第15話 議員

「んお?」

 煮玉子とカレーを肴に大量に酒を摂取したキョウカ・サメガイは、間抜けな声を上げてあまり見慣れない天井を発見した。

 何やら拘束されているなと感じた彼女が横を見ると、同じく酔っ払って寝てしまったミユキ・クスノキ旧姓カラスマがこちらに両腕を回して抱きついていた。

「あー」

 記憶を思い起こして、抱きついた友人の腕を振りほどいて上半身を起こす。涎が少し垂れていたので袖口で拭った。これは兄の家に置きっぱなしになっている彼女自身の着替えだ。

「おなかへった」

 何故か部屋の隅に転がっていたスマホを起動して時間を見ると、既に午前8時だ。それは腹も減るだろうと、和室の襖に手をかけて開く。

 和室の先のリビングには誰もいなかった。カーテンの隙間から初夏の日差しが部屋に入り込んで、室温を上げようと無駄に頑張っている。キョウカは近くの壁にあったリモコンを押して、リビングのエアコンを起動した。

「あれ?カラスマさんは?あさごはん、まだ?」

 彼女の兄の部屋に居候しているミサキは、誰よりも早く起きている事が常だ。なのに、米は炊きあがっているものの、他の準備は一切されていない。

「寝過ごしたのかな?カラスマさんにしては珍しいなあ」

 ふらふらと冷蔵庫に近づいて麦茶の容器を取り出すと、適当に置いてあったグラスに注いで一気に飲み干した。唇の脇から溢れた麦茶が喉を通って胸元を濡らした。

「んあー。何?キョウカ。あー、頭いた」

 続いて起きてきたミユキは若干二日酔いのようだ。ただでさえ人相の悪い顔を、青くなった顔に手を当てて、眉間に皺を寄せている。とても女の顔とは思えない。

「ミユキ、カラスマさん、まだ寝てるんじゃない?起こしてこようか」

「え?おに……アイツが?そんな事ってあるの?」

「実際いないじゃん。疲れてるのかもしれないけど、お腹へったし。起こしにいこ」

「あー、うぃ」

 比較的元気なキョウカと、二日酔いで死にそうなミユキは揃って廊下からソウの寝室へと向かった。ノックもせずに普通に扉を開ける。

「おーい、おはよー。カラスマさん、あさごは……ん……んん!?」

「おいクソ兄、さっさと……おい」

 彼女たちが目にしたのは、寝間着姿のソウに全裸で抱きついて眠っているミサキの姿だった。どう見てもこれは事後である。

「いやあ、ついにやっちゃったかぁ。ね、ね、ミユキ。甥と姪の名前、何がいいかな?」

「……いや、ないわー。普通、妹達と同じ屋根の下で乳繰り合うか?」

 騒ぐ二人に、先に目を覚ましたのはミサキだった。

「ん……お、あ。あー、悪い、二人共。今朝飯作るから。リビングで待ってて」

 ミサキはベッドに半身を起こすと、大きく伸びをして、それよりも大きな欠伸をした。

 その後、自分の身体に視線を落とすと、酷く気まずそうな顔をして言った。

「あー。うん」

 それだけだった。ベッドから降りると、妹達の脇を通り抜けて行こうとする。それをミユキがむんずと捕まえた。

「おい、したのか」

 単純明快、これ以上無い明確な問いである。しかしそれに答える前に、キョウカがまだ眠っている兄のところへと駆け寄った。何故か寝間着の下を押さえているソウの腕を跳ね除けて、下着ごとずるりと下半身を露出させる。

