赤根梨加 3
——困ったな。こういう時って断って出づらい。でも、今の時間からネイルなんて。何かが食べられると思ったから入ったのに……。それに、うちのお客様に間違いないようですよって何……高額請求されたりして……。
まったくついてない。眉を寄せて女性を見下ろした。
「この時間からネイルって、正直、時間がかかるし、帰って休みたいので……」
女性が中腰になって梨加の手をそっと取る。白熱球の明かりに照らされて光っている黒髪がサラサラと揺れる。白くて艶めいた手は意外にも暖かい。
彼女の爪はきれいに整えられていて、黒のネイルに真紅のバラが描かれていた。そのバラがとても美しく輝いていて、今にも花びらから匂い立ちそうで、思わず見入った。麻酔を打たれたかのように体がしびれる感覚。
「あなた様、最近、ご自分を大切にされておりますか?」
優しい声色なのに、その言葉はとげのように梨加の胸に刺さった。女性の白い手に置かれた自分の手が、爪が、嫌でも目に入った。この爪、いつやり替えたっけ。手も昔はもっときれいでつやつやしていたのに。
仕事も遅くまであるし、家事で水仕事もする。手がかさつくからハンドクリームをつける、マニキュアも手入れが行き届いていないみたいで恥ずかしいからと慌てて塗りたくる・・・・・・それだけで精一杯。右の人差し指の先のネイルが少しはげていた。
顔だけが妙に火照る。
彼女の爪と見比べて、なんと惨めなんだろう。
「お許しください、そんなお顔をさせたくて言ったわけではないのです。よかったら、お上がりになってお茶を飲んで一息ついていきませんか。少しお話しして、やりたい、と思ったらされるので構いませんから」
彼女は、おずおずと白いハンカチを差し出した。
白いハンカチに刺繍されたバラの花がゆっくりとにじんでいくので、梨加はようやく自分が泣いていることに、気づいた。
女性に誘われるままに、靴を脱ぎ玄関を上がると、3mほど廊下歩く。その正面の壁下に身長の半分ほどの小さな木の戸があった。
女性がその戸を横にスライドさせる。
「何これ、忍者屋敷なの?」
着物の女性がかすかに笑う。
「躙り口でございますよ。爪紅庵は、かつて茶室だった部屋を使っておりますので、このようなしつらえになっております。ご不便かと思いますが、正座の姿勢で中にお入りくださいませ」
ふたたび顔が赤くなる。言われた通り、正座になって身をかがめ、中に入ると、後ろから戸が閉まる音がした。
「何これ、狭っ……」
「狭いのがいいんだよ。お前、茶室の趣をわかってないな?」
正座の状態でかがんでいたので、まさか人がいて自分のつぶやきを聞いているとは思わなかった。肩がビクッとふるえる。おそるおそる顔を上げると目の前には作務衣に身を包んだ金髪の男が不機嫌そうに座っていた。
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