黒ずんだ銀

 その場のほとんどの人間が、息を呑んで絶句した。ダミニに間近に迫られたアルジュンも、恐ろしい罪を告発されたバーランの大侯ラージャ、ナタラジャンも。侍女や従者、召使たちは言うまでもない。


 アイシャ自身については──


(嫌! アルジュン様から離れて……!)


 ダミニとアルジュンが見つめ合っているという、ただその一点で心が乱され、激しい怒りと不安に胸も喉も締め付けられて何も言えなかった。たぶんそれは幸いなことで、大声で触れ回ってしまっては、王妃の名誉と体面を傷つけることにしかならないと、頭では分かっていたけれど。


 冷静さを保っていたのは、ただふたり。

 ひとりは、必死の目で──演技に違いないと、アイシャは確信していた──アルジュンを見上げるダミニ。そしてもうひとりは、王太后おうたいこうトリシュナだった。もちろん、まったく動揺していないということはないのだろう。いつもは凛として威厳に満ちた声が、今は引きり、わずかに掠れている。


「──何のつもりなの、ダミニ。何を根拠に、スーリヤでも屈指の大貴族を糾弾するというの」


 それでも、侍女に過ぎないダミニに対して、問いかけるというよりは問い質す口調を保ったのが、王太后の矜持というものだったのだろう。


「お騒がせして申し訳ございません。ですが、根拠のないことではございませんでした」


 その場の全員の視線を一身に浴びて、矢に貫かれる思いがしたりはしないのだろうか。ダミニは、優雅そのものの所作で跪き、トリシュナに頭を垂れた。ふてぶてしいとしか思えないけれど──少なくとも、アルジュンから離れてくれたことで、アイシャの鼓動は少しだけ収まってくれた。


「この場を整える采配をしていて、ふと、心配になってしまったのですわ。菓子も飲み物も、すべてバーラン侯が献上されたもの、と気付いてしまって──陛下や王妃様、王太后様に万が一のことがあったらどうしよう、と」


 大げさに眉を顰めたダミニの訴えに、バーラン侯は怒りで髭を震わせつつ、声を荒げた。


「そのていどのとやらで大侯ラージャを糾弾するとは。そなた、王妃の侍女か? 日ごろ何を言われているものやら……!」


 老練な大貴族に鋭く睨まれて、アイシャは思わず首を竦めた。不当な嫌疑だと誇示するための、演技も含まれているのだろうとは分かっていても、彼女は大声で怒鳴られることになれていなかった。


 けれど、ダミニはアイシャよりもよほど気丈だった。ゆっくりと顔を上げると、バーラン侯のほうをちらりと振り返り、軽く首を傾げることができるほどに。


「無礼な疑いであることは百も承知でございます。ただ、心配のあまりに胸が潰れそうだったものですから──だから、密かに確かめれば安心だと思ったのですわ。私、聞いたことがありましたの。銀は毒を暴くものだと。ちょうど銀の腕輪を持っていたものですから、バーラン侯が献上された葡萄果汁の壺にけてみたら、ほら……!」


 ダミニが腕を高々と掲げると、鈍い輝きが閃いた。

 細かな花の紋様を刻んだ腕輪は、確かにアイシャにも見覚えがある。ただ、かつて目にした時は月のような柔らかな光を放っていたものが、今は無惨に黒ずんでいる。


(毒で変色した? 本当に……!?)


 腕輪が持ち出される前は、まだ、誰もが芝居を見ているような気分だっただろう。けれど、変色した銀の黒い色が場の空気を塗り替えた。まさか、がもしかしたら、に変わったのだ。


 ただひとり、アイシャだけはほかの者たちとは違う思いを抱えて両手を握りしめていたのだけれど。


(ダミニが、アルジュン様を助けた……)


 目立ちたいがため、アルジュンに自らを売り込みたいがための虚言であれば良いと、どこかで願っていたのだろう。銀の腕輪の黒ずみは、アイシャの胸にも暗い影を落とした。


 むろん、嫌疑をで補強された形のバーラン侯も黙ってはいないけれど──


「馬鹿な! 疑われるのを分かっていて毒を盛る愚か者がどこにいる!」

「王妃様、あれを──」


 アイシャの傍に控えていた侍女が、彼女の袖を引いて甲高い悲鳴を上げた。その侍女が指さす先では、小鳥が一羽、ひっくり返って翼の先を震わせている。零れた葡萄の果汁の匂いに惹かれてついばんだ小鳥が、毒にあてられたのだ。……ダミニの告発は、真実だったのだ。