「……ダメだ、判別つかない。でも、多分これは……やってない」

「ちょっと!?キョウカちゃん!何やってんの!」

 いくら妹だとしても流石にそれは無いだろうと咎めようとしたミサキだったが、自分が全裸だったという事を思い出して、ミユキの腕を振り払うと慌てて部屋を出ていった。

「やってないの?」

「やってないね。どういう事!?全裸のカラスマさんがいて、それでもやってないって」

「EDかもしれないね。一度病院に行かせたほうが」

「マジか。ショックだー……」

 好き勝手言っている妹達の声にも反応せず、ソウはずっと眠っている。夜通し性欲を我慢した上で漸く眠りについたのであるから当然と言えば当然だった。


「あのさ、言いたくないけど、いくら兄妹とは言え、勝手に寝室に入るのは良くないと思うよ」

 昨夜のカレーを温めて丼飯に乗せ、上に目玉焼きを乗せたものを二人に出して言う。

「カラスマさんが寝坊するなんて珍しいので、何かあったんじゃないかと思って」

「そう、ナニかあったんじゃないかと」

 出された朝食をもりもりと凄い勢いで平らげながら二人は言う。

「何も無かったよ。俺が裸で寝てたのは、着替えが和室にあって二人の部屋に入れなかったからだよ」

 そう、そう思ったからそのままソウの寝室に向かったのだ。

「わざとでしょ」

「わざとだね、というか、そうしてくれってお兄ちゃんに頼まれたか」

 そんなわけがない。ソウがそんな事を言うわけが。無いわけでもないだろうが。

「いや、この際わざととかそういうのはどうでもいいよ。何も無かったんだからそれでいいじゃないか」

 そう、あいつはまるで手を出して来なかった。呆れた精神力の強さである。錯乱していた昨夜の自分もおかしいが、それを跳ね除けたあいつの強靭な理性には脱帽だ。

「良くないよ!?なんで!?なんでしてないの!?あたしの甥と姪は!?」

 早くも二人作る事を想定されている。脳内で勝手に未来を作らないで欲しい。

「ソウが我慢したんだからしょうがないよ。俺もちょっとその……おかしくなってたから。昨夜のは何も無し。何も無かったということで」

「そんな言い訳が通用するとでも思っているのか!」

 唐突に妹のミユキがテーブルをどんと叩いた。青白い顔はカレーを食べて少し良くなった。コーヒーではなくて温めたミルクを持っていく。

「言い訳って。実際何も手を出されてないから。胸すら触られなかったぞ」

 ミユキよりも激しい音を立てて、キョウカが両拳をテーブルに打ち付けた。

「おかしいでしょ!?Fカップだよ!?男なら泣いて喜ぶでしょ!?やっぱりお兄ちゃん、EDなんじゃないの!?」

「いや、EDと胸を触らない事に関連性はないぞ」

 無駄に冷静に指摘するミユキと、半狂乱になってわめくキョウカ。ミルクを啜って熱かったのか、妹は少し顔を歪めた。

「それにしても、アンタ、心まで完全に女になっちゃったんだね。もう私の妹確定だ」

「あっ!それじゃ、ミユキはあたしのお義姉さんになるね。お義姉様!」

「よきにはからえ」

 下らないことを延々とくっちゃべっている妹どもを無視して、昨夜の異常性を考える。妹が言っている事はある意味当たっている。あの時、自分は確かに精神まで肉体に引っ張られて女性の思考になっていた、ような気がする。

 だが、今は元に戻っている。考え方も喋り方も男のそれだ。その事に特に違和感も無く、恐ろしい事に昨夜のアレも自分と地続きのものだと冷静に考えられてしまっている。

 そう、あれも自分であり、今の思考も自分のものである。我思う故に我があるというのは当然だが、自己認識は一片たりとも欠落していない。全て自分の意思だった。誰かに操られただとかそういう事は無い。

 多少性欲が暴走して錯乱したというのはあるが、酒に酔ったと思えば別段変な事でもない。ただ、逆行性健忘は起こっていない。ただの酩酊とは違うようだ。

「あんまり飲みすぎないようにしないとな」

 二人にも自分にも向かって言う。これは戒めだ。

 妹達は不満そうにはーいと返事をして、着替えを済ませると近くで買い物してくると言って出ていった。時計を見ると、午前9時45分。休日と言えどもそろそろソウを起こさなければまずいだろう。

 寝室をノックしたが、返事は無い。熟睡しているようだ。仕方なく扉を開けて中に入る。

 ソウは下半身を露出したまま眠っている。キョウカは彼の下を脱がした後、そのままリビングに戻ってきたようだ。せめて戻してから来いと言いたい。

 仕方なく近寄って彼のスウェットの下と下着を掴み、持ち上げようとした時、適当な男が目を覚ました。

 ソウは自分の置かれている状況を一瞬で誤解して判断し、慌ててベッドから転がり落ちた。絨毯の上を転がりながら、器用に寝間着を戻している。

「な、な、何してるんだ!女から男に対してでも強制わいせつは成立するんだぞ!」

「落ち着け、それをやったのはキョウカちゃんだ。俺は戻そうとしてだな」

 とは言え、昨夜の事を考えれば誤解されたとしても仕方がない。その事は謝っておかねばならない。

「すまん、ソウ。昨日の夜はどうかしてたんだ。その、犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ」

「いや、何もしてねえからな!?噛まれたって、噛まれてないからな!?」

 必死に否定する適当な男。髪に寝癖がついて余計に適当さを増している。

「いや、知ってるよ。何かされてたらわかるって。朝飯、出来てるから着替えて起きてこいよ。ほんと、悪かったな」

 朝起きた時もこいつは全く同じ姿勢だったし、そもそも触られれば目が覚める。挿れられたら痕跡が残る。そもそも自分は恐らくまだ処女だ。

 恐らく、というのは、怖くて確認していないのである。ただそれだけの話だ。

 肉体の改変が行われた時にどのような身体になったのかは、表側からだけでは分からない。内側は自分では調べられないのだ。故に、内側のデータはマツバラ医師の下にあるものだけである。つまり、何も分かっていない。

