ゴヲスト・パレヱド — 孤独な鬼は、気高き狐に導かれ最強の退魔師を目指す —

夢咲蕾花

【壱】狐と共に

第1話 白狐、吼えて一喝

 初めて人を殴ったのは九歳の時。気に入らないからぶん殴った、以上。理由なんてそれだけで、行動もそれだけだ。

 誰だって、母親が死んだことをイジられれば怒るに決まっているが、相手にとって不幸だったのは漆宮燈真しのみやとうまという子供はそういう時に泣き寝入りするタイプではなく、反撃に移る人種だったことだろう。

 まして理屈で説き伏せることが困難な状況に、論理をうまく噛み砕けない年齢だ。感情任せに振るった拳は、相手の前歯を全て叩き折り、鼻骨を砕いた。


 相手はかねてより燈真に嫌がらせをしていた。物を投げる、給食をひっくり返す、教科書を破る、服に木の実を擦り付ける、トイレの後の手を彼の服で拭いてくる。

 燈真はよく堪えていた。それも限界だった。

 死を覚悟するような激痛と燈真の激憤に、相手は完全に怯えて失禁。後日、諸々のやり取りの末相手は転校していった。


 このときの燈真の怒りに関して、不幸なことがあった。二つ。

 一つ、燈真は煽ればすぐに怒るという、子供にとって最高のおもちゃであると認知されたこと。

 二つ、燈真は同世代の子供に比べ、ずっと力が強い——異質と言えるほどに、喧嘩が強いことだった。

 色々あってその後父が再婚し、家庭が荒れて、結果的に彼は地元では知らぬものなどいない不良少年となってしまうのだった。

 東中の鬼、なんて言われる始末だ。


「強く生きなさい。誰に、嗤われようとも」


 昔、大きな白い狐に言われたその言葉の意味をひどく間違えているという自覚は、——あった。けれど、自分は罪悪感と楽な道を行く気楽さに味を占めて、それに蓋をして、気付かぬふりをしていた。

 嫌われ者は、楽で、心地よかった。——自分で作った有り合わせの言い訳の殻にこもって、他ならぬ自分への慰めに酔っている、あの間だけは。


×


 吹っ飛ばされた大学生が、フェンスに背中を打ちつけてくずおれた。あたりには、同じような惨状の青年があと二人もいる。

 深夜の、路地。自販機と街灯が弱々しく照らすそこで、乱闘があった。

 数分の喧嘩の末に、立っているのはただ一人、半袖の黒いシャツにジーンズというラフな格好の、白髪の少年。その瞳は日本人離れした青色。東北地方には青い目の人が多く現れる地域があるというが、その東北地方の東に裡辺海峡を挟んで隣接し、北海道に準じる面積をもつ裡辺地方りへんちほうにも、似た人種がいるのだろうか——。

 少年——燈真は無言で財布を取り出した。安っぽいそれを広げて小銭を出し、近くの自販機で缶コーヒーを買う。ブラックの無糖だ。


「二度と俺に近づくな。次は容赦しない」


 冷淡に、一言。高校生にすぎない少年とは思えない、どすの利いた声。

 青年らは壊れたロボットのようにコクコク頷いて、慌てふためいて去っていった。

 つまらない理由で喧嘩を売られた。

 体がデカい、目つきが悪い。それだけで、いつも因縁をつけられる。


「くそったれ」


 燈真は冷たい缶を、殴られた左頬に当てた。歯は折れてない。口の中を少し切った程度。喧嘩慣れしていれば、ノーダメージの部類に入るようなものだ。

 それはそれとして、痛む以上は……まあ、生物なのだ。興奮状態が解ければ、アドレナリンの加護が切れて自然と痛みは返ってくる。


 プルを引いて、コーヒーを呷った。乱暴に三口、喉の奥に叩き込んだ。

 目が覚めるような苦味がじんわりと口に広がる。冷たいそれが、熱った体にちょうどいい。鉄の味が混じってしまうのも、ご愛嬌だ。

 一気に半分ほど飲んで、口を離した。


(いつまでこんな生活が続くんだろ)


 燈真だって、好きで喧嘩に明け暮れているわけではない。少なくとも高校生になって二ヶ月。彼は、さっさとこんなことから足を洗いたかった。

 五月に通っている私立校で起きた事件。婦女暴行事件。空き教室で女子生徒が数人の男子に乱暴されていて、燈真は自分が突っ込むより先生に頼るべきだと、生活指導の先生を呼びに行った。

