第1章 運河壁市場

マリラの眼は遥か地平線の彼方を追った。

「問題は玄街の先制攻撃だ。本拠地を掴む前に本船や各地の屋敷への奇襲を防ぎたい」

「捜索範囲の絞り込みを急ぎます。先日のテネ城市掃討作戦で捕えた玄街ヴィザーツと拠点捜査から可能かと」

「トペンプーラ、少しは眠っているか」

「ワタクシ、余裕綽々でございます」

「そうか」

「気になることが有るようですネ、女王」

マリラは小さく首を振った「プライベートなことだ」


 トペンプーラは小声で言った。

「紋章人はこの数年、各地の屋敷で地上配備訓練をこなし、政治上の慣習も身につけております。それにワタクシが選び抜いた連絡員が彼女の傍に居ります」

「そなた、私の弱点をよく分かっておるな」


何度かカレナードと同衾したトペンプーラは、女王が紋章人に心理的に依拠する部分を感じていた。

「彼女は女王の荷の半分を背負いつつありますから、失ってはなりません」

「そなたの心遣い、嬉しく思う。紋章人にも我にも、よく尽くしてくれる。彼女がそなたのペントハウスに泊まるはずだ」

女王の言葉に、彼は思わず頬の黒子をつついた。

「女王の大切な方をお借りしましたこと、恐悦至極に存じます」

「良いのだ。彼女を解禁したのは私なのだから。ただし、同衾の相手は全て報告させている。それが私と紋章人の約束だ」

「紋章人の将来をお考えなのでしょう」

女王はふふふと含み笑いをした。


 テッサの最初の仕事は、入れ替わったテネ城の人員の顔と名を覚えることだった。傍仕えの女官は全て新顔で、何人かは外れヴィザーツ屋敷出身だ。女官の物腰は柔らかく、テッサは初めて貴婦人として、また一人前の領国主として扱われた。

 それでも時に白面の家庭教師を思い、得体の知れない苛立たしさに襲われた。

「ローザ、いや、グウィネス。なぜ一言も告げずに去った。お前にとって私は取るに足らない存在だったのか」


 彼女は両親の写真を手に取った。花の縁飾り付きの写真立てに父と母、赤ん坊の自分が納まっている。少し微笑んだ母。しっかりと髭を蓄えた父。生きていれば話すことがたくさんあったろう。玄街につけ込まれることもなかったろう。

「私は自分を恥じているのだな」

写真を胸に抱き、領主の昼の居間を出た。女官に付いてくるなと手で合図して小図書室に入った。独りになると涙があふれた。

「父上、母上、寂しゅうございます。人前では泣けません。領国主ですから。でも、ここではかまいませんね」

彼女は知らなかった。部屋の奥、隠し扉のへこみで、カレナードが気配を殺していた。


 翌朝、カレナードは男装で現れた。草色のブラウスにゆったりしたズボン、さらに丈の長いベストを羽織っていた。やや大股で歩き、仕草が変わっている。

「朝食を御一緒いたします。本日の私はほとんど男です。あとであなたも私と同じ服をお召になっていただきますので、参考になればと」

「どういうことです、訳が分からない」

「お忍びで城下の視察に参ります」

「お、男に化けるなんて……」

「髪は帽子に入れていただきます」

カレナードは丸パンを真っ二つに割った。テッサは「下品じゃ」となじったが、食後には変装した自分を何度も鏡に映していた。


「で、私の名はテリーで、お前を兄さんと呼ぶのだな」

「そうです。カレナード兄さんです」

 帆布の白い肩掛け鞄に護身用の道具を忍ばせ、2人は修復工事の車両に混じって城門を出た。女官数人と護衛が距離を置いてあとに付いた。


「テリー、ここが運河壁市場です」

「それくらい知っておる!」

第一運河沿いの市場は川魚の匂いで充満していた。テッサは逃げるように市場を抜けてから、振り返った。

「魚をさばいていたようだが、塵はどう処理しているのだろう。これだけの大市場だ」

「北新市街にある肥料工場に専用トラックで運んでます。10年前までは荷馬車だったようですが」

「そうか。市場の汚水はそのままか」

「そこまでは知りません。誰かに聞いてみては」

「わ、私が尋ねるのか……」


 カレナード兄さんは微笑んだまま動かない。少女領主は周囲を見回した。市場中央に排水溝が通り、彼女の眼の前で運河へと折れている。運河手前で鉄の蓋が八つ並んでいた。その一つを開け、茶色の液体を流し込んでいる若者がいた。テッサは話かけた。

「おっ、おはようでござる。い、いや。その、な、何をしているのかと。その水は」

防水エプロンをした若者はこっちへ来なと手招きした。彼は茶色の水を計量カップに入れて差し出した。

「坊主、これ嗅いでみな」

灰と酢を混ぜた香りが鼻孔に刺さった。テッサはくしゃみした。


 若者はへっへと笑った。

「なかなかの匂いだろ。これを一番手前の止水漕に入れて12時間以上置く。夏場は18時間だ。市場の汚水はかなりきれいになる。止水漕に細かい滓が溜まるから、市場の休日に排水して掃除するんだ。中を見るなら鼻つまんでな」

蓋の下で魚の血や臓器が渦巻いていた。テッサはこくりとうなずいて蓋を置くよう合図した。

「坊主、掃除を見たけりゃ汚れていい格好で来るんだな」

「すまなかった。仕事の邪魔をした」

「いいってことよ」

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