お気に入りの水平線

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お気に入りの水平線

 街の喧騒は、そこから離れた時からずっと遠くにあった。

 だが、一人になり海の見える景色に向き合うことで、ようやく街を離れているという実感が湧いてきた。

 海鳴りの音と潮の匂いを胸一杯に吸い込むうちに、少年は自分の中に溜まっていた澱のようなものを吐き出していた。

 少年は背負っていたザックを下ろすと共に、心の重荷が軽くなるように感じた。

 名前を一条いちじょう直人なおとという。

 明日から休日ということもあって、直人は学校を終えると、そのままソロキャンプへと出発したのだ。

 海が見える景色に到着したのは夕方だった。

 早くしなければ陽が落ちてしまう。暗くなってからの設営は難しいこともあるが、それ以上に設営を急ぐ理由が直人にはあった。

 作業の時間が過ぎていく中で、今日を振り返る。

 直人のソロキャンプを趣味にしていることを知ったクラスメイトからは、不思議がられることが多かった。

 それもそのハズで、普通は友人や恋人と一緒に楽しむことが多いからだ。

 しかし、そんな友人達には悪いが、一人で過ごす時間も大切なのだと彼は考えていた。

 もちろん、たまには誰かと過ごしたいという気持ちもあるのだが、孤独を楽しめる人間でなければ本当の意味で自然の中でリラックスすることはできないと思っている。


 ――誰も居ない場所で、一人で自然をしみじみと味わう。


 それが直人にとって至福の時間なのだ。

「急がなきゃ」

 直人は水平線の上に見える太陽を見た。

 もうすぐ日没が訪れることを告げている。

 直人は慌ててテントを設営すると、焚き火台を設置し薪を組み、火を起こす。

 パチパチと音を立てて燃え上がり始めるオレンジ色の光が心を落ち着かせてくれる。

 火の暖かさを感じながら、やかん型ケトルで湯を沸かしコーヒーカップにお湯を注ぐ。湯気が立ち上ると香りが広がり、幸せな気分になった。

 インスタントだが手っ取り早くて美味しいところが良いところだ。

 帆布はんぷのアウトドアチェアに座る。

 背もたれがあるので、包み込まれるような座り心地に身を預けることができる。長時間座っていても疲れにくい構造になっているため、快適に使うことができる優れものだ。

 直人は、コーヒーを啜りながら夕陽を眺める。

 太陽は水平線の向こうに、ゆっくりと沈んでいく。

 その光景はまるで炎を吹き込まれたガラスの玉のようであり、周囲の空と海を紅く染めていた。

 心が洗われるようだ。

 この美しい瞬間を味わいたいがために、設営を急いだと言っても過言ではない。

 太陽が沈む瞬間、空は深いオレンジと赤に染まり、その美しさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

 直人の、お気に入りの景色だ。

 夕焼けの色彩が空全体を包み込み、太陽が沈む海の輝きはまるで幻想的なキャンバスのように広がっている。海面も太陽の光を受けて赤く輝き、その美しさはまるで水と空が一体化しているかのようだった。

 沈みゆく夕日を見ていると、時間が経つことを忘れてしまう。

 夕刻の風は穏やかに吹き、海面には静かな波が揺れている。

 その波は夕日の光を反射し、瞬く間に金色やオレンジに輝きを増していく。

 誰に気兼ねすることなく、こんなにも美しい光景を独り占めできる贅沢さを噛みしめつつ、直人は寂しさを憶える。

 それは、もう少しで太陽が水平線の向こうに隠れてしまうから。

 正確な言い方ではないが、一日が終わる。

 江戸時代は、日の出から日の入を一日の基準としていたので、その言い方も間違いではない。

 夜になれば辺りは真っ暗になってしまう。

「見納めか……」

 そう呟くと直人は、最後の光が海に沈むのを見て驚く。

 なぜなら太陽の光が緑色となって、強く輝いたからだ。

 直人の目は、しっかりとその光景を映し取った。

 まるで奇跡のような現象だった。


【グリーンフラッシュ】

 太陽が完全に沈む直前、または昇った直後に、緑色の光が一瞬輝いたようにまたたいたり、太陽の上の弧が赤色でなく緑色に見えたりする稀な現象。

 緑閃光りょくせんこうともいわれる。

 太陽の光は大気によって、プリズムのように屈折して目に届くが、水平線にから太陽が少しだけ出ている時、大気の揺らぎによって、赤や橙、黄の光は目には届かず、緑だけが強く見えるようになる。

 だが、見ることができるのは、瞬きするほどの短い、ほんの一瞬。

 しかも、雲一つない透明な空と長い水平線が必要とされるため、めったに見られるものではない。

 その為、この緑の太陽は《伝説の緑光》とも呼ばれ、見た者は幸運になれると言われている。


 感動のあまり言葉が出ないとは、まさにこのことだろう。

 直人は、その神秘的な光景に心を奪われた。

 そして、いつの間にか日は完全に没していた。

 周囲は闇に包まれている。

 焚き火台の炎だけが周囲を照らし出す光源となっていた。暗闇を照らす炎が揺らめく度に、光の強弱が変わる様はどこか儚げで美しくもあった。

「幸運か。本当にいいものを見せてもらったよ」

 直人は満足げな表情をすると、自身の記憶の中にお気に入りの風景として刻み込むのだった。

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