2話
合鍵を使って入ってきて良い、と許可をもらって利玖のアパートに向かった。
車を出すほどの距離ではない。最後の横断歩道を渡る手前でコンビニエンスストアに寄って、コーヒー牛乳とチョコレートを調達した。
チェーンは外してもらうように頼んである。チャイムを鳴らさずにドアを開け、
「来たよ」
と告げると、リビングの方から返事が聞こえた。
あまりはっきりとした声ではない。マスクでもつけているのだろうか。
靴を脱ぎ、一旦キッチンを通り過ぎたが、ふと胸騒ぎがして数歩後退。二本買ったコーヒー牛乳のうち、自分で飲むつもりだった一本を冷蔵庫に入れ、改めてリビングに向かう。
利玖は左の壁際で、デスクに覆い被さるような姿勢だった。
卓上ライトの光源が浅い角度で手元に向いている。マスクをつけ、かすかに眉根を寄せた真剣な表情だった。両手に薄いゴム手袋をはめて、白い欠片を慎重に並べ替えている。
史岐は後ろから近づき、利玖の肩越しにそれを見た。
「うわ、本当に歯だ」思わず一瞬、息を止めてしまう。「──本物?」
「いえ、たぶん、良く出来た作りものです」利玖はマスクを取って振り向いた。「もっと多孔質な……、木とかじゃないでしょうか。専門外なのでわかりませんが」
デスクの上には調理用のクッキングシートが広げられ、ずれないようにテープで留めてある。
そこに、何かの歯が一揃い。
ちょうど歯医者で渡されるカーボン・コピィのように、十六個が半円形に並んでいた。
歯茎のように、垂直方向に歯を固定する役割の物がないので、根元を内側にして倒されている。自分の体でもそうなっているように、同じ形の歯が二つずつのペアで左右対称に展開していたが、数からして、上か下のどちらか片方の顎の分しかないのではないか、と思えた。
「起きたらこれが、キッチンにあったって?」史岐はチョコレートの箱を開け、端から一つ取って利玖に食べさせる。
「…………」利玖は無言で頷く。チョコレートが口に入っているから喋れないのだ。
「一つで足りる?」史岐は続けて訊いた。
今は、午前十一時を少し過ぎた所。キッチンも綺麗に片付いていたし、利玖の性格からして、歯を見つけてから今までずっと、食事を取るのも忘れて観察に没頭していた可能性が高い。
案の定、利玖は口もとに手を添えて申し訳なさそうな顔で史岐を見ると、ゆっくり首を横に振った。
チョコレートを三つ消費して、会話を再開した。
利玖はゴム手袋を外して、デスクの引き出しを開ける。一筆箋のような細長い紙を取り出して、史岐の前に置いた。
『そだててください』
という言葉が縦書きされている。ワープロで書かれた文字ではない。だが、ボールペンとも鉛筆とも違うようだった。滲み方が著しく不均一で、色も濁っている。水気の多い木の実を潰して、その汁を擦り付けたような文字だ。
「歯と一緒に、これが置かれていたんです」
「育ててください、か……」史岐は読み上げる。「どういう意味だろうね。牛乳に浸けるとか?」
「コップ一杯分くらいなら惜しみはしませんが……」利玖は思案顔でコーヒー牛乳のパックにストローを差す。「あとで何か、おかしな事にならないでしょうか。ここ、賃貸ですから、壁や天井に傷をつけるわけにはいきません」
「そんな童話があったよね」
「史岐さんだったら、どうしますか?」
「うん……」史岐は書置きと、デスクに並んだ歯を見比べる。「まず、通報するかどうかを決めるかな」
「通報?」利玖はびっくりしたように顔を上げた。まったく予想外の答えだったようだ。「あ、そうか。本当に人体の一部だったら大ごとか……」ストローでコーヒー牛乳を吸いながら、利玖は天井を見上げて眉をひそめる。「うーん、でも、普通の歯には見えないんですよね……」
「僕は生き物の事には詳しくない」史岐は箱を開けて、自分の為にチョコレートを取り出した。冷蔵庫にあるコーヒー牛乳はたぶん飲めないだろう、と思いながら。
「匠さんに訊いてみたら?」
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