 リビングと一体化しているキッチンでカレーを温め直していると、寝癖はそのままで普段着に着替えたソウが入ってきた。非常に気まずそうな顔をしている。

 妹達に出したものと同じ、目玉焼きを乗せたカレー丼を出すと、ソウは急に機嫌を直した。嬉しそうに匙を持って、いただきますと言って貪り食い始めた。自分も腹が減ってきたので、同じものを持って向かいに座る。

「キョウカ達は?」

「買い物に行くってさ。サクラダには行けないけど近所には店が多いからって」

 グラスに入れた麦茶を隣に置いたが、ソウはそちらには手を付けず、一心に飯とカレーと卵を口に運んでいる。小動物みたいでちょっと可愛い。

「今日、おじさんが来るんだろ?何時ぐらいに来るって?」

 普段から掃除はしているので部屋は綺麗だが、時間によっては食事も一緒にしていくだろう。昼か、夜かはわからないが。

「どうだろ。午後の新幹線で来るって言ってたから、多分夕方じゃないか」

 国会の会期中なのにわざわざやってくるのだから、何か大切な用事があるのだろう。午後に出るという事は、休日にも関わらず午前中の仕事を終わらせてから、という事に違いない。

「じゃあ、晩飯も一緒に食べて行くんだよな。泊まるのか?」

「わかんねえ。その辺何も言ってきてないから」

「聞いとけよ。今からでも。色々準備がいるだろ」

 キョウカ達は買い物が終わったらヤマシロ県に帰ると言っていたので、部屋は問題ない。ただ、そうなるとまた自分がソウの寝室で寝なければならなくなる。リビングで寝ても良いのだが、そうすると彼の父親を恐縮させてしまうだろう。

「わかったわかった。食い終わったらワイアーしとく。ミサキは今日、どうするんだ?」

 予定は無い。というか、毎日が休みなので基本何も差し迫った予定は無いのだ。

「ここでじっとしてるよ。昨日の今日だからな、あんまり外に出て良いとは思えねえし」

 紙袋を被っていたとは言え、先日の動画と関連付けて見る人間がいないとも限らない。いや、普通に考えれば化け物を殴り倒した人間など、自分を置いて他にはいない。長い髪だって出ていたのだから、ちょっと考えれば同一人物ではないかと思いつく。動画を見た大勢の人間のうち、そんな簡単な事に気づかない者など、どちらかと言えば少数派だろう。

「まぁ、そうだよな。俺も出かける用事はねえし。あ、買い物なら俺が行ってくるよ」

「そうか?それは助かるな。昼飯は今ある材料で何とかなるけど、晩飯は何がいい?おじさんの好物って何だ?」

 せっかく食事でもてなすのだから、好きなものを振舞うのが良いだろう。美食に慣れた国会議員に出すのは流石にちょっと気が引けるが、できる限りの事はすべきだ。

「なんだろ?確か、寿司とかが好きだったかな」

「寿司かよ……出前、取るか?」

 流石に寿司は握れない。手巻き寿司やちらし寿司なら可能だが、客に巻かせる手巻き寿司や、子どもの祝いに出すようなちらし寿司は、大人を饗応するのに相応しいとは思えない。

