10話
二人は暗い廊下を離れに向かって駆け抜けた。
「今、がちゃんっていいました」走りながら利玖が上を見て言う。「何だろう。瓦かな」
ブルーシートが敷かれた和室の襖を開ける。
誰もいない、と思ったが、掃き出し窓の向こうに真波の姿が見えた。
彼女はこちらに気づくと、体を斜めにして手招きをする。ガーデンライトを軒先に集めてきているおかげで、彼女の真剣な表情がわかった。
靴を履き、窓枠を乗り越える。
外へ出てすぐ、左手に異様な光景が見えた。
匠が壁に背中を押しつけて両手を掲げている。掘削用の長いシャベルを持ち、柄の部分で、数時間前、史岐と真波がそこに立てかけたネットを押し上げていた。
全力で、建物から遠ざけようとしている。
それでも、
天を衝くように伸びていく茎の勢いに負けそうになっていた。
史岐はとっさに辺りを見回して、ブルーシートの隅に余ったスティックが束ねてあるのを見つけると、それを掴んで飛び出した。
匠の横に体をねじ込み、スティックの束をネットに当てて力いっぱい押し上げる。
すでに茎は、赤ん坊の手首くらい太くなっていた。近くで見ると、鋭い産毛をびっしりとつけている。匠が素手で触るのを避けた理由は、おそらくこれだろう。
頭上から時々、陶器がぶつかるような音が聞こえた。茎の先端が屋根まで届いて瓦を揺らしているのかもしれない。壁に取りつかれたら簡単に穴を開けられてしまうだろう。
どんどん重さを増してくるネットを全身の力で押し戻すうちに、茎が擦れ合う音が徐々に小さくなり、やがて、静かに止まった。
史岐と匠は顔を見合わせる。
互いに無言のまま、二回呼吸をした。
それからゆっくりと、ネットの外へ出る。
数歩離れ、振り返って見上げると、茎は先端を屋根の端に引っかけるような形で止まっていた。十六株分が高密度で絡み合い、ネットの支柱は完全に覆い隠されている。所々に丸いものが幾つかぶら下がっていた。夜が明けても、あの裏側はほとんど日が当たらないだろう。
「一旦止まったかな」匠が呟く。「いや、助かったよ。何本か切り落とさなければいけないかと思った」
「いえ……」史岐は何気なく根元を見て、違和感に気づいた。「直植えに変えたんですか?」
根が直接地面に食い込んでいた。最後に見た時には、横長のプランタに苗が植えられていたはずだ。
「ううん、違うの」真波が進み出て、ネットから少し逸れた地面を指さす。反対側の手に短い斧が握られていたので、史岐は思わず後ずさった。
「二、三分かな。ほんのそれくらいの短い間に、茎と一緒に根も伸びてきてプランタを壊してしまったの」
真波が示した先には、確かに、プランタの白い破片が散らばっていた。
「土地に馴染んで、直接霊気を吸い上げられるようになったんでしょう」匠が眼鏡を外して眉間を揉む。「この辺り一帯は地下水流に乗って、純度の高い霊気が巡っていますから」
「こんなに沢山吸い上げて、枯渇してしまわないでしょうか……」利玖が眉を曇らせてネットを見上げる。
「その心配はいらないわ」真波がきっぱりと言い、斧を脇に挟んで腕組みをした。「だけど、思っていた以上に変化が早いわね。業者の方に来て頂く時間を早めてもらえないか、相談した方が良いかしら」
「そうですね」匠が頷く。「少なくとも、この状況は知らせておいた方が良いでしょう」
「そうね……」真波は言葉を切り、少し考えてから匠を見上げた。「
「ちょうど、それを考えていました」匠が答える。「また今みたいな事があったら、この四人では対処出来ないでしょう。柑乃なら屋根にも楽に上がれます」
「こんな夜遅くに申し訳ないけれど」真波は小さなため息をつく。「せめて、美味しいごはんを食べてもらわなくちゃね」
真波は「よいしょ」と言いながらネットの脇に斧を置き、大きく伸びをした。
「あぁあ、わたしもお腹が空いたわぁ」それから体を捻って、利玖を見る。「カレーのある場所、わかった?」
「はい、美味しく頂きました。三人分くらいなら、まだあると思います」
「そうね……、どうしようかな、ラーメンっていうのもありだなあ……」
ぶつぶつと言いながら、真波は利玖達に背を向け、庭を横切って母屋の玄関の方へ歩いて行った。
「僕も食べてくるよ」匠も体の向きを変えて片手を広げる。「すぐ戻ってくるから」
庭に残った利玖と史岐は、並んで立ったまま、今や怪物のような存在感を放つようになった植物を見上げた。
「あの丸いの、なんだろう」史岐が先に口を開く。
「なんでしょうね」利玖も同調して首を傾げる。「茎の先についているものよりも、根元に近い方が先に膨らみ始めたので、たぶん蕾かと思いますが……」
蕾はどれも均整の取れた球形で、かなり大きい。グレープフルーツくらいだろうか。ついている高さはばらばらだったが、数えてみると全部で十六個あり、一株につき一個の蕾がついていると考えるのが一番簡単だ。
明かりを使って近くで見てみたい、という欲求が利玖の中に湧き起こった。
「近づいても大丈夫だと思いますか?」
「大丈夫な訳がないと思うけど、でも、例えば、中で毒虫が育ったりしていたら、早めに切り取った方が良いよね」
