第21話 少しずつ動く日常

 ナナオ駐屯地に戻ってきた頃には、もう夕暮れ時になってしまっていた。二人はすぐにトレーニングルームの方へと階段を降りていったが、自分は一階でオオイに引き止められた。

「カラスマさん、任務の報告をお願いします」

 ああ、そうだ。上官に報告もしなければならないだろう。中間管理職として当然の仕事だ。

「報告書の様式は?」

「後でお渡ししますが、まずは口頭でも結構です。場所は把握していますが、どんな恐竜でしたか?」

 どんな恐竜か、も判らずに送り出したのか。割と適当である。

「獣脚類でした。他の恐竜と同じですね。体色は赤褐色の二足歩行、体高およそ3メートルと少し、全長で5メートルほどでしょうか?目が大きくて、瞼の上の皮膚が硬質化して角のようになったトカゲでした。前足は退化していて短く、後ろ足と尻尾は極端に太いです」

 オオイは手元でメモを取りながら聞いている。

「そうですか、数と、戦闘の大凡おおよそをお願いします」

「数は二体、どちらも同じぐらいの大きさでした。一体が消防署の裏から出てきたので、ジェシカが先制して飛び込んで牽制し、隙を見てメイユィが攻撃して無力化していました。残りの一体は消防署の駐車場に潜んでいたもので、出てきた所を私が斬りました」

「刀の使い心地はどうでしたか?」

 使い心地。悪くなかった。重く、振り回すだけでかなり斬れる。

「良いですね、刀なんて使ったことはありませんでしたが、私には合っているように思います」

 型も何も無い。振り回しただけの邪道な我流剣術だ。それでもトカゲの一体や二体、斬り伏せるのに難は無い。

「そうですか、良くわかりました。後日竜の死体はこちらに届けられるので、報告書と合わせて上に提出します。どうしますか?報告書は今日、書いて帰られますか?」

 少し考えたが、そうしたほうが良いだろう。記憶が新しい内にできるだけやっておくべきだ。

「今日、書いて帰ります。下の部屋で書けば?」

「そうですね、どこでも結構ですが、落ち着ける所の方が良いでしょう」

 見られているので落ち着けるかどうかはわからないが、個室があるのならそこを使わせて貰うのが良いだろう。静かな方が良い。

 オオイはそれではと言って監視室に戻り、封筒に入った分厚い紙の束を持ってきた。

「紙ですか」

 最近は大体なんでもデータで提出するものだが、紙……。

「すみません、防衛隊の慣例となっておりまして。日報も全て紙なのです」

「そうですか。うーん、機密保持としてはどっちもどっちですが、面倒ですね」

 仕方なく封筒を受け取った。ここのやり方だというのであればやむを得まい。

「そういえばオオイ二佐、いくつか質問があるのですが」

 答えられる範囲であれば、と彼女が言ったので、沢山あった疑問を順番に投げかける事にした。

「まず、どうして竜災害の発生場所がピンポイントでわかったのか。それと、現地の人的被害はあまり大きくなかったように思えます。迅速な避難が出来ていたのは何故でしょうか?」

 若き女指揮官は頷いて答えた。

「まず、災害の発生場所ですが、サクラダで防衛隊が迅速に駆けつけたのを覚えておられますか?」

 そうだ、あまりにも早い到着と、有無を言わせぬ決断によるミサイル攻撃。普段の及び腰なヒノモトの防衛隊とはとても思えない手際だった。頷くと、彼女も首肯して続ける。

「では、竜災害が発生したときに、スマホなんかの電子機器が使えなくなったのも覚えておられるでしょう。ヤマシロ市役所で防犯カメラが壊れたというのも」

 そうだ、ミズキはそのように言っていた。そして、サクラダ駅であの竜が出てきた時に、スマホは暫く使い物にならなかった。

「奴らが出現すると、何故だかわかりませんが一時的に周辺一帯の電子機器が誤作動を起こすのです。暫くすれば元に戻るのですが、最初はそのせいで概ね通報が遅れ、被害が拡大する傾向にありました」