「いやあ……別に必要ないだろ。普通の飯でいいんじゃね」

「普通って。お前なぁ。まぁいいや、お前がそう言うんならそれで。苦手なもんとかアレルギーとかは?」

「納豆が嫌いだ」

 適当なこの男にまた呆れた。

「それはお前の嫌いなもんだろうが。おじさんの嫌いなものやアレルギーを聞いてんだよ」

 ソウは納豆が嫌いだ。自分は好きで割と良く食べるのだが、こいつは粘りと匂いが嫌いだと言って近寄ろうともしない。典型的な食わず嫌いである。

「ああ、親父も納豆は嫌いだよ。あとブロッコリー。アレルギーは聞いたことない」

 なんともピンポイントな好き嫌いである。だがまぁ、それを避ければ良いだけなら問題はないだろう。

「しかし、普通って言ってもな。昨日はカレーだったし……」

 自分が買い物に行くのであれば、良さそうな食材を見つけてそこから何を作るか考える事も出来る。だが、献立を決めてから買いに行かせるというのは中々困る。

「ソウは何か食いたいもんあるのか?何でも良いは無しな」

 適当な友人は何でも、と言いかけて止まった。外で食事をする時も、こいつは何でも良い、ばっかりなのだ。

「そうだなぁ。もう夏だし、こう、涼しい部屋で辛いもん食いたいよな」

「昨日、というか今もカレー食ってるじゃねえか。また辛いのが良いのか?」

「違う辛さならいいだろ?麻婆豆腐とか。あれ、ビールに合うんだよなぁ」

 結局は酒である。酒飲みは大体辛いものや塩辛いものが大好きだ。しかし、麻婆豆腐は良い案である。

「それじゃ、丁度季節だし麻婆茄子にしようか。スパイスとか辛味噌は結構揃ってるし、後はひき肉と」

 頭の中で材料を考えていると、カレーを食い終わったソウは目を輝かせた。

「いいな!麻婆茄子!今から晩飯が楽しみだぜ」

「おじさんの為に作るんだぞ。わかってんのか?」

「わかってるわかってる。酒も買ってこないとな、あいつらに殆ど飲まれちまったし」

 確かに、酒飲みが三人も集まるとあっという間に冷蔵庫の中の缶は減っていく。食費のうち一番コストがかかっているのがこの酒、主にビールである。

「なあ、酒だけど、発泡酒か第三のビールじゃダメか?」

「ダメだ」

 即座に却下された。ここが許可されれば大幅なコスト削減になるのだが。

「どうせ俺が金出すんだからいいだろ?発泡酒とか第三はさ、なんか香りが物足りないんだよ」

「まぁ、それはわかるけど」

 高い金を払えば美味いものが飲めるのは当たり前だ。だが、この国で毎日それが許される家庭というのはそう多くない。故に酒造会社も知恵を絞って工夫を重ねて、税金の安い酒を作り出したのだ。実際、売れている。

「第三も酒税上がって高くなっただろ。そうかわんねえって」

「いや、流石に値段の差はまだ歴然としてるぞ」

 小売価格にして倍近くの差があるのだ。変わらないなどいう事はない。

「とにかく、ダメだ。そこは譲れない。それに、親父が来るのにビールも出せないようじゃ恥ずかしいだろうが。我が家にはビール純粋令が施行されている」

「ヴァイマールかよ。まぁ、そこまで言うならいいけどな」

 自分はただの居候だ。そこまで口出しするのも野暮というものだろう。それに、こちらも飲むのである。良いものが飲めるというのであればそこに全く文句は無い。

 朝から結構重い食事を終わらせて、買い物のメモをソウに渡すと、自分はいつものように洗い物と掃除、洗濯を済ませてしまうのだった。



 妹のミユキとソウの妹のキョウカは、一旦戻ってきて荷物を纏めてすぐに帰っていった。昼も食べていったらどうかと言ったのだが、二人共これ以上旦那を待たせるわけにはいかないと、そそくさと帰っていった。電車は午後から再開していた。

 あれだけミサイルを撃ち込んだにも関わらず、線路に対する損害は無かったようだ。ただ、周辺の建物は壊れたり、爆発の衝撃でガラスが割れたりと散々な状況だったらしい。復旧するのにどれだけの金額がかかるのかはまだ不明だという。

 人的被害は深刻だ。分かっているだけでも既に死者は40名以上。まだまだ増えるし、行方不明者に至っては死体さえ見つからないかもしれない。あのトカゲの腹の中なのだ。

「結局アレ、防衛隊が倒した事になってるみたいだな」

 ソウが端末の前でネットニュースを見ながら言った。

「SNSじゃそんな事、誰も信じてないけどな」

 動画サイトのサブウェイをスマホをで見ると、ショート動画ではなく十分から数十分程度の動画がいくつも上がっている。そのどれもが、あの災害を様々な角度から映したものだ。当然のことながら、自分が戦っている様子が映っているものも沢山ある。現在最も再生数の多い動画をタップしてみた。

 丁度自分が警察官のところに走り寄って、デッキの残骸でトカゲの足を打ち据えたところだった。


『拳銃全く効いてねえ』

『いや、無理だろこれ、女の子食われるぞ』

『警察逃げてるしwwww』

『やべえやべえ!逃げろ逃げろ!来てる来てる!』


 動画は百貨店の中に飛び込んで、混乱して状況がわからなくなった所で止まっていた。あの時デッキに出て撮影していた馬鹿のうちの一人だろう。

 兎角ヒノモト人は逃げるという事に鈍い。危険が迫ったらまずすべき事は、逃げることだ。その辺り、銃社会である合衆国では比較的浸透している。それでも銃乱射事件が起こればこの前ネットで見た記事のように、沢山の人が死ぬ。

