信の映画を見ることになった。片桐はずっとそわそわしてて、私は思春期男子って大変だなぁと思いながらコーラを飲んでいた。美味しい。
――そんな感じの片桐エピソードをアルパカ先輩に話していたところ、それは恋だと言われたのである。うーん。
「例えばね、読子ちゃん。幸平くんにキスされたらどうする?」
「やられたらやりかえす」
「うん……それは恋だよ……」
「あと、いくら先輩でも片桐を下の名前で呼ぶのはどうかと思う」
「それは恋だよ!」
そうなのかなぁ。やっぱりよく分からない。
そんな感じで、閑古鳥の鳴いているベーカリー・カタギリの昼下がりは、のんびり穏やかに過ぎていったのだった。
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