気付くと、私は公園のベンチで眠っていた。

 あたりを見渡すと、人はいない。

 小さな鳩が地面をつつくその音だけが、やけに鳴り響いていた。


 彼のことを思いだす。

 数時間前の出来事のはずの、あの夜は現実だったのだろうか。


 私が遠い昔得意だった妄想がまた酷くなり、幻覚を見ただけなのかもしれない、という考えがふと頭をよぎる。


 いや、そんなことはないはず。

 私はこの目で、この心で、彼を知った。


 月明かりに照らされる、あの彼の横顔。薄く揺れる毛先。

 鮮明に思い出されるあの光景。



 月がどうしようもなく、輝いていた。



 記憶が零れないようにと、焦点をあわせて姿勢を正す。


 人より倍は遅いであろう、私の胸に宿ったこの感情。

 起き上がるのが遅かったため、その反動か、心は激しく揺れていた。


 何もかもが初めてで、動揺の一言では形容しきれない。

 意識をするたび何かが思い起こされていくようで、胸の内が高揚しきっていた。




 彼は何という名前なのだろう。




 私は彼のこと、何も知らない。

 知っているのは、あの優しい声色と、横顔と。



 そして、世界中の悲しみを受け取ったような心。



 全てを悟ったように、言の葉をゆっくりと編む彼。

 寂しさが美しく彼の周りを纏い、艶やかにそれを放っていた。




 明日もこの場所に来れば、彼に会えるだろうか。


  


 初めての感情と初めての淡い希望を抱き、私はベンチを立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る