 恐竜に食われようが銃で撃たれようが、死ぬのは同じだ。どちらがどう、と比べる事は出来ない。死んだ人や遺族にとっては、死んだという事実には変わらないのだ。

「どうするんだろうな、これ」

 ソウが呟いた。

「どうするって?」

「こんなもん、隠しようがないだろ。市役所のは兎も角、サクラダのは目撃者が多すぎるぞ。撮られた動画だって数が圧倒的過ぎる。防衛隊が倒したって事になってるが、現場見た人間は誰も信じねえだろ。大体、ミサイルが当たったのに死体がほぼまるまる残ってたんだろ」

 そうだ。もしかしたら持ち去られたかもしれないが、だったとしてももう手遅れだ。自分があの恐竜を打ちのめす所だって沢山見られているのである。

 ミサイルで死ななかった恐竜を、袋を被った女の子が上から飛び降りてきて鉄骨でぶん殴って殺したのだ。自分が見物している立場だったら己の目が信じられなくなってしまう。

「やっぱり、市役所のと関連付けられてるな。同一人物じゃねえかって、wisでも6chでもそればっかりだ」

「……だろうな」

 遅かれ早かれここに手が伸びてくる事も考えられる。記者は兎も角、探偵や警察は簡単にミサキ・カラスマという人物の移動先を突き止めることが出来るだろう。

 警察は今の所あのミズキとかいう警部補が動いているだけだが、流石に今度の恐竜騒ぎがあったとなれば、話を聞きに来ざるを得ない。また同じことを繰り返すのか。

「なぁ、ソウ……昨日も言ったけどさ。迷惑がかかるようなら――」

「アホかって言ったぞ。迷惑なんかじゃねえよ。大体、お前は行くとこが無くてここに来たんだろ。だったら大人しくここで暮らしてりゃいいんだよ」

 友人の気遣いが身に沁みる。ありがたくて涙が出そうになった。

「そろそろ晩飯の準備するわ」

 零れそうになったので立ち上がってキッチンに立った。


 麻婆茄子と中華風もやしと山菜のナムル、わかめの中華スープの準備が出来た所で、リビングにあるインターホンが鳴った。ソウがはいはいと言って応対している。

「来たぞ」

 適当な友人はたったそれだけ言った。全く無駄の無い台詞である。

 前掛けを外して足元に掛け、リビングに戻る。何故か微妙に緊張している。何故だ。

 多分、キョウカやハルコと違って顔を見る間が開いているせいだろう。彼の父であるフユヒコは、年間半分ぐらいは首都にいる。なのでこの友人の部屋に来ることも滅多にないので、最後に会ったのは自分とソウが学生の頃だ。

 数分して、もう一度インターホンが鳴った。廊下の前のカメラには、昔会った頃とそう変わっていない男の姿が映っている。ソウはインターホンには出ずに、直接玄関へと歩いていった。

 廊下で二言三言会話が交わされて、リビングにソウと同じぐらいの、背の高い男が姿を現した。並んでいると顔は結構良く似ている。

 やや痩せ型の体格もそっくりだが、黒黒とした頭髪に、顔には年齢により刻まれた皺。優しそうな目元は全く変わっていない。

 地元の選挙ポスターはもっと若々しく修正されているが、年齢が経ってもそれほど変化していない。55歳の上院議員、フユヒコ・サメガイ。

「ご無沙汰しています、おじさん。聞いていらっしゃるかもしれませんが、カラスマです」

 こちらを見たソウの父は、それほど驚かなかった。恐らくキョウカやハルコから写真でも見せられているのだろう。

「本当に、ミサキ君なのか。驚いたな、まさか本当に……いや」

 彼は背広の上着を脱いだ。慌てて受け取ってハンガーラックにかける。

「ああ、すまないね。ありがとう」

 そう言って彼はリビングの椅子に腰掛けた。向かいにソウが座る。

「夕食、食べて行かれるんでしょう?あまり大したものは用意していませんが」

「ああ、ありがとう。そうか、ミサキ君は料理が趣味だと言っていたな」

 キッチンに戻って、作った料理を温め直す。出来たばかりなのでそう時間はかからない。システムキッチンのカウンター越しにリビングを見ると、穏やかに微笑んでいるフユヒコと、少し不機嫌そうにも見えるソウが向かい合って座っている。