「怖い事を……」利玖は史岐の顔と蕾を見比べる。「トゥース・フェアリー仮説はどこにいったんです?」
「前例があるからね、ここは」
史岐は昨年の大晦日の事を話しているのだ。あの時は、母屋の裏庭にハリルロウという妖の幼虫が居ついてしまい、羽化する際に毒性のある妖気が放出される危険がある事がわかってからは史岐を含む客人まで巻き込む大騒動になった。
やはり、一度蕾を見ておいた方が良い、という結論になり、二人は庭の隅から脚立を運んできてネットの前に立てる。
どちらが上に行くかで少し揉めたが、最終的に利玖がステップに足をかけた。史岐が落ちてきたら受け止められない、という主張が決め手である。しかし、もちろん本音は別にある。
「下の方じゃ駄目なの?」脚立を支える史岐が控えめな抗議を続けている。
「そちらは史岐さんに見張っていて頂きたいんです。蕾が形成された時の状況から考えて、今後、さらに変化が起きるとしたら、まず根元に近い方が先でしょうから。史岐さんが異変に気づいた時点で、すぐにそれを知らせてくれれば、わたしも危険に備える事が出来ます」
「すらすら話すなあ」
史岐の声を背後に聞きながら、利玖は脚立を上った。
天板を腿で挟むように座って蕾の一つに顔を近づける。ペンライトの先端でそっと持ち上げてみると、中はほとんど空洞のようで、簡単に動いた。
素手で触るのを避けた理由は、何らかの毒性がある物質で表面を守っているかもしれない、と考えたのが五パーセント。残りの九十五パーセントは、人間が手で触れる事で蕾を傷つけてしまうかもしれない、という危惧によるものだ。
もし、花が善意で自分の一部を分けてくれたなら、思いつく限りの手段を用いてそれを調べるのに、と思った。
自分の興味は、動物よりも、植物に強く引かれているのかもしれない。
例えば、くじ引きで花見の場所取り要員になった時。こんなに沢山あるのだから、一回くらいは蕾がほころんで花になる所が見られるだろう、と桜の根元に座っていた。だが、気づいた時には他の満開の花に埋もれて、最初の蕾が見つけられなくなっていた。
もっと昔に遡ると、小学校低学年くらいの時。母がサボテンの胴切りをする所を見た。この奇抜な植物の中にはどんな秘密が隠れているのだろう、とわくわくしながら断面を覗き込んだが、満遍なく薄い緑色のゼリィのようなものが詰まっているだけで、少なくない落胆を感じた。砂漠で生きているのだから、水分を蓄える事が何よりも重要なのだと理解はしていたが、ならば一体どのような機構がそれを可能にしているのか、二つに割って中身を見たら、さすがに少しはわかるんじゃないかと思ったのだ。
この花も、もとより既知の
花弁は全体が濃い色に染まっていて、ペンライトの光もほとんど通さない。上品な深い紫色は、まるで魔法の国へ続く扉を覆い隠している
前のめりになっている自分を意識する。
利玖はペンライトを消し、一瞬だけ目を閉じて深呼吸をした。
「形が変わっているだけで、特におかしな所はないようですが……」
話し始めた時、足元で大きな音がした。
脚立がぐらつく。
びっくりして下を見ると、史岐が脚立に手をかけたままずるずるとしゃがみ込む所だった。
「史岐さん?」
返事がない。
片手を振る。
それが、助けを求めているように見えた。
利玖は脚立から飛び下りる。史岐のそばに膝をつき、話しかけようと口を開いた瞬間、鼻の奥でぷつっと何か弾けるような感覚がして生ぬるいものが溢れ出してきた。鉄臭く、粘性の高い、その液体が頭部全体の重量の均衡を崩したように視界が傾いていく。
とっさに左肘を地面について、体が倒れるのを防いだ。
顔の前面を触ると、手に血がついた。
体から力が抜けていく。喘ぐように、必死で息を吸おうとすると、熟れた果実を口いっぱいに含んだような芳醇な香りが胸を満たした。
利玖はようやく、ネットの方に目を戻す。
根元に最も近い蕾が満開だった。今感じている香りは、その花が放っているものだ。
彼女の視線は、もう少し高い所にある蕾に吸い寄せられる。その蕾は、まだ開き切っていなかったが、明らかに変化が生じていた。遠心力で水分を行き渡らせようとしているかのように、付け根から前に後ろに、円を描いて揺れている。昔、博物館で見た事のある、地球の自転を証明する為の振り子のようだ。そんなとりとめのない事を、ぼうっとした頭で考える。
やがて、仮縫いの糸が抜かれたように、ふっとすべての花弁がほころんだ。
さざ波に擦られるように、かすかに震えながら反り返り、花の内部が少しずつ見えてくる。
吸い込まれそうな濃い色の花弁の中心に、胡粉を散らしたような斑点があった。そこから二種類の管が伸びている。
上から伸びる管には、先端にラグビーボールのような袋がついている。花粉が詰まった
花の匂いが一層強くなった。
強烈な眠気にも似た脱力感が全身に広がっていく。
まだ、
目を閉じたくない。
最後まで見ていたかった。
しかし、利玖の意識は闇に沈む。
その時も、
最後に思ったのは、
美しい、だった。
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