 そうだ、スマホが使えなくては警察にも消防にも連絡できない。なので、最初に市役所にやってきた警察官は巡回のような二人組だけだったし、サクラダ駅に来たパトカーも周囲にいた少数だけだったのだ。

「そこを逆に利用するのです。機器が故障すれば当然、電波基地局も異常を検知します。携帯キャリアの異常検知をこちらと共有して、発生源はほぼ確実に割り出す事が出来ます。周辺に何もないところでは航空機で一定間隔にビーコンを投下してあるので、そちらも合わせて利用しています」

「なるほど、電子機器が壊れるというのなら、壊れた場所に恐竜が出た、というわけですか」

「避難もそれを基準にして、各国で身近な電子機器の故障があった場合はすぐに頑丈な狭い場所に退避するようにと通達を出しているようです。我が国は、まぁ、まだですが」

 電子通信網の発達した現代において、この特性はある意味自分の出現位置を知らせているようなものだ。それですぐに航空防衛隊がやってきたのか。

「それでは、既存の兵器が効かない理由は分かったのでしょうか。あと、何故我々だけが竜を殺す事が出来るのか」

 刀で斬れるのにミサイルが効かないというのは訳が分からない。どう考えてもミサイルのほうが破壊力は上だ。それどころか銃器や爆弾、毒ガスやレーザー砲まで効かないというのだ。

「それは……まだ詳しいことは分かっておりません。博士の話によると、何か兵器に対するシールドのようなものが常に展開されているのではないかと。そして、貴女方にはそれを無効化する力があるのでは、と仮説を立てておられます」

 仮説だが、そう解釈するしか無いのだろう。原理も何も分かっておらず、経験則だけで自分たちが運用されている、という事だ。

「研究の成果待ちという事ですか。我々に協力出来る事は?」

 出来る事ならば協力してさっさと解明したほうが良いだろう。自分たちの能力を擬似的にでも発生させられるのであれば、兵器にそれを搭載してしまえば良いのである。

 しかし、オオイは何故かそこで戸惑ったように口を噤んだ。言葉を選ぶようにしてゆっくりと口を開く。

「それは……ご協力頂ける範囲がその、人道に外れてしまう事もあるので。それ以外の事は概ね既に取り組んでいるのですが……」

 人道に。そうか、まぁ、分解して調べたり反応を見るのが一番手っ取り早い。だが、見た目は可憐な少女達にそんな事をして良いのかという話である。

「一応聞いておきますが、人道に外れた行為というのは、どのような」

 非常に言いにくそうにしているオオイだが、重苦しさを感じさせながらも教えてくれる。

「一番研究者がしたいと思っている事は、生体解剖でしょう。あとは生体反応実験、脳の反応、あとは……生殖です」

「なるほど、それは」

 こちらとしても承服しかねる。やったところで成果が得られるという保証も無いのに、自らの身体を差し出すというのはちょっと。

「無論、それは愚かしい事だと皆認識していますのでご安心下さい。何より、貴重な戦力をそのような事に使うなど本末転倒です。それで研究に進展があるかどうかもわからないのですから」

「そうですね。……ああ、それで、積極的に子供を作れと」

 ある種自然な生殖機能の実験である。人と我々の間に子が成せるのかどうか、遺伝的形質はどうか、というのが合法的にわかる。

「そういう事です。ですが、それも皆さんの自由です。当然ですが強制はしません」

 当然だろう。妊娠出産を強要したり禁止したりするのは人権侵害である。この国でもつい最近までそのような人権侵害が行われていたのだ。ある病気が遺伝するという医学的根拠の無い風聞によって生まれたものだ。