「どうだ、ソウ。あの話はそろそろ」

「言っただろ。俺は政治家にはならないよ。大体、俺みたいに適当な奴が政治家になったりでもすれば、金の扱いも適当ですぐに突っつかれて辞めることになるだろ」

「そうか?そうは思わないがな」

 あまりこちらから聞くことは無いのだが、以前、ソウは父親から政策秘書にならないかと声をかけられていたらしい。ゆくゆくはフユヒコの地盤を継がせようとしているのは確実で、そもそもフユヒコ自身が彼の実家の地盤を継いで、市会議員から始めて国政に出たのである。遅くなったが息子に同じことをさせようとしても何らおかしくはない。

「ダメだよ、俺は。政治の事も何もわかんないし、第一、国のために何かしてやろうなんて崇高な理念は持っちゃいないんだから」

 しかし彼の父はそういう息子に向かって、ふっと笑った。

「そんな立派な理念を持った奴なんて、政治家にだってそんなにいやしないさ。大抵が親がそうだったからとか、役人をしてて政治家に気に入られたからだとかそんな理由だ。政治の何たるか、なんて分かっている奴も殆どいない。適当なのさ。お前以上にな」

 与党内にもう十何年もいる彼の言う事なのだから、それは本当なのだろう。それに、自分もソウが政治家になって金の扱いをそんなに適当にするとは思わない。仕事であればきっちりとやるのだ、この男は。適当なのは方針と格好だけなのである。

「そうだとしても、俺は今の仕事をやめるつもりはないよ。それに、ミサキもいるのに不安定な議員になんかなるわけにもいかないだろ」

 麻婆茄子が十分に温まったので、深めの皿を三つ取り出して移す。冷蔵庫からナムルを取り出して小鉢に盛り、スープ皿も取り出して鍋から卵とわかめのスープを注いだ。

「秘書は不安定じゃないぞ。ちゃんと給与も出す。そこから立候補するかどうかはお前次第だが」

「それだって、親父が落選したら無職になっちまうだろ。同じだよ」

「それは、まぁ、そうだが」

 彼はそう言ったが、フユヒコが落選する事はまずない。地元で対立候補は何度も上がっているものの、大地主である妻の実家と、彼に縁のある商工会が応援しているので、よほど酷いスキャンダルでも発覚しない限りはまず安定している。毎回毎回ダブルスコアで勝っているのだ。

 実際彼のマニフェストは当たり障りのない地味なものだが、堅実であり、公約を大きく違えた事もない。とにかく堅実で実直というイメージの付き纏う人であり、当選回数も多いため党からも信頼は篤いという。いずれ年功序列で大臣に、との話も聞こえている。

「今日来たのはその話がしたかったのか?」

 料理を持っていって並べていると、彼の父は笑顔になってありがとう、と言った。

「いや、それも一つの目的だが」

 ビールとグラスを持ってくる。缶を開けてフユヒコに酌をすると、彼は恐縮してどうもすみませんと言った。先程から、とても国政政治家とは思えない態度だ。

 ソウのグラスにも注いで、自分には手酌で注いだ。適当な男の隣に座ると、上院議員がこちらを見る。

「大した事じゃないんだ。食べながらでも良いかな?」

「あ、はい。どうも、議会、お疲れ様でした」

 グラスを掲げると、二人共同じようにしてからぐっと中に入った黄金色の液体を呷った。

 こちらも一口飲んだ後、早速麻婆茄子に箸をつける。大ぶりのナスを使ったこれは、結構自信作だ。箸で一口サイズに切って、レンゲで周辺のひき肉と一緒に口に運ぶ。

 ぴりりとした山椒と唐辛子の辛味。合い挽き肉の強い肉の味と、それを包み込むようなナスの柔らかくも濃厚な味。ふわふわとしたナスの身は舌の上で蕩けるようにほぐれ、独特な風味と共に喉の奥へと消えていく。辛くて旨い。この料理は豆腐も良いが、やはりナスは別格に美味い。

「おお、美味いな。仕事で食べる本格的なものより、こちらの方がよっぽど好きだ」

「そうだろ、ミサキの料理はめっちゃ美味いんだ」

 何故かソウが得意げに言う。気に入ってくれたのであれば良かったのだが。

「お口に合ったようで良かったです。議員さんだと高級な料理を食べ慣れていそうなので、少し怖かったですが」

 そう言うとフユヒコは顔を綻ばせる。

「いやいや、仕事での食事なんて味気ないものだよ。どんなに高くて美味い料理でも、よそ行きの味ばかりでは飽きてくるからね。こういう、毎日食べても飽きないような家庭の手料理が一番だ」

