〈8-蓮〉デート
試合が終わって寮に帰ると、俺は私服に着替えた。今日は出かける用事があるから自主練はパスするとみんなに伝えてある。
直井と大滝は藍のことを知っているから、黙って背中を押してくれた。
時刻は夜の7時を回っている。もうだいぶ藍を待たせていることになるが、試合のあとにはミーティングもあるしこれが精一杯だ。
街中を早足で歩いて、目印にしていたイタリアンレストランの前にやってくる。寮からほどよく離れていて、チームメイトにも見つかりづらそうだ。
「お疲れ様。今日はナイスゲームだったな」
藍は店の駐車場に立っていた。フリルのついたブラウスにロングスカート。いつも束ねている黒髪は自然に流していて、清楚感たっぷりの出で立ちだ。
「藍も来てくれてありがとな。本当は俺の方から行きたかったんだけど」
「男子の方がスケジュールは詰まっているだろう。女子は週に4試合だから都合をつけやすい」
相変わらず俺を責めない。
「とりあえず入ろうぜ。予約は取ってある」
「ああ、ありがとう」
二人で店に入ると、すぐ席に案内してもらえた。まずは定番の生ハムから注文し、次にピザを頼む予定だ。
「ノーヒットでヒーローになるのは蓮らしかったな」
「お、俺だってヒット打ちたかったわ。でもあの場面は最低限のことができればよかったんだ」
「わかっているよ。相手ピッチャーも速かったし、正直きついだろうと思いながら見ていた。むしろよく外野まで持っていけたじゃないか」
「これでもそれなりに打席数はもらってるからな。150キロのストレートは目で追えるくらいにはなってる」
「いいことだ。私が130キロに合わせるのと同じようなものだろうな」
「藍もここんとこ好調だよな。打率もいいし」
褒めたつもりだったが、藍は眉を寄せた。
「ダメだ。今のままじゃ首位打者にはとても届かん。このままではプロ入り1年で蓮にプロポーズする目標が果たせない」
「そんな簡単な世界じゃないって、頭ではわかってるだろ?」
藍は、当たり障りのないことを言うよりはっきり言葉にしてやった方が素直に受け取ってくれる。遠慮されると逆に機嫌を損ねるタイプだと、俺は学生時代に勉強した。
「……正直、生身のピッチャーが投げる140キロが打てれば女子プロでは通用すると思っていた。だがそんなものは幻想だった。コーナーに120キロを決められれば打つのは難しい」
「ピッチャーは球速だけじゃないからな。女子は緩急もきついだろ」
「……そこが一番苦労しているところだ」
男子ならストレートが150キロ、変化球が130キロ台といった具合に直球と変化球の球速差は2、30キロ前後のピッチャーが多い。
だが女子プロは、ある時期から大きな球速差を活かした投球が流行り始め、ストレート120キロに対し変化球は80キロ、70キロ台というピッチャーもかなり存在する。
俺としても、そんな緩急を使われたら打てる自信がない。
「なんだっけ、川船さん? あの人すごいよな。マックス138でカーブが80キロだろ? すごすぎてイメージ湧かないな」
「それを、同じ腕の振りで投げてくる。男子でも苦労すると思うぞ」
「ホント、よくそんなピッチャーからホームラン打ったよな」
「あの時は代打だったから狙いを絞りやすかった。1試合を通して立つと上手くかわされてしまう」
思い出したのか、藍は悔しそうな顔をした。そんな表情もかわいい。
二人でピザを分け合いながら、最近の試合の話をした。
「それで、蓮はどうなんだ。遠距離になってしまったが、私と続けていけそうか?」
「もちろん。試合と練習はしっかり集中して、寮に帰ったら藍の顔を思い出してる。今はすごく充実してるよ」
「そ、そうか。やはり、離れているとどうしても不安になってしまってな……」
「でも、俺たちは恵まれてる方だと思うぜ。本拠地が東京と神奈川だ。電車で行き来できる距離だし、お互い他の球団だったらこんな風に会う機会はなかったはずだ」
「あ、ああ。選ばれた球団的にも、私たちは結ばれていたんだな」
「その言い方、なんか恥ずかしいな」
「ふふ、蓮が元気づけてくれたのが嬉しくてな。プロになってからどうも情緒不安定でつらかったが、蓮がいてくれてよかった」
「朝倉さんだっているだろ?」
「風花も大切な親友だが、彼氏はまた別の存在さ」
ストレートな言葉に、勝手に顔が赤くなる。藍は急に差し込んでくるから心臓に悪い。
「蓮、いい店を見つけたな。さっきの生ハムもこのピザもおいしい」
「たまには贅沢してもいいかなって思ってさ。お前も寮で食事してるんだよな」
「そうだぞ。体調維持に気をつかったメニューになっている。そのぶん、間食に気をつけないとすぐ太りそうだ」
「女子は太るの、やたら気にするよな」