 この国ではそのような黒い歴史が記憶に新しい以上、流石にそれを彷彿とさせるような真似はしまい。明るみに出れば世界中から非難を浴びてしまう。

 しかし、待てよ。既に取り組んでいる、と。

 しばし、考える。健康診断のデータは良いだろう。血液や体細胞をいくら取られようが問題はない。尿検査だって一般の人間でも毎年当たり前のようにしている事だ。それ以外。

「つかぬ事をお伺いしますが、あの二人、ここに来てから生理はありましたか?」

「……まだですが」

 そうかそうか、まだか。でも、きっとそれは研究素材になるのだろう。気分は悪いが、どうせ捨てるものだ。別にどうという事はない。しかし、研究者がそれを回収してきて顕微鏡を覗き込んでいるのを想像するのは、流石にちょっと気持ちが悪い。

「まぁ、いいです別に。私も今月はそろそろですから、何なら提供しますよ」

「やりにくいですね、どうも」

 オオイは眉間に皺を寄せた。美人が台無しである。

 別にこれは人権侵害というわけではない。それに同意があれば犯罪でもない。

「質問は以上ですか?」

「そうですね、わからないことは他にもありますが、それはまた別の機会にでも」

 急ぐ事は無い。明日からもここで働くのである。時間はいくらでもある。ああ、だがちょっと待て。

「あー、ええと、事務的な話に戻るのですが」

「何でしょうか」

「任務中の食事って、経費で落ちますよね?」



 報告書を書き終えて提出し、ソウの部屋に戻ってきた時にはもう夜になっていた。

 玄関から戻ると、彼がリビングから廊下に続く扉を開けてこちらを出迎えた。

「遅かったな。ちょっと心配したぞ」

「うん、ごめん。飯はどうした?」

「まだ食ってない。もうちょっとしたら何か作ろうかと思ってたけど」

 作る、と言ってもこの男が作れるものに大したものはない。多分カップ麺とかその辺である。

「そっか、んじゃぱぱっと何か作るわ。弁当の準備もしたいし」

 洗面所で手を洗って、前掛けをつけて冷蔵庫を開ける。土曜日に買っておいた食材があるので、いくらでもどうにでもなる。鶏のもも肉とニラを取り出した。

 フライパンで片栗粉を付けた鶏肉を焼いていると、ソウがキッチンのカウンターに腰掛けた。

「で、どうだったんだ?」

 どうだった、というのは任務の話だろう。

「そうだな、機密事項もあるから詳しい場所は言えないけど、問題なかったぞ」

 料理の手を止めずに、ごく大雑把にあったことを話した。

「すげえな、超音速輸送機とか、初めて聞いた。それは極秘事項じゃないのか?」

「いや、普通に基地から飛んでるんだぞ。隠すも何もねえだろうが」

 超音速機は物凄い音を立てるのである。隠そうにも隠しようがない。それはもう、写真にだっていくらでも撮られた事だろう。

「しかし、オセアーノまで二時間半かぁ、日帰り旅行が出来るんじゃね?」

「出来るだろうけどさ、一般人が乗ったらむち打ちになるぞ。物凄いGなんだから」

「マジかよ、防衛隊の人、良く平気だな」

「そこは俺を心配するんじゃないのかよ。航空防衛隊の人は鍛えてるから平気だよ」

 眼の前の美少女よりも屈強な兵の方を心配しているのだ。まぁ、恐竜を殴り殺すようなゴリラ女なんか心配するだけ無駄だというのもあるが。

「まぁ、ミサキは頑丈だし。五階から飛び降りて平気な奴にどんな心配しろってんだよ」

「そりゃあそうだけどさ」

 見た目の問題なのである。普通、人は見た目にまず思考を左右されるのである。

「ほれ、出来たぞ。テーブルにもってけ。ビール出すから」

 大皿に持った鶏肉とニラの甘辛炒めを持って、適当な男は嬉々としてテーブルについた。お互いのグラスに黄金色の酒を注いで、少し遅い夕食を始めた。