 嬉しそうにナスを頬張る彼の姿は息子そっくりだ。なんだか少しおかしくなって小さく笑い声を漏らす。

 早々に食べ終えたソウがお代わりを所望したので、キッチンに戻るついでに追加のビールを持ってきた。再び席についたところで、穏やかな政治家は溜めていた話を切り出した。

「実はね、私が今日、ここに来たのは、ミサキ君、君に会う為なんだ」

「私にですか?」

 国の中枢にいる上院議員が自分に会いに来る用事、となれば、当然あの事だろう。予想通り、フユヒコは少し言いにくそうにしながらもその事を口に出した。

「市役所の件と、昨日の件。あれは、君だね」

「はい」

 そもそも警察には包み隠さず話したのだ。上に伝わっていて当然である。

「そうか、やはりか。最初にあの映像を見たときは、まさかソウの友人であるミサキ君だとは思ってもみなかったが……聞いたときは驚いたよ。女性になっていたなんて」

 誰だって驚くだろう。そもそも一番驚いているのが自分なのだ。

「あの、それで、何か私にお咎めがあるのでしょうか」

 抵触するとすれば器物損壊だろうか。ただ、緊急避難に該当するのでそう重い罪にはならないだろうが。

「いやいや、私はただの議員だよ。そんな事を言いに来たんじゃない」

「そりゃそうだろ。というか、あれか?戸籍がどうのって話か?」

 そうだ、そう言えばハルコは戸籍の書き換えがどうのと言っていた。ついでに籍も入れろと。いや、しかしそれは。まさか父親自ら自分の事を、ソウに相応しい女かどうか調べに来た、というわけではあるまいな。

「戸籍か、うん、それもそうだね。戸籍がないと不便だろう。今までの身分証明書、全部使えなくなってるんだろう?完璧な性転換なんて、そもそも法律はそんな不可能なことを想定していないからね」

「はい、それはもう。で、でも、その」

 結婚しろというのはちょっと困る。ソウだってそんな事は望んではいないだろう。何せ頑なにこちらに手を出して来なかったのだ。そういう対象とは見られていないのである。

「ああ、違う違う。そうじゃないよ。勿論君の戸籍の事はどうにかしなきゃいけない。けど、それは私一人でどうにかするべきものじゃなくてね。所謂いわゆる超法規的措置、というやつだ」

「えぇ……!?なんか急に話が大きくなってませんか?」

 超法規的措置って。そんなだいそれたものの対象に自分がなるというのか。意味がわからない。

「まぁ、戸籍に関してはおまけのようなものだよ。君がヒノモト国民として生きていく上で、無いと困るから当然、という話だね。主題はそっちじゃない」

 戸籍がおまけ、要はこちらに何かさせようという話だろう。そのために、無戸籍の人間を使っていてはまずいので、超法規的措置で与えよう、というわけだ。

「それで、私は何をすれば良いのですか」

 自分に出来る事なんて、料理でこの適当な男を喜ばせる事か、恐竜を殴り殺すぐらいの事しか……それか。

「勘が良いね。だけど、具体的には今は言えない。今日私が君に会いに来たのは、単なる事実確認の為だけだ。まぁ、党の使いっ走りだね。たまたま息子のところにいると聞いたから、私に白羽の矢が立っただけなんだ」

「はぁ……」

 ある程度想定はつくものの、それでも言えないという事か。まぁ、議員が直接人を捕まえてくるというのは無理があるだろう。この国では何事にも手順が重要視される。国家の下僕である議員の仕事というのであれば尚更だ。

「明日か……遅くとも明後日に、防衛省の者が君を訪ねてくる。どうか、邪険にせずに話を聞いてやって欲しいんだ。私が君に伝えることはこれだけだよ」

 防衛省。やはり。

「わかりました。出来るだけ家にいるようにします。ただ、その、できれば来られる時間とか分かれば……買い物にも行きたいので」

 そう言うと、歳の割に若々しい議員はきょとんとした表情になった。が、すぐに相好を崩す。

「ああ、そうだね、その通りだ。君の番号を教えておくから、非通知だったとしても出てくれ。すまないね、国防は面倒なことが多くて」

「いえ、当然だと思います。番号、お渡ししますね」

 キッチンのカウンターにおいてあったメモ用紙に自分の携帯番号を書き込み、一枚千切って彼に渡した。

「ありがとう。食事の手を止めさせて悪かったね」

 話は終わりのようだ。食事を再開した。

 ソウが二度目のお代わりを要求した。腹に貯まりにくい料理なので仕方がないが、食べ過ぎではないだろうか。だが、自分も腹は減っている。自分の分も合わせて彼の分も持ってくる。