 座っていた者、立っていた者、その場の全員が身動ぎして、幾つかの杯が倒れ、幾つかの皿がひっくり返った。零れた果汁は毒入りだから、それに触れまいとしてまた悲鳴が上がり、押し合いが起きる。


 ──そんな混乱を鎮めたのは、泰然と立つアルジュンだった。彼の佇まいの動じなさ、穏やかな眼差しが浮足立つ者たちの心を宥めてくれる。深い響きの思慮深げな声も、また。


「バーラン侯。しばし王宮に留まって欲しい。今後のため、お互いのために公正な調査が必要であろう」


 拘束とは言わず、難詰なんきつの響きは持たせず、あくまでも調査のため、と言うことにしたアルジュンは寛大で冷静だった。バーラン侯の体面を尊重してさえいただろう。


「公正!? 白々しいことを! このような茶番を仕立てておいてよくも──」


 当のバーラン侯は、慈悲をかけられたことにも気付かぬほど逆上していたようだったけれど──それでも、ここは王宮で、恐怖と嫌悪と疑いの目で遠巻きにされていることを察したのだろう、言い切ることをせずに口をつぐんだ。この場にいるのは女たちだけではなく衛兵もいて、大侯の私兵は王宮の外にいるということも思い出したのかもしれない。


「……調査とやらの結果が楽しみだな! 下手な理屈では、スーリヤを支える諸侯は納得しはしないぞ……!」

「無論、承知している」


 兵に囲まれて連行されながら、バーラン侯は昂然と顔を上げていた。捨て台詞を吐かれたアルジュンのほうこそ、これから舵を取っていかなければならない難局を思ってか、わずかに眉を寄せて顔を顰めていた。


 ともあれ──バーラン侯が去ると、ようやくその場の空気がいくらか緩んだ。使用人たちはのろのろとぎこちなく動き始め、恐る恐るといった腰が引けた風情で散らばった皿や菓子を片付け出す。今日の会は、これ以上続けようがないのが明らかだった。


「王妃様、失礼いたします」


 アイシャの手元にあった杯は、手を付けられぬまま倒れることもなく残っていた。それを下げようとした侍女に、アイシャは慌てて命じた。


「──はこのまま私の部屋に持って行って。お願い」


      * * *


 アルジュンは、トリシュナやほかの重臣たちと諮るのに忙しく、アイシャは自室で待つだけの身となった。王の暗殺未遂は、すなわち反逆未遂でもある。大貴族を罰するか否かを検討すれば、罰する場合にはいかに反発を避けるか、やむを得ぬ場合には兵で威圧するかどうか、にも議題が及ぶのだろう。そんな話題には若い王妃はまだ耐えられないと、多くの者に思われているのだ。


 それ自体は、不甲斐なく悔しいことだけれど。でも、今、この瞬間に限っては、ひとりの時間を持てるのは幸いだった。


 ひとりになりたいからと侍女たちを下がらせて、アイシャは杯に注がれたままの葡萄の果汁を睨んでいる。すでに温くなっているし埃も落ちているだろうけれど、口をつける気になれないのは、もちろんそんなことが理由ではない。


(……これにも毒が入っているのかしら? ダミニが真実を述べているならそのはずだけど……)


 侍女に命じた時、さほどの考えも確信もなかった。ただ──ダミニが本当のことを言っているとは思えなかった。あるいは、企みがあると信じたかった。

 理不尽な言いがかりに近い感情だとは分かっている。に裏切られたからといって、ダミニは何も企んではいないのかもしれない。……そう、だから、確かめる必要がある。


(銀の細工なら、私だっていくらでも持っているもの)


 アイシャは震える手で銀の指輪を取り出すと、鎖に通して杯に沈めた。濃い紫色の果汁の中で、精緻な彫刻が静かに揺れる。


 そして、たっぷり数十秒待ってから鎖を引き上げた時──銀の指輪の柔らかな輝きは、まったく変わっていなかった。

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