母の教え

 怒りのあまり絶句したアイシャの髪を、ダミニの指がそっと梳く。蛇に絡みつかれる心地がして、寒い季節でもないのに肌が粟立った。


「どうか誤解なさらないで! これもまた、アイシャ様のためです。アイシャ様は、あまりにも無垢でいらっしゃるから。恐れながら、陛下だって。支える者が必要ですわ」


 ダミニの声も手つきも眼差しも、蜂蜜のように甘ったるく、そしてべったりと絡みつく。胸やけがしそうだった。この蜜は悪意という毒を帯びていると分かり切っているからなおのこと。


(要は愚かだと言いたいのでしょう。そんな口実で言い包められると思うくらいに……!)


 ダミニの望みを尋ねたこと、そして、王の側室になりたいなどと聞かされて、即座に激昂しなかったことで、アイシャは侮られている。言い包める余地があると思われている。それ自体は悔しく、屈辱的ではあるけれど──


(……落ち着きなさい。好機なんだから)


 ほとんどダミニに抱きかかえられるような格好で、アイシャは自由になった手をぎゅっと拳に固めた。掌に刺さる爪の痛みで、どうにか怒りと嫌悪を紛らわせる。愚かな小娘と思われているなら、そのように振る舞ったほうが得策だ。


「支えるのに……側室になる必要は、あって? だって、私、アルジュン様の妃になったばかりで──」


 これくらいの抗弁なら良いだろう。と同じ、夫への恋慕で頭がいっぱいの娘と思い込ませなければ。その隙に、考えを巡らせなければ。


は、ダミニは待つことができていた。世継ぎが生まれないから代わりに──と、私が言い出すように仕向ける余裕があった。はそうしなかったのは、なぜ? この女が予定を早めた理由は、どこにあるの?)


 短い間ではあるけれど、アイシャが起こした行動は幾つもの変化を起こしている。

 アルジュンと本当の意味で結ばれたこと、トリシュナとの関係の改善、王妃として政の場に臨んでいること。あとは──ほどにダミニに頼り切っていないこと、も?


(大人しくしていたら、ますますアルジュン様と遠ざけられると思った?)


 ダミニがそう考えたのだとしたら、まったく正しい判断ではある。アイシャは、もう二度と夫を殺させはしないと誓ったのだから。その想いを察することはできなくても、ダミニへの不信は伝わってしまっていただろう。相手を油断させておくことができなかった、これはアイシャの未熟だった。


(ここまでは合っている、と思う……でも、まだ足りない……)


 ダミニが、アルジュンに毒を盛った──と思われる──動機。


『王の愛も奪いたかったけど、その男はお前に一途だった』


 暗い墓室に響いた、ダミニの嘲笑が耳に蘇る。嫉妬。顧みられなかったことへの怨み。そんな感情なら、理解はできる。でも、ダミニの兄、ラームガルの領主アミールシャマールも企みに加担している疑いがある。


「……ダミニは、アルジュン様を愛しているの?」

「美しく聡明な王を、どうして慕わずにいられるでしょう。けれど、せめて情を受けたいと願うだけ。王の傍らに相応しいのはアイシャ様以外にあり得ませんわ」


 どのような答えが返ろうと、取り繕った嘘としか思えないなら、愚問だっただろう。無難としか言いようがないダミニの口上に、アイシャは軽く唇を噛んだ。


「どうか、アイシャ様。卑しい願いを叶えてくださいませ。形だけでも王の妃と呼ばれることができたなら、」


 アイシャが次の言葉に迷う間に、また、ダミニの手指と声が彼女に甘ったるく鬱陶しく絡みつく。

 大人しく頷かないことに苛立っているのか、直截ちょくせつな訴えは恫喝めいた響きを帯びて、鎌首をもたげて威嚇する毒蛇を思わせる。もちろん、思わせる、というだけ、アイシャが毅然としてさえいれば、幻の毒牙なんて恐れる必要はないのだけれど。


「……お母様も、側室だったと伺ったのに。苦労もなさったとか。なのに、同じ立場に甘んじるの? お従兄にい様もそれで良いと仰るかしら?」


 これは、シャマールとはかってのことなのか、それともダミニの独断なのか。そこも探らなければ、と気付いて、アイシャはどうにか次の矢を捻り出す。ダミニを振り払って、長椅子にきちんと座り直しながら。そうして、身分の上下を突きつけようとしたのに、ダミニの艶やかな笑みはどうにも気安くて馴れ馴れしい。


「母のことがあればこそ、高い地位に昇る望みなど持っておりませんわ。母に倣って、夫君に殉じぬ不貞の汚名も受けましょう。死した後までも、王とアイシャ様の間に割って入ろうなどとは思ってもおりません。生きている間だけでも、おふたりにお仕えできるなら本望ですわ」


 わざとらしいほど大仰に平伏したダミニを、その、流れるように波打つ豊かな髪を、アイシャは凝然と見下ろした。無理のないことではあるけれど、ダミニが述べたのはどうしようもなく的外れなことだったのだ。


(ダミニは、知らないんだわ。アルジュン様の御心も、私の覚悟も……!)


 すなわち、アルジュンは妻の殉死を望んでいないということ。アイシャが、夫と共に生きると決意したことを。


 夫に殉死しなくても良い、と述べるのは、側室が正妻に対して言うなら最大限の謙譲になるはずだった。スーリヤ国の、ほかの家、ほかの夫婦のことだったら。

 世間から後ろ指を指され眉を顰められても構わない、それほどの屈辱も受けるほど、正妻に従順であるという表明だから。そう、だから、素直に受け止めれば仮定の話でしかない。問い詰めたところで、ダミニもそう言うだろう。でも──


(まるで、アルジュン様が若くして亡くなると分かっているようなもの言いではなくて? 気付いていないの?)


 ラームガルの内情を教えてくれた年配の侍女が、言っていた。ダミニの母は、正妻が夫君に殉じた後は権勢を振るっている、と。


 夫と正室を始末した後は、世間の噂に耐えさえすればその家を思い通りにできる──ダミニは、母からそう学んだのだ。恐らくは、兄のシャマールも。

 のダミニが誰とも知れない男の子を懐妊していたのは、きっと、念には念を入れたということだ。王の子を、生まれる前に死なせるわけにはいけないから。胎児の命を盾にして、自らの保身を図ったのだ。


(ダミニは──王妃になるわけにはいかなかったのね。アルジュン様を殺した後、自分も死んでは元も子もないから……!)


 それに、のアイシャが毒にたおれずに済んだ理由も、やっと分かった。夫が亡くなれば、喜んで共に葬られるのが分かり切っていたのだから、わざわざ手を汚す必要はまったくない。


 アイシャは、唇から小さく溜息を漏らした。納得がもたらした満足はほんの小さなもので、怒りや嫌悪や憎しみを、言葉にして撒き散らさないために微かな息の塊にこごらせた、というところだった。でも──ダミニには、譲歩と諦めの溜息に聞こえただろう。


「……貴女の気持ちは分かったわ。アルジュン様にご相談しましょう」

「何てご寛容な……! さすがはアイシャ様ですわ。心から御礼申し上げます……!」


 はしゃいだ笑みで再び低く頭を垂れたダミニに、アイシャは引き攣った笑みを向けた。


 もちろん、アルジュンに相談する内容はこの女が期待するようなことではない。それを悟られぬよう細心の注意を払わなければ。そして、アルジュンが不審に思わないような話の切り出し方を考えなければならなかった。

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