4話

「はい、では、次で最後です。十六個目」

「左の第三大臼歯」

 史岐は今しがた教わったばかりの専門用語を復唱しながら歯をサプリメントケースに収め、ぱちんと蓋を閉じる。

「良いのかな、新品なのに……」

「道具にとって一番の不幸は、人に使われなくなり、忘れられてしまう事だと何かで読んだ気がします」利玖は手元に置いた複写紙にボールペンでチェックをつける。「それが事実なら、洗面台の下の暗がりで放って置かれるよりはましかもしれません」

 利玖はボールペンを置くと、複写紙に顔を近づけてじっくりと眺め、最後に微笑んだ。

「──よし、全部ありますね。大丈夫」

 サプリメントケースにすべての歯が収まったかどうかのチェックリストに使われている、その複写紙も、かつて彼女自身が歯医者で作ってもらった検査結果である。たまたま歯の種類と数が一致したからといって、そんな風に使って良いのだろうか、と思ったが、他に有効な活用方法も思いつかないので史岐は黙っていた。

 匠は「荷物をまとめておきなさい」と言い残して行ったが、何を差し置いてもまず初めに梱包に取り掛かるべきなのは間違いなく、この得体の知れない歯だった。だが、入れ歯ならまだしも、ばらばらに散らばっている十六個の歯を持ち運ぶのに適した容器など、そう簡単には見つからない。

 ジャムの空き瓶、ミニサイズのタッパ、デパートの高級焼き菓子が入っていた缶など、いくつかの候補が出た所で突然、

『あ!』

と利玖が洗面台の方へ走って行き、戻ってきた時には、透明なフィルムがかかったままのサプリメントケースを持っていた。

 以前、頭痛の頻度を減らせないかと試みて、ドラッグストアでやや値の張るビタミン剤を買った時、おまけでついて来た品だという。おそらくは、外出先でもそのビタミン剤を欠かさず服用出来るように、という配慮だったのだろうが、公の場で薬を飲む習慣がない利玖は自室の薬箱にビタミン剤を仕舞い、サプリメントケースの方は、とりあえずの保管場所として洗面台下の収納に放り込んだまま、今日まで存在を忘れていた。

 サプリメントケースは片手に乗るくらいの大きさだが、厚みがあって、中は二層に区切られている。両側に蓋があり、表と裏にそれぞれ別の薬を収納出来る作りになっていた。

『プラスチックの仕切りがあるので歯同士がぶつかって損傷するのを防げますし、両面を合わせてちょうど十六個入りますよ』

 とっておきの宝石を見つけた少女のような笑顔で、利玖はそう説明した。もしサプリメントケースに中身が入っていても、ひっくり返して歯を詰めたに違いない。

 すべての歯をサプリメントケースに収めた後、不注意で蓋が開かないようにテープで止めていると、窓の下からエンジン音が聞こえた。

 カーテンを持ち上げて外を見て、史岐はぎょっとする。匠の愛車であるグレーのSUVが駐車場に進入して来る所だった。

「嘘でしょ」史岐は思わず呟き、腕時計で時間を確かめる。「まだ十五分しか経ってないよ。君のお兄さん、魔法でも使えるの?」

「スペアキーでわたしの自転車を使ったんですよ」利玖も背伸びをして外を覗いた。「あ、兄さん、道路の方に寄せていますね。急がないと」

 荷物をかき集めて駐車場へ下りながら、利玖の言葉の意味を考えた。

 匠は自分の鞄だけを持って出て行った。どこかからスペアキーを持ち出すような素振りはなかったはず。

 おそらく、兄妹がそれぞれの自転車のスペアキーを一つ余分に作って、取り替えて持っているのだろう。潟杜市は北から南に向かって下り勾配の地形をしており、利玖はほぼ北端に、匠は中心部に近い南側に住んでいる。この二つの拠点の標高差が、自転車を使った場合の移動時間を大幅に短縮するファクタになり得ると判断され、緊急時にはタイムロスなしで自転車を共用出来るシステムが編み出されたのではないか。

 ちなみに、史岐のマンションと利玖のアパートを結ぶ経路は、丘のように盛り上がった住宅街を越えていく東西方向の移動になり、どちらから歩いても上り坂と下り坂の長さがあまり変わらないので、このシェア・システムを取り入れるメリットは少ない。

 そんな味気ない計算をしながらSUVの後部座席に乗り込み、ドアを閉めると、車はすぐに動き出した。片側一車線の狭い国道を北に向かって猛進していく。

「どこに行くんですか?」信号を二つ通り過ぎた所で、ようやく史岐がそれを訊いた。

「実家」すぐに匠が答える。一瞬、彼の視線がルームミラー越しに後部座席を見た。「今さらだけど、史岐君、暇?」

 すでに市街地はサイドミラーからも消え失せ、車は薄暗い山間の道を飛ばしている。

「大丈夫です」外泊の準備などしてきていないので、そんな事を口にしてはいけないのだが、ここで降ろされても為す術がないので史岐は微笑んだ。

「就活は?」今度は隣にいる利玖が、容赦のない質問を投げかけてくる。

「まだ、面接が入ってくるような段階じゃないから……」史岐はサプリメントケースに視線を移した。「あの、持っていて大丈夫なんですか、これ」

「まだ伸びてる?」匠が前を向いたまま訊く。

「最初に発芽した歯は成長が止まったみたいです」利玖がサプリメントケースを目の高さまで持ち上げて答える。「いい加減、歯と呼ぶのは無理があるかもしれませんね」

「そうだね」匠が頷く。「じゃあ、暫定だけど、今後は種として扱う事にしよう」

「何の種でしょうか……」

 しげしげとサプリメントケースを眺め回していた利玖が、ふいに「あっ」と声を上げた。

「これ──犬歯? 別の歯にも今、ひびが入っています」

「目を離すと一気に成長するのかもしれないね」匠がアクセルを踏み込んだ。「僕は後ろを見ていられないから、頼む」

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