罪と罰の天秤

一布

第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花

プロローグ~ある妹の決意~


 結婚を間近に控えていた。


 婚約者は正義感が強く、優しく、仕事にも真摯に取り組む人だった。そんな彼だから、プロポーズされたときは嬉しかった。


 ただ、このまま結婚することに対して、心に引っ掛かるものがあった。


 殺されてしまった、大切な人のこと。大好きだった、歳の離れた姉。


 姉は、どうして殺されなければならなかったのか。どんなふうに最後を迎えたのか。


 周囲の大人達は、殺された姉について、こう話していた。


「彼女は、運が悪かったんだ。運悪く、通り魔事件に巻き込まれたんだ」


 まだ子供だった自分は、周囲の人達の言葉を素直に信じた。


 亡くなってしまった、大切な姉。彼女は、彼女自身の幸せを後回しにして、自分を育ててくれた。守ってくれた。大切にしてくれた。


 結婚式では、そんな姉にお礼の言葉を伝えたい。スピーチで、天国にいる姉に届けたい。姉への、抱え切れないほどの感謝を。姉がそうであったように、自分も、姉を大切に思っていたことを。


 でも。


 大切な姉について、自分は、知らないことが多過ぎた。


 姉は殺された。当然、怖かっただろう。悲しかっただろう。辛かっただろう。悔しかっただろう。そんな姉の気持ちを理解したうえで、伝えたかった。


「私は、あなたのお陰で幸せになれました。私は、あなたのお陰で、これからもっと幸せになれます」


 胸いっぱいに抱えている、感謝の気持ち。過去への感謝に加えて、未来への約束を口にしたい。


「私は必ず、あなたが誇れるような人になります。あなたに育ててもらったお陰で、私は、こんな人間になれました、って。『この子は私が育てたんだ』って――あなたが、天国で自慢できる人になります」


 姉が、生前の悔しさも悲しさも辛さも忘れられるくらい、立派な人になろう。


 そんな誓いを立てるために、姉の最後を知りたいと思った。姉が、最後に言い残したことはないか。自分のことを、何か言ってくれたのではないか。


 これからの人生を、姉の思い出と共に生きたい。そんな気持ちから、姉がどんな最後を迎えたのか、知るつもりだった。


 姉が殺された事件の、捜査資料や犯人の供述調書。十四年前の事件。自分が、まだ十歳だった頃。詳細な状況、犯人の行動、犯人の動機などが記された資料。


 その資料を見て、血の気が引いた。


 ――私は馬鹿だ!


 自分の考えがどれだけ甘かったのか、思い知った。自分がどれだけ愚かで、自分がどれだけ罪深く、自分がどれだけ滑稽で、自分がどれだけ無知だったのかを思い知った。


 捜査資料や供述調書には、詳しい犯行の状況だけではなく、遺体となった姉の写真もあった。


 目を背けたくなるほど、凄惨な姉の姿。でも、目を見開いて動けなくなってしまうほど、残酷な光景。


 かつて美しかった姉は、見る影もなかった。顔は倍以上に腫れ上がり、鼻は折られて大きく曲がっていた。瞼は野球ボールのように腫れ、最後には、目が見えない状態だったと思われる。前歯は全てなくなり、唇はズタズタに切れていた。


 生前の面影がなかったのは、顔だけではない。


 体中に、打撲痕や火傷の痕があった。火傷は、煙草の火を何十カ所も押し当てられたものだ。特に損傷がひどかったのは、性器と肛門だった。犯人達は、姉の性器や肛門を灰皿代わりに使っていた。ときにはライターの火を直接当て、筆舌に尽くしがたい苦痛を与えていた。


 どうして姉が、こんな拷問のような仕打ちを受けなければならなかったのか。


 供述にある、下衆共の犯行の動機。

 犯人達は、最初は、単なる強姦目的で姉を拉致した。


 最終的に逮捕され、後に刑事罰が下されたのは四人。姉が連れ込まれたのは、犯人の一人の家。


 四人は、連日、代わる代わる姉を犯した。延々と続く行為に姉が失神すると、水を掛けて目を覚まさせた。


 拉致から十日後。


 姉は、犯人達の隙を見て逃げようとした。裸のまま、家を抜け出そうとした。服など着ている余裕はなかったのだろう。姉には、守るべきものがあったから。まだ幼い、歳の離れた妹。