 暫くオセアーノでは何を食っただとか、あっちは冬だから寒かっただとか大したことのない話をしていたが、話が彼の妹の事に及んだ時に妙な感じになった。

「キョウカちゃん、あの後すぐに帰ったんだろ?」

「ああ、うん。コーヒー飲んで暫くして帰ったよ。……うん」

「なんだよ」

 急に歯切れが悪くなったソウに単純に疑問を抱く。何かあったのだろうか。

 鶏肉とニラを口に運びながらビールを飲んでいるこいつは、時々視線を特定の方向に向けている。警戒されては困るのでこちらは視線を動かさないが、どうやらこいつの端末が置いてあるデスクに何かがあるようだ。

 ビールのおかわりを持ってくるために空き缶を持って立ち上がり、冷蔵庫から二本、持ってくる。テーブルに置いてすぐに、振り返ってソウのデスクに近寄った。

「ああっ!だっ!」

 慌てて立ち上がろうとしたソウは、膝をテーブルの縁に当てて悶絶した。間抜けである。気にせず上に置いてあった紙を見た。

「……これ、キョウカちゃんが置いていったのか」

「そうだよ。親父もお袋も、体裁が悪いからさっさとしろって」

 机の上においてあったのは、公的機関に提出するものとは思えないような絵の入った書類。必要事項と形式が規定のものなので問題ないのだろうが、空白部分には抱き合う男女の絵、その周りには花の絵が大量に散っている。この形式は所謂婚姻届というやつだ。

「体裁、まぁ、そうか」

 それは悪いだろう。議員や地元の名士の御曹司が、高級マンションで得体の知れない女と同棲しているというのは。フユヒコはまだ大臣などではないのでそこまででもないだろうが、仮にこれが週刊誌なんかに嗅ぎつけられでもすれば醜聞の一種になる。出世にも響くだろう。

 別に既に成人している議員の息子がどうしようが議員当人には関係ないだろうと思うのだが、世の中の噂好きの大衆はそうは思わない。それはもう、好奇の目を議員本人に注ぐことになるだろう。とは言え。

「どうなんだ?大丈夫なのか?こんなもん出しても」

 思わず口に出る。彼の両親はこちらの事を知っているにしても、普通に考えたらつい最近戸籍が出来たばかりの人間である。怪しい事この上ない。それと、婚姻関係を結ぶなどと。

「いや、大丈夫かどうかで言えば大丈夫だろ。戸籍は……免許とったんだろ?」

「ああ、そういえば」

 まだ免許証を受け取っていない。それには本籍地も何もかも書かれているはずだ。自分で自分の戸籍の内容がわからないというのも変な気分である。

「まぁ多分明日以降に受け取れるからそれまで待ってくれ」

「ああ、わかった……いや、ちょっと待て。お前は良いのかよ!?」

 変な事を言う奴だ。適当にしておいて困るのはこいつだろうに。ソウが大丈夫だというのであれば、こっちは別にどうという事はない。というか、こちらは望んでここで世話になっているのだ。たかが書類一つで解決するというのなら躊躇などする必要は無い。

 取り敢えず名前の所だけ書いておいて席に戻った。適当な男は適当な顔を微妙に複雑な表情にしている。笑っているような、困っているような、何とも表現できない顔色だ。

「なんだよ、嫌なのか?」

「嫌じゃねえよ。そっちはどうなんだよ」

 嫌だったら自分から名前を書いたりしない。

「今更何を嫌がる事があるんだよ。それとも、何か、お前はやるだけやって女を捨てるような、そんな男なのか」

「なっ!?」

 とっくに一線を超えているのだから何を躊躇う必要があるというのだろうか。ただ書類を一つ出すだけである。別に式を挙げて人前でキスしろとか言われているわけではないのだ。何も問題はない。

