第9話
ガッチャーンと後ろで大きな音がする。
振り返ると家令のリチャードがトレイに乗せた紅茶のポットを運んできていたが、派手に落としてしまったようだ。リチャードには一連のことは話してある。ティータイム中は彼以外庭に入らないように言ってあった。
エルシャは立ち上がって片付けを手伝おうとするが、スカートを引っ張られて立ち上がれなかった。さらに、リチャードがモノクルと首が吹き飛びそうなほど「来ないでください」と言わんばかりに首を横に振るので夫の方に視線を戻す。
夫はエルシャのスカートを掴んでいた。エルシャの視線が自分に向くとパッと放す。
「理由を……聞いてもいいだろうか」
「実家がそろそろ公爵家の援助なしでも立て直せるようになると聞いています。だから離婚して帰って来てもいいと」
夫は視線を逸らして何か思い出すような素振りをしていた。恐らくエルシャの実家の借金額と援助額を計算しているのだろう。
「まだ厳しいのではないか。あなたには弟妹も多い。学費もかかる」
「でも、ずっと援助していただくわけにもいきません。援助が当たり前になっては困りますから」
「離婚理由は、それだけだろうか」
なぜすぐに「分かった」と頷いてくれないのだろう。しかも夫は跪いたままだ。
以前エルシャが離婚に応じた時は何も言わなかったではないか。そういえば、あの時の離婚書類はどうなったのか。エルシャは目にしていないが、準備すると言っていたからすぐに出てくるんじゃないのか。
「旦那様の抱えている問題は解決したでしょう? 実家もありがたいことに目途がつきそうです。今がちょうどいいタイミングだと思うんです」
「私はまだ馬車の事故を見たらパニックを起こすだろう……試してはいないが。昨日馬が暴れている音を聞いたら息ができなかった」
「でも、これから良くなるはずです。だって旦那様のせいで先代カニンガム公爵が亡くなったわけではありませんし、お義母様も不幸になったわけではないんですから」
「しかし……」
「旦那様はあの時たったの十歳だったんです。決して旦那様のせいじゃありません。妊娠した使用人の存在を隠したことだってそうです。旦那様は公爵家とお義母様を守るためにそうしただけ。一番悪いのは王弟と国王陛下と……バクスター公爵夫人です」
エルシャはリチャードの様子が気になったので、立ち上がる。
派手に破片が散らばっていたはずなのに、何という早業だろう。エルシャが立ち上がった時にはもう破片もリチャードの残像さえもなかった。
また座り直そうかと思ったら、引き寄せられた。
見ると、夫が膝立ちになってエルシャの腰に手を回している。
「旦那様? 服に土や草がついちゃいますよ」
「嫌だと言ったら?」
「はい?」
夫はそれだけ言うと黙ってエルシャの腹に顔を当てた。
いやいやいやいや。
もしかしてこれは夫が最初に離婚を切り出した時に、あの王太子がやってきた時だが、エルシャが夫の足に縋りついたことのやり返しだろうか。
「旦那様ならすぐに他のご令嬢が見つかりますよ」
夫の肩に手をかけながら話しかけたが、返事をしない。ダンマリである。
しかし、エルシャは自分でそう言っておきながら心が痛んだ。でも、あれだけ夫は夜会で人気なのだ。離婚してもすぐに再婚相手が見つかるだろう。エルシャのように金がかからない、エルシャと違って教養もある弁えた高位貴族の令嬢がいるはずだ。夫はまだ若いのだし。これは単なる事実で、心が痛む必要性はない。
「私のことを愛していないなら、離婚せずともいいのではないか。実家に金も定期的に入るし、カニンガム公爵家との縁も継続される。最大の危険はもうないから外出禁止にはしないし、公爵夫人としてやりたいことがあれば予算の範囲内でやったらいい。それに約束した誕生日の贈り物だって買いに行っていない」
ん?とエルシャは思った。何の話だろうか。急に愛している・いないの話になるなんて。今度はエルシャが黙る番だった。
「あなたは休憩室でバクスター公爵夫人に向かって言ったではないか。私のことを愛していないと」
夫はなぜかエルシャの腹を見てぼそぼそ話している。なぜだ。なぜこの体勢で喋る必要があるのか。いや、その前に休憩室! 夫はどこからか分からないが覗いていたのだった! そして「旦那様のことを愛していません」というエルシャの言葉をしっかり聞いていたのだ。あの時、二回も言ってしまった。
エルシャは混乱した。
なぜ自分は夫に離婚を切り出したのだろう。いやいやいや待って待って、さっき口にした理由からだ。
あれ?
でも、愛していないなら夫の言った条件はかなり良い。父はまだ疲れていて目途が立ったと言っても倒れては意味がない。外出禁止もされず、夫にも以前ほど避けられないなら、このまま夫がいいなら契約結婚継続でいいのではないか。夫は女性に群がられるのが嫌で契約結婚をしたのであるし……。
そこまで考えてまた心が痛んだ。やっぱり、それだけはできない。
「それは……できません」
夫の体がびくりと震えた。
「それほど、私の所業を怒っているのか。それなら言い訳のしようがない。私は独りよがりで愚かであれが正しいと思っていた。自分一人でできると、全部守れると思い上がっていた。私の愚かな正義感があなたを不幸にしてしまった」
思い上がっていたのはエルシャの方だ。契約結婚でも問題なくやっていけると思っていた、実家と家族のために。
でも、もう無理だった。先は見えている。このままではエルシャはバクスター公爵夫人のようになってしまう。
知らなかったのだ。以前は平気で耐えて許せていた夫の行動が、許せなくなる日が来るなんて。
「私は、もう、弁えている妻ではないんです」
そう、エルシャはもう弁えられない。
これからきっと、どんどん許せないことが増えていく。夫に少しでもまた避けられたら傷つき、誕生日当日なんの連絡もなく祝ってもらえなかったら怒ってしまう。そうしてエルシャはバクスター公爵夫人のようになり果てるのだ。以前のように「いい嫁やめます」と養子選定リストを作り始めることはもうできない。リストが粗方できているからではない。
エルシャにだって理想の結婚があった。
一旦諦めたはずだ、この契約結婚で。それなのに、なぜ夫にその理想を再び押し付けてしまいそうなのだろう。
どうでもいい人だったらこんなこと考えなくて済んだのに。
夫は顔を上げてエルシャを見た。そしてまた驚いた顔をしながら膝立ちをやめて立ち上がる。ズボンについた草や土がパラパラと落ちる。
「私は無力だな。金も爵位もあっても、あなたを泣き止ませることもできない」
夫の指がエルシャの目元をなぞる。知らないうちにエルシャは泣いていた。
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