「何と言うか、甲斐甲斐しいね」

「は?私ですか?はあ」

 別にそんなつもりはない。ただ、料理を作って提供する立場上、配膳も自分の仕事だろうと思ってやっているだけだ。そもそも隣に座っている適当な男は、放って置くと本当に適当な食べ方をするのである。例えば、ナスだけ先に食ってナスだけお代わりするだとか、そういった食べ方である。いくら辛味噌味の染み込んだナスが美味かろうが、せっかく肉も入っているのだから肉も食わねば勿体ないだろうに。

「どうかな、その。本当に息子とだね」

「親父、まだ飲むだろ?悪い、ミサキ、もう二本持ってきてくれるか」

「ああ、分かった。でも、程々にしろよ」

 再び立ち上がって冷蔵庫に向かう。ソウは今日買い物に行った時、調子に乗って大量にビールを買ってきた為、冷蔵庫はほぼ酒でいっぱいになってしまった。アホである。

 放って置くとこいつはあるだけ飲んでしまうので、適当な所で止めなければならない。ただ、今は自分も飲むので三本、冷蔵庫から取り出して持って行く。これで一応終わりにすべきだろうか。

 戻ってくるとフユヒコは少し困ったように笑っている。父親として、議員として、両方の顔を息子に見せるのは大変なのだろう。少しだけ彼に同情した。


 泊まっていくのかと聞いたのだが、秘書を待たせているからとソウの父は帰っていった。新幹線でまた首都にとんぼ返りだそうだ。忙しい身は本当に大変そうだ。

 食器を洗っていると、ソウが近寄ってきてカウンターの前に座った。こちらの手元を見ながら先程の話を持ち出してくる。

「なあ、防衛省って事は、アレだろ、恐竜の件、だよな」

「十中八九、そうだろうな。多分、恐竜殺しのスカウトかなんかだよ。防衛隊に入れとか言われるかもな」

 それは半分冗談だ。事はそう単純ではない。いくらこちらが恐竜を殺す力を持っているとは言え、何の訓練も受けていない一般人をすぐに入れて使うというわけにもいかないだろう。ただ、武器の供与ぐらいは受けられるのかもしれない。あんな無骨な鉄骨じゃなくて、もっと効率的に恐竜を切り刻めるような何かを。

「?なんだ?何かおかしいことでもあったか?」

「え?いや、何もないけど。兎に角、話を聞かないとわかんねえな。ソウ、先、風呂入れよ。明日からまた仕事だろ?」

「あー、思い出させないでくれよ。はぁ」

 友人はぶつくさ言いながら、それでも風呂場へ入っていった。こちらは洗い物を続ける。

 話を聞いてみなければわからない。それはその通りだ。ある程度予測がつくにしろ、どのような条件で、どういった仕事をやらされるのかは不明だ。間違いなくあの恐竜関連ではあるのだろうが。

 まさか教官として防衛隊員を鍛えろということでもあるまい。この力は普通の人間には絶対に出せないものだ。骨も筋肉も、普通あれだけ大きな力を発揮したら折れたり断裂したりしてしまう。自分はもう、人ではないのだ。

 人ではない。

 家族もソウもソウの家族も、こちらを人として扱ってくれる。だが、本当にそれで良いのだろうか。

 自分がその気になれば、彼らを一瞬のうちに捻り殺す事だって出来てしまう。全身に凶器を持っているようなものだ。改めてそう考えると、急に怖くなる。

 もし、自分が何か間違ってこの力を人間に向けたとしたら?

 その時は間違いなく、自分は殺人者になってしまう。あのミズキとかいう警部補の言っていた事が、現実になってしまう。怖い。

 力の加減は出来る。料理だって普通に出来るし、こうやって洗い物も食器を割らずにできている。事務仕事をしている時に日常的にペンを折ったりキーボードを壊したりしないのと同じように、普通の人間として生活する分には何も問題はない。特別極端に力をセーブしなければならない、というストレスも全く無い。

 だから、大丈夫、のはずだ。自分が本気で、その気にならない限りは。

 そのために必要な事は何か、と言えば、感情を制御する事が第一になるだろう。特にカッとなってやってしまった、などという、犯罪者の常套句が今の自分には一番怖い。

 カッとなってやったという人間は、大体凶器を持っていたりする。だが、自分はその凶器を常に携帯しているようなものなのだ。感情の、特に怒りの制御は絶対に必要だ。

 アンガーマネジメントという言葉がある。怒りは意識すれば抑制できるものだし、理性さえ留めておけば深呼吸一つするだけで抑えることは出来る。それに加えて、普段から精神を安らかに保っておく事が大切だろう。余裕を持って、人には優しく、害獣には厳しく。大丈夫だ。多分、それはできる。

 手始めにあのいい加減な男には出来るだけ優しくしてやろう。そうだ、それが良い。

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