「別にいいだろ、紙切れ一枚出すだけで体裁が整うんなら。あんまり深く考え過ぎんなよ」

 そう言うと、やっと適当な男も元の適当な状態に戻った。

「まぁ、それもそうか。そうだよな、今更か」

 ソウは泡の消えてしまったグラスを傾けて、残ったものを一気に飲み干した。

「あー、でも提出は役場にだから、平日昼間じゃないと無理なのか。ソウは有給取ればいいだろうけど、こっちはどうなんだろうな」

 有給などというものは無いだろう。あったとしても付与されるのは通常半年後だし、出動要請があれば休みの日だろうが容赦なく出勤だ。

「昼休みとか、出てくる暇は無いのか?」

「暇、は、あるな。でも、許可されるかどうかは聞いてみないとわからん」

 明日、オオイに聞いてみよう。暇な職場かと思ったら色々とやることが増えてきた。大体自分のせいなので自業自得といえばその通りなのだが。

 こちらも黄金色の少し苦い酒を、音を立てて喉の奥へと流し込んだ。



 翌日は朝から体調があまりよろしくなかった。だが、病気でもないのに休むわけにはいかない。幸いにも最初の頃よりは大分痛みにも怠さにも慣れてきた。

「ミサキ、大丈夫か?休んだほうが良いんじゃないか?」

「大丈夫だよ。そこまで重くねえから。そんじゃ、先に出るから、弁当忘れんなよ」

 弁当を詰める気力もあったので問題は無いはずである。ブランド物のバッグにいつもよりも多く詰め込んで、地下駐車場まで降りていった。

 相変わらず眠そうなサカキの運転するクルマに乗り込む。

「免許が取れたので、送迎はいらなくなると思いますよ」

 安全運転に余念がない彼にそう言うと、ほっとした様子を隠すつもりもなく彼は安堵の息を吐いた。

「そうですか、助かります。どうも、僕は朝が弱くて」

「すみませんね、無理をさせてしまって」

 外国にも出ることのある外務官が朝に弱いというのはちょっと問題ではある。時差ボケがとんでもなく酷いことになってしまうのではないだろうか。

 まぁ、彼はまだ若い。自宅に帰れないのは可哀想だが、時差のある国に行くよりは、今の仕事の方がまだマシだろう。大使館に駐在してしまえば帰れないのはどちらも同じなのである。

