第15話 なんにせよ、もう遅いのです
故郷の父母、兄たちと仲良く暮らした記憶も、ペトリ辺境伯家がなくなったと聞いたあの絶望感も、私にとってはヴィンチェンツォという新たな希望を支えるための薪にすぎません。
その薪を、私の心の炉にはいくらでもくべましょう。燃やして、燃やして、目の前の凍っていても花弁から毒が滴るような女性に立ち向かう大炎とするのです。
冷徹な眼差しで、大上段から見下してくるアナトリアがこう言います。よほど私がヴィンチェンツォの名前を出したことが気に入らず、婚約なんてまだ撤回できると信じているかのようです。
「撤回しなさい。嘘を吐きました、と謝るならば許して差し上げますわ」
「できません。先日、私はヴィンチェンツォ様と婚約したのです」
「口約束でしょう」
「ヴィンチェンツォ様が口約束で婚約するような方だとお思いですか!」
一瞬だけアナトリアは口から出かけた言葉を止め、激しく怒ります。
「あなたがヴィンチェンツォを語るなど烏滸がましい! 恥を知りなさい!」
「恥などどこにもありません! ええ!」
私は自分の胸を拳で叩き、気合を入れます。サブリナとエドヴィージェが最悪の事態——私があっさり殺されて、隠蔽される——は防いでくれると信じて、勢いよく言葉を突きつけます。
「いいですか! 私は、あなたに絶縁状を突きつけてこい、とヴィンチェンツォ様に命じられたのです。命じられたのでなければ、こんな怖いことをするわけがないでしょう!」
その瞬間、ギリィ、と歯が砕けそうな歯軋りの音がしました。びっくりしているうちに、アナトリアが目を見開き、その大きな口が裂けるかと思うほどに凄まじい勢いで言葉を吐き出します。
「何を言っているのかしら! ヴィンチェンツォは私のもの! あなたのような田舎貴族の娘がその身どころか目にさえも触れていい人間ではありません、しかも『
——それは、私も正直、気に病んでいた。
——レーリチ公爵家の男性、公子様が元貴族令嬢を妻に迎えるなんて、ヴィンチェンツォが帰ってきてから「やっぱりやめた!」と言ったっておかしくないのだと、今でもそう思っている。
——でも、それの何が悪いのだ。
——それでもいいのだ。故郷と家族と民を救ってくれるのなら、私はヴィンチェンツォの望みを叶えなくてはならない。スカヴィーノ侯爵家令嬢アナトリアとの縁を切りたいと言うのなら、そうして差し上げるのだ。それしか、私には恩返しの方法がないから。
そのためなら、私は、退きません。
「はい。まったく、そう存じております」
「であれば身を引くことね!」
「それはできません。私の肩には、少なからぬ人々の命運がかかっております。ヴィンチェンツォ様に助けてもらわなくてはならないのです」
「ゴミのような貧民の命など、いくらあってもゴミですわ! いなくなろうと増えます、しかし貴族はそうはまいりません! あなたもよ、ユリア! 『
さすがにアナトリアのその本音を聞いて、サブリナとエドヴィージェは顔をしかめていました。人を人とも思わない、貴族以外は人間とさえ思っていないような、典型的な貴族思想。あまりのひどさに、この
それ以上、汚い言葉を聞く必要などありません。
私は、最初で最後の提案をします。
「では、アナトリア様。あなたがペトリ辺境伯領を助けてくださいますか?」
予想どおり、アナトリアは私の提案を鼻で笑いました。
「なぜ私が縁もゆかりもない家を……第一、辺境の蛮族に負ける程度の家など、なくなって当然ですわ。貴族としての義務も果たせていないではないの」
耳の痛い言葉ですが、それは間違っています。ですが、ここは間違いを正す場所ではなく、私はアナトリアの歪んだ優生思想を直してやるなんてこれっぽっちも思いません。
アナトリア。あなたはそう思われるでしょうが、私は違いますし、何よりヴィンチェンツォはあなたを毛嫌いしている。それだけで、私が正しいと思うことが間違っていないのだと、信じることができます。
そして、それを言う必要はないのです。正す機会さえ与えてやりません。
私は、手元にあった卓上ベルを手に取って振りながら、思いっきり、隣室へと叫びました。
「お聞きになりましたか! これで十分でしょう、両侯爵閣下!」
両侯爵閣下、という滅多に聞かないであろう敬称に、私だけでなくアナトリアも思わず隣室——正確には、飾り棚と衝立で隠されていたその向こうにある扉へと目をやります。
ガチャリ、とドアノブが傾き、扉の開く音がしました。
複数の足音が、やってきます。
そのわずかな時間の間に、アナトリアは頭を回らせて今後を予想し、後悔したでしょうか。
なんにせよ、もう遅いのです。
さっと現れたホテルマンに衝立がどけられ、先頭にいるペネロペが得意満面に引き連れてきたのは——スカヴィーノ侯爵、タドリーニ侯爵、そしてメインキャストのレーリチ公爵でした。
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