「当たり前だ。ほとんどの人はスラッとした体型を理想としている。私だってそうだぞ」
「だったら今は理想的だと思うが」
普通の感想だったのだが、藍は頬を染めた。
「わ、私の体つきは悪くないか?」
「むしろいいよ。スタイルよすぎて、本当に俺なんかが彼氏でよかったのかなって高校時代から思ってたぜ」
「そ、そんなことを気にする必要はない。蓮は素晴らしい彼氏だ」
妙な褒め合いになって、若干気まずい間が訪れる。
「ま、まあ、蓮が思うほどスタイルはよくないんだけどな。服でごまかしているところがたくさんある」
「そうなのか? ユニフォームだと逆に体型が目立つと思うけど」
「い、色々あるんだよ」
また藍が赤くなった。表情のわかりやすい奴だ。
その後、俺たちはゆっくり食事を進めてレストランを出た。
二人でのんびり街を歩く。長野に比べればどこも人が多い。そんなことに驚くのはいかにも田舎者って感じだ。
小さな公園が右手にあった。誰もいないし、周辺を歩く人の姿もない。
「藍、公園に寄っていこう」
「私もそう言おうと思っていたところだ」
中には滑り台と砂場があるだけだった。ブランコに並んで話すという憧れのシチュエーションができないので、ベンチに寄り添って座る。
「久しぶりだ、この感覚……」
藍が俺の肩に頭を乗せて、柔らかい声で言う。かすかに香水の香りが漂ってくる。
しばらく沈黙が続いたが、やがて俺が耐えられなくなった。
高校を離れて以来、ずっとできていないことがある。
「なあ、藍……」
「どうした?」
「キ、キス、してもいいか……?」
俺はためらいつつ切り出した。シーズンが始まってからは映像越しに藍の姿を見るばかり。直接会える今日はお願いすると決めていたのだ。
「……実は、私も同じ気持ちだったよ。これからまたとうぶん会えないだろうしな」
「じゃあ、いいのか?」
「うん。蓮の方から来てくれ」
「わ、わかった」
藍は顔を向けて、じっと俺を見ている。怯んじゃダメだ。ここはまっすぐ行かないと。
俺は顔を近づける。相手は目を閉じた。
藍の肩を抱き寄せながら、俺はゆっくり口づけする。まだデザートの香りが残る口元。藍の唇に、俺の唇が沈み込んでいく。
「んぅ……」
彼女が甘い声を漏らす。その声がたまらなく愛しくて、抱き寄せる力が少し強くなった。
久しぶりのキスで体温が一気に上がっている。季節のせいじゃない。俺たちの恋が燃え上がっているのだ。
俺は右手を動かし、藍の胸に触れた。軽く握ってみると、指が沈む。
藍はビクッとして目を開けた。俺は思わず唇を離す。
「さ、触るなら先に言え。びっくりしたじゃないか……」
「す、すまん……」
情熱的な空気が吹っ飛んでしまった。キスで熱くなって自分が抑えられなくなった。……ああ、言葉にすると最低だなこれ。体目当てって思われてしまっただろうか。
俺が固まっていると、藍は俺が触った左胸に両手を重ねた。
「今日は食事をして歩くだけのつもりだったから、準備してこなかったんだ。帰って素振りもしようと思っていたし」
「どういうことだ……?」
「だ、だから、今日はスポブラなんだ。しょ、勝負下着みたいなものはつけていない」
「あ、ああ、なるほど……」
触られたのが嫌だったんじゃなくて、そっちが気になったのか。
思ったより硬いな……なんて失礼にも考えてしまったがその影響もあったようだ。
「ま、まったく蓮は何をやっているんだ。どさくさに紛れて人の胸を……」
「わ、悪かった。次はちゃんと先に言う」
「下手な手つきだったら怒るからな」
「う……れ、練習します」
「練習? 誰で?」
「あっ、そ、そういう意味じゃない! 心構え的な話だ!」
焦って声が裏返る。あたふたしていると、藍は表情をゆるめた。
「ふふっ、やはりお前は純情そうで信頼できる。そういう真面目な人柄に惚れたんだ。変わらないでくれよ」
「……ああ。もっと大人の余裕を持ちたいけどな」
「そのうち成長するんじゃないか? お互い、年上の相手に囲まれて生活しているんだ。いいところはどんどん吸収していこう」
「そうだな」
「だが、女遊びだけは絶対に真似するんじゃないぞ。お前には私がいるんだから、それを忘れないように」
「もちろんだ」
ここはしっかり返せる。
「藍の横に堂々と立っていたいからな。俺は藍しか見てないよ」
「ふふっ、それでこそ私の彼氏だ」
藍は笑って、また俺の肩に頭を乗せてくる。
「もう少しだけ、こうしていていいか?」
「いいさ、いくらでも」
俺たちは街灯のかすかな明かりの中で、何も言わずに寄り添いあっていた。
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