 駐屯地に辿り着いて、いつもの建物の前まで送ってもらう。こちらを下ろすと、彼は入口近くにある駐車場まで戻っていった。

 建物に入り、まずは監視室にいるオオイに挨拶をする。奥のデスクに座っていた彼女は、デスクの上に置いてあったカードを持ってこちらへとやってきた。

「おはようございます、カラスマさん。公安から免許証が届いています。どうぞ」

「ありがとうございます。それで、貸与のクルマというのは」

「帰りにお渡ししますので、こちらに寄って下さい。それと、ご依頼の物は部屋に置いてあります。食材は冷蔵庫に」

 頼んだことは漏れ一つ無くやってくれる。手配したのは彼女の部下だろうが、二佐を便利屋のように使ってしまっている事に少しだけ申し訳なく思った。

「ありがとうございます。ええと、それと一つ、相談なのですが」

「何でしょうか?」

 監視室のカウンター越しに少しだけ声を小さくする。

「今日ではないのですけど、昼休みに少し出ていくのは可能でしょうか?役場が平日しか開いていなくて……」

 そう聞くと彼女は何も問題ない、と頷いた。

「構いませんよ、カラスマさんでしたら。しかし、役場ですか?公用が必要であればこちらでもある程度は手配できますが」

 流石にこれは他人にしてもらうわけにはいかない。本人が行かなければならないのだ。

「いえ、それはちょっと難しいかと」

「そうですか?一体役場に何のご用で?」

 言うべきか。まぁ、言っても構わないだろう。

「婚姻届を出そうかと」

「こんいっ!?」

 叫びそうになったオオイは慌てて口を塞いだ。

「ご、ご結婚を?も、もうですか?お付き合いされてまだ半年も経っていないと聞いていますが」

 そうか、確かにソウの所に転がり込んだのは春の事だ。付き合い自体はもう20年近くにもなるのだが、この身体になってからはそのとおりだ。

「一緒に住んでいるのですから、普通ではないですか?籍を入れないというのも外聞が悪いので」

「それは、確かにその通りです。そうですか。わかりました。そ、それで、式などは?サメガイ議員の息子さんなのですから、結構派手に」

 どうしてそうなるのか。紙を一枚出すだけだ。

「今の所その予定はありません。書類を出すだけなのですぐに終わります」

 オオイは何故か少しほっとしたようだった。

「わかりました。では、良い日取りがお決まりになりましたらお知らせ下さい。ええと、直近で大安の日は」

「いや、別に六曜は気にしないのでいいです。というか、良い日取りとか、書類を出すだけなのに良い日も何も無いでしょう。相手の有給休暇に合わせるので、決まったらまたお知らせします」

 この美人の防衛官はそういった事を気にする性格だったのか。意外と言えば意外である。そういえば彼女はまだ独身だろうか。あまり既婚女性で防衛幹部というのは聞いたことがないが。

 だが、流石にそれを聞くのは憚られる。個人情報であり、プライベートな事だ。タニグチではないのだから自分がそんな事を聞けるはずもない。

 彼女に礼を言って階段へと戻り、地下へと降りていく。受け取った免許証を見ると、本籍地も住所も今住んでいる所になっていた。婚姻届を出すには少し不自然な気もするが、大丈夫だろうか。

 ハンドルを回し、一般人には重たい扉を開けて中に入る。奥では早くも二人がトレーニングを開始していた。

『おはようございます、二人共。早いですね』

 呼びかけると二人共トレーニングを中断して駆け寄ってきた。

『ヘイ!ミサキ!今日もクソエロい身体してんな!』

『おはよう、ミサキ。うん、やるべき事はさっさとやってしまえって、おじいちゃんが』

 ジェシカのこの挨拶はどうにかならないのだろうか。流石にこの状態で表に出すのは相当厳しいだろう。メイユィの方はメイユィの方で、マフィアのボスが言っていたのだと思えば何か別の意味に聞こえてしまう。

 しかし、少しだけ気になった事があった。

『ジェシカもメイユィも、先週も同じトレーニングをしていませんでしたか?』

『そうだぜ』『そうだよ?』

 全く疑問にも思わず答えてくる二人。どういう事だろうか。

『同じところばかり鍛えても仕方がないでしょう?そもそももう負荷も殆ど無いという話だったのに』

 筋肉というのは一箇所だけ鍛えても仕方がない。いや、筋肉なのかどうかはわからないが。それでもずっと同じトレーニングではあまり意味がない。鍛えた場所だけでなく、そこに繋がる場所も満遍なく鍛えなければ、バランスの悪い身体になってしまう。いや、これも筋肉じゃないのでわからないのだが。