 その間に加害者の男子生徒は逃げており、なぜか燈真が犯人であるというとんでもない噂が立った。

 主犯格の生徒は、なにやらお偉い祖父を持っているらしく、学校側も黙殺。燈真はありえない濡れ衣を着せられ、誤認逮捕された。

 結果的に冤罪であると捜査で判明したが……燈真の経歴にはしっかり逮捕歴が刻まれてしまった。

 そのせいでバイト先からも「もうこなくていい」と言われてしまった。


「くそっ」


 どがん、と自販機を思い切り蹴飛ばした。

 思い返すだに、はらわたが煮え繰り返る。

 今は停学中だ。自宅謹慎を言い渡されているが——あんなクソ女のいる家には、一秒だって、いたくない。

 年齢を偽って中学の頃から続けていたバイトでためた金で、なんとか今を凌いでいるがそれも限界だ。

 どうすればいい——どうすべきなんだ。


 不安と焦燥が、押さえつけようとしてもじわじわと劇毒のように溢れてくる。

 その劇毒は心からゆとりを奪い、思考から選択を奪い、肉体から気力を奪う最悪のものだった。大勢が不安や焦りで道を誤ってきたことを思えば、何も燈真に限った話ではない。

 それでも、この苦しみから——飢餓、と言っていい感覚から抜け出したかった。このままではいずれ己の内臓まで消化し尽くすような、そんな手遅れなことになってしまう。そんな、確信に近い予感があった。


 奇妙な思考を振り払うように、燈真はコーヒーの残りを飲んだ。変なことを考えていたせいか、いつもは美味いと感じる苦味がひどく粘っこく喉にこびりつく。後味が悪い。

 怒りに近い感情に任せ、燈真はスチール缶を握り潰した。くしゃりと小枝のように潰れたそれをぐるぐるに丸める。まるで、子供がおにぎりを包んでいた銀紙を丸めて遊んだかのような状態になり、それをゴミ箱に投げ込む。

 家に帰りたくない。だが、いい加減節約しなくては食費さえままならなくなる。

 畜生、と吐き捨てて帰路に着こうとして、


「…………?」


 ふと、奇妙な視線を感じた。

 人間の視線では——ない。まして、でもない。そういった、意思や感情というものが希薄……というより、どこか濁って滞ったような、ネバネバした視線。

 けれどもいやに鋭い。今までに経験したことなんてないが、それは殺気、と呼べるものだった。


「っ!」


 燈真はほとんど勘で、右に跳んだ。空き缶やペットボトルを満載したゴミ箱をぶっ倒しながら伏せると、たった今いた場所に黒い影が擦過していく。

 それは素早く地面に着地すると、使、こちらに回頭した。


「なんだ……あれ」


 脚を人間の腕に取り替えた巨大蜘蛛。そうとしか言えない、人の腕を持つ蜘蛛の化け物がそこに佇んでいた。

 目玉は人間のような瞳だが異様に大きく、虹彩は赤く染まっている。白目は黒く濁り、赤い毛細血管がやや発光して浮かんでいた。全身を頭髪のような白髪混じりの黒髪で覆い、口は人間のそれをそのままくっつけて、馬鹿みたいに大きくした後横にぐいっと引っ張ったような印象。

 どう考えても、生物の範疇を超えている。そんなものがいていいはずがないと、本能的に存在を否定し始めるような、異形。

 蜘蛛もどきは腕をたわめた。燈真は慌てて立ち上がり、走る。


「くそっ、なんなんだよ!」


 がしゃんと音を立ててゴミ箱に突っ込んだ蜘蛛が素早く体勢を立て直した。そして、その腕を使って走り出す。走っている最中に皮膚が裂けようが爪が剥がれようが、気にしない。

