第2話

 バクスター公爵夫人を見送った後はパーティー会場に戻って、夫がエルシャの元に戻って来るのを待った。


「誰かから何か言われなかったか」

「いえ、何も言われていないので大丈夫です」


 そんな会話は帰りの馬車でした。たったそれだけだが、夫がエルシャを気遣っているのは分かった。それがエルシャにとってはものすごく悲しかった。自分がお荷物のようであり、夫はやっぱりエルシャのことが必要ないんだと突き付けられた気がした。



「これは一体、どういうことだ」


 数日後夫が大変珍しく、いや初めてだろうか。