『うーん、でも、長所を鍛えたほうがいいんじゃないかって』

『オレもそう思うぜ!やっぱパンチは破壊力だろ!』

 ぶんぶんと目にも留まらぬシャドウを行うジェシカ。僅かな箇所だけ鍛えている割には随分と速いが。

『長所を伸ばすには、そこに関連する別の部位も鍛えなければいけないんですよ。私のトレーニングを見ていましたか?』

『ああ、そういやミサキは色んなクソマシンを使ってたな。使い方、わかるのか?』

 わからないのか。だからサンドバッグばかり叩いていたのだ。

『私も良く分からない。今やってるのは、おじいちゃんの所にもあったマシンだから』

『そうですか。それじゃあ、今日は二人共別のマシンを使ってトレーニングしましょう。私が教えるので、言う通りにやってみて下さい』

 ロッカールームでタンクトップとぴっちり短パンに着替えてすぐに戻ってくる。流石に前回で懲りたので、今日はそこまで派手ではない下着にしてある。

 トレーニングジムにあったものと基本は同じだったので、使い方とフォームを教えてやらせてみる。二人共新たな負荷に驚いたのか、面白そうに次々と色んな場所を鍛え始めた。

 体調が悪いので自分は強いトレーニングは遠慮しておいた。彼女達はそれに気付いたようだが、察したのか特に何も言ってこない。昼前になったので、一旦シャワーを浴びて着替え、給湯室に入った。

 新たに運び込まれたらしき巨大な業務用冷蔵庫を開けてみると、言っておいた通りの食材が大量に入っている。キッチンの上にある戸棚を開けてみれば、こちらにもインスタントコーヒーや紅茶のパックと共に調味料が並んでいる。

 いつも使っているシステムキッチンに比べれば大分狭いが、元々住んでいたヤマシロ県のワンルームと同じぐらいの設備だ。何も問題はない。ここは元々シェルターだったためかガスは当然引いていない。全てIHだ。

 これなら問題ない。二人共よく食べるので沢山作ろう。一品だけだが栄養バランスは良いはずである。まな板を取り出して洗い、どでかい豚肉のブロックに包丁を当てた。


『ミサキ!何作ってんだ?おっ!クソ美味そうな豚のフライじゃねえか!』

『ジェシカ、まだ作っている途中ですよ。すぐに持っていくので待っていて下さい』

 彼女は嬉しそうに鼻歌を歌いながら談話室の方へと去っていった。

 ジェシカは肉が好きだ。そしてメイユィは甘いものが好き。甘くて美味しい肉料理といったらこれだろう。央華でも比較的メジャーな料理である。

 大盛りの飯と大盛りの皿を三つずつ盆に乗せて談話室へと入る。目の前にでんと置かれた料理に、ジェシカは不思議そうな顔に、メイユィは嬉しそうな顔になった。

『タンツーロー!私、これ、大好き!でも、タンツーローが食べたいってオオイに言ったけど、本格的な央華料理は作れないって言われたの』

 それは多分、料理名をオオイが知らなかっただけだろう。

『メイユィ、タンツーローはヒノモトではスブタという料理なのです。今日のものにはパイナップルは入っていませんけどね』

『いいよ!美味しそう!』

 大喜びのメイユィとは対象的に、ジェシカは怪訝そうな顔をしている。

『なんだ?豚のフライかと思ったら違うのか?』

『野菜も食べて下さいね、ジェシカ。美味しく作ってあるので、ライスにも合いますよ』

 筍にピーマン、人参も入っている。彼女は肉が好きだとは言え、野菜が嫌いだというわけではないようだ。嫌いなものが無いというのは良い事だ。どこかの納豆嫌いにも見習わせたい。

 各々が匙や箸を取り、ごく自然に昼食が始まった。

『美味しい!央華のよりちょっと酸味が強いみたいだけど、ご飯にもとっても合うよ!』

『うおっ!クソ美味えなこれ!柔らかくて甘酸っぱくて、いくらでも食えるぞ!』

 二人共掻き込むようにして飯を頬張っている。あまり上品ではないが、見られているとは言えここには自分達しかいないので構わないだろう。自分も一つ、肉を箸で摘んで口に入れた。

 下味がついて揚げられた豚の肉に、甘酸っぱい餡が絡んで非常に美味い。酸味のある料理というのは割と好き嫌いが別れるものだが、不思議とこの酢豚が嫌いなヒノモト人というのはあまりいない。ジェシカも喜んで食べている所から、合衆国の人間にも受け入れられているようだ。