 しかし、犯人の一人に見つかってしまった。


 犯人達は、逃げようとした姉に対し、的外れな怒りを覚えた。


 結果、壮絶なリンチを受けた。


 リンチの最中、犯人達は、集団性の狂気を発揮した。ある者がひどい暴行を加えたら、別の者は、さらにひどい暴行を加える。暴行の内容が尽きたら、次は、わざと姉に服を着せ、踊りながらストリップをさせて辱めた。


 姉の怪我がひどいものになり、性的興味が失せると、犯人達の暴行はさらに加速した。


 肉体的、精神的に、姉は限界を超えて追い詰められた。


 監禁部屋の壁には、姉の血痕が点々と付着していた。火傷が化膿し、膿が出て異臭を発すると、犯人達は理不尽に姉を責め、痛めつけた。


 そんな、現代どころか中世ですら稀に見る、残酷な拷問。そんな日々が、約一ヶ月。


 人生最後の一ヶ月で、姉は、何度も「殺して」と言ったという。

 人生最後の一ヶ月で、姉は、涙すら出せなくなったという。

 人生最後の一ヶ月で、姉の綺麗な髪の毛は、あまりのストレスから全て抜け落ちたという。

 人生最後の一ヶ月で、姉は、精神に異常をきたしたという。


 事件後の司法解剖にて、姉の脳が萎縮していたことが判明した。表現の方法がないほど凄惨な暴行と、それによる恐怖によって。


 さらに、姉が妊娠していることも確認された。拉致当初に何度も繰り返された、強姦によって。当然、腹の中の赤ん坊は、生きてはいなかったが。


 畜生にも劣る蛮行。人のものとは思えない所業。


 この事件によって逮捕されたのは、四人。

 四人の少年――未成年だった。


 最初は家庭裁判所に送られた少年達は、事件の性質と残虐性から、刑事裁判が相当とみなされた。少年審判が不適切と断言されるほどの残虐性。


 しかし、どれほど残虐性をうたっても、未成年の彼等には、犯した罪に見合う罰は下らなかった。


 主犯格の少年には、懲役二十年。

 準主犯格の少年には、懲役十五年。

 他二人に関しては、懲役五年から十年の不定期刑。


 主犯格と準主犯格以外は、もう出所している。姉に耐えがたい屈辱を与え、目も覆うような苦痛を味合わせ、その下劣な思考で思い浮ぶ限りの拷問を行い、地獄に叩き落とした奴等が。


 捜査資料を見たとき、何も知らなかった自分を恥じた。

 同時に、司法に絶望した。犯人達に、罪に見合う罰を与えなかった司法。


 裁判員制度が導入されたことで、凶悪犯罪について、一般の意見も考慮した判決が下るようになった。その事実に反論はない。


 しかし、法律の素人である裁判員は、専門家である裁判官にどうしても誘導される。犯人を庇う人権派弁護士の意見を、耳に入れることになる。過去の最高裁判所の判例に縛られている。永山基準は未だ健在だ。


 被害者遺族は、一生悲しみ続けるのに。生きている限り、苦しみ続けるのに。


 姉の最後を知る前。自分は、のうのうと生きていた。幸せになろうなんて考えていた。


 ――お姉ちゃんは、あんな最後を迎えたのに!


 姉が、単なる殺人事件の被害者だと思っていた頃。自分は、警察官を志した。人々を守れる人間になろう、と。優しい姉なら、きっと、そんな自分を応援してくれると思って。


 けれど、守るだけじゃ駄目なんだ。下劣な人間を捕まえるだけじゃ、駄目なんだ。


 獣にも劣る、凶悪な犯罪者達。奴等は、死ぬべきだ。


 ――だから殺す。


 全ての被害者遺族の、せめてもの慰めになるように。心が焼き尽くされてしまう人が、一人でも減るように。


 幸運と言うべきか。自分は、成すべきことのために必要な力に恵まれた。人類の一パーセント程度しか持ち得ない素養。圧倒的な力。


 でも、自分は、自分のためには殺さない。


 姉は、妹が復讐に走ることなど望まないだろう。だから、姉を殺した犯人も追わない。犯人達の出所後の行方も追わない。


 世の中を変えるために戦おう。理不尽な犯行を許さないように。


 罪と罰の天秤を、水平にするために。


 自分自身に誓った決意。

 その決意を貫くために、今ある幸せを捨てよう。


 自分だけが幸せになろうなんて、どうしても思えないから。姉の最後を知らずに幸せになろうとした自分を、許せないから。


 たった一人で、決意を抱えて生きていく。

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