 燈真はなんとか路地から出ようとしたが、あっけなく後ろから押し倒された。

 もんどりうってもつれ込むように転がり、燈真は仰向けの状態で蜘蛛を見上げた。両手足を完全にホールドされ、身動きが取れない。


「クソ野郎っ、退け!」


 体を跳ねさせて抵抗したが、次の瞬間握り拳が顔に、脇腹に、次々めり込んだ。

 顔をボコボコに殴られ、胃やら肝臓やらに鈍い殴打がめり込む。

 痛い、痛い——くそ、なんで俺が、俺だけが——。

 畜生、ふざけやがって。死にたくない——こんなところで、惨めに死んでたまるか。

 死にたくない。

 助けてほしい。誰でもいい、誰か、——誰か。


「たっ、助けてっ! 誰かっ——助けてくれぇっ!」


 情けなくとも、燈真は叫んだ。なぜ、助けを求めることに情けなさを感じるのか、自分でもわからなかった。

 激しい殴打はなおも続く。燈真は、うっすらと「死」の輪郭を掴むような感覚を抱いた。


「ごめん……なさい……」


 なぜか謝罪が漏れる。

 ああ——こいつは、俺に殴られてきた連中の怨念なんだ。そう察したからだ。

 殴られる都度流れ込む、ドス黒い怨嗟。虐げられた者の、殴られ、蹴られた者の怨み。

 痛い、という感情が生んだ化け物。怒りが、人を追い詰め傷つける凶器として、あの腕を形成したのだ。

 バケモノが、口を大きく開いた。

 喰われる——全ての終わりを、その真っ暗の口の奥に見た。


「諦めんな、馬鹿!」


 次の瞬間である。蜘蛛がぶっ飛んだ。

 街灯に激突し、アルミ合金のポールをひしゃげさせる。ただの蹴りでは、断じてない。

 腫れ上がった瞼をこじ開けてなんとか声の主を見る。


 狐——ではなく、妖狐。美しい、月白の妖狐がそこに立っていた。

 白い狐耳と五本の尻尾は先端が紫色で、髪の毛は後ろに一房大きな塊を作りつつ、垂らしている。振り返ったそのかんばせは、あまりにも美しかった。

 気高さとはこういうものか、と、その概念をまざまざと突きつけられたかのような。紫紺の瞳が真っ直ぐに燈真を見て、「情けない」と桜色のふっくらした口が吐き捨てた。


 妖狐の少女は背負っていた刀を左肩に跳ね上げ、抜刀した。微かに紫色を帯びる美しい刀身を外気に晒し、起き上がった蜘蛛に向け上段霞に構える。

 腰を落とし、足を肩幅やや広めに取る。

 蜘蛛が腕を撓め、少女が刀を握りしめ——、

 交錯と、そして決着はあっという間だった。


 気づけば少女は太刀を振り抜いており、燈真の背後でどちゃっと湿った音がした。

 後ろを見る。そこには、左右に斬割ざんかつされたバケモノの死骸。それは、ややあって霧散し、消えた。


「……人妖ヒトの心には陰が落ちる。そういう負の感情が滞り蟠ると、ああいうのが生まれる。魍魎もうりょうって言ってね。時々ニュースにもなるでしょ」

「あれが……魍魎」

「漆宮燈真ね。迎えにきた」

「……お前は、誰だよ。……他人って気がしないのは気のせいか?」

「…………。ナンパなら……もう少しマシなことをいいなさい」


 燈真は変な勘違いをさせたと、赤面したくなった。


稲尾椿姫いなおつばき。栄えある稲尾一族、三十四代目の次期当主。すぐに支度しなさい」


 唐突に迎えにきたとか、支度しろとか言われ、燈真は震える体に喝を入れて立ち上がって反論した。


「何言ってんだ。稲尾って言えば九尾の家だろ。俺がお前らと、なんの関係が……」

「私の言葉を信用しないのは勝手。でも来てもらう。一旦家に帰れば、どうせ全部わかるんだし」

「意味わかんねえよ。お前の言葉を信じなきゃいけない根拠は、なんだ」

「根拠なんていらないわよ。強いて言えば私が稲尾椿姫であるから、ね。わかったら行くわよ」

「くそっ、自信過剰なやつだ」


 燈真ははっきりと、この女を好きになれないと自覚した。

 だが、同時に気高さと、圧倒的な我の強さと自信に憧れを抱いた——それは認めなくてはならない。そして、


「たっ……助けてくれて、ありがとう。危なかったよ、色々」

「無事で何より。もっと感謝して奉ってくれていいわよ」

「…………ふん。それは遠慮しとく」


 やっぱり、この自信過剰女は好きになれない。

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