『これ、なんつったかな。あれだ、スウィートアンドサワーポークだ』

 甘くて酸っぱい豚肉、とジェシカが言った。何を当たり前の事を言っているのだ。

『そのまんまじゃないですか。それが何か?』

『いや、そういう料理があるんだよ!野菜は入ってねえし色も違うけどな』

 そうなのか、知らなかった。

『そうなんですね。似たような料理というのはどの国にもあるものなんですね。まぁ、スブタは元々央華のタンツーローなんですが』

 元がどうであれ、酢豚は二人には好評だった。大量に作った料理と飯はきれいさっぱり全員の胃袋の中に収まる。わざわざ作って本当に良かった。

『はー、クソ美味かったぜ。なあミサキ、明日は何を作ってくれるんだ?』

 既に自分が毎日の昼食を作ることに決定してしまったようだ。別にそれは構わない、趣味、娯楽のようなものだ。

『そうですね、出来れば一品だけでもバランスの良いのが望ましいですが……カレーライスはどうですか?』

 肉と米と野菜だ。サラダもつければほぼ完全食である。

『カレー?町にもあったけど、クソ高い割に普通だったぞ』

『それは店で食べたからでしょう。ヒノモトの家庭料理は売っているものと少し違いますよ』

 こちらにもカレーハウス等専門店は沢山あるが、家庭用のカレーライスとはまた大分毛色が違う。あれはあれで美味いが、食べ飽きないものとしての家庭料理とは趣が異なる。

『カレー?私、あんまり辛いのは苦手……』

『大丈夫ですよ、メイユィ。あまり辛くないものを作りますから』

 流石に子供向けにまで甘くする必要はないだろうが、ヒリヒリしない程度の方が自分も好きだ。凝ったものも作ったことはあるが、あまり日常的に食べるようなものではない。

『本当?ミサキがそう言うなら食べてみたい』

『それじゃあ、明日はカレーライスにしましょう。オオイ二佐には材料を買っておいて貰うように言いますね』

 午後から内線で言っておけば良いだろう。なんなら彼女達にも振る舞っても構わない。立派な貨物用エレベーターがあるのだ。

 鍋や食器を洗っていると、二人が手伝うと言ってきたので一緒に洗う事にした。最初はややぎこちなかったが、彼女達はすぐに覚えてしまった。やはり学習能力は高い。

 二人共キッチンに立つ事は無かったというのだが、多分やらせればなんでもすぐに出来るようになるだろう。

 腹が一杯になったせいか、二人は昼寝をすると言って部屋に戻っていった。自分も一旦部屋に戻る。鈍痛と怠さのせいでベッドに横になりたくなる誘惑を振り切って、デスクに置いてあったテキストとメモリーカードを手に取る。端末を起動し、立ち上がったところで端子にそれを差し込んだ。

 中身をざっと見て、おかしい所がないのを確認する。適当な事を教えられても困るからだ。ある程度確認し終えた所でトイレに立った。


『どうしたんだ?ミサキ?さっきのスブタ、食いすぎか?』

『人聞きの悪い事を言わないで下さい、ジェシカ。少し具合が悪くなっただけです』

『大丈夫?寝てたほうが良いんじゃない?』

 彼女達が起きてきたのでトレーニングルームに出てきた。別にトレーニングをするためではない。彼女達は単に目が覚めて暇だっただけなのだ。

 こちらは先程まで経費と武器の手入れに必要なものの申請書類を面倒な紙きれに書き込んで、オオイに連絡を取って給湯室のエレベーターで上に送ったところだ。

 紙だ。紙である。この駐屯地、というよりも、防衛隊は旧態依然とした紙に頼っているのである。思えば婚姻届も紙である。DXとかなんとか偉そうな事を言っておきながら公的書類はまだ殆どが紙だ。老人ばかりの前職ですら報告書の電子化が進んでいたというのに。

『私の具合は構わないので、ヒノモト語を覚えましょうか。昨日、約束していましたよね』

 メモリーカードと紙で出来たテキストを二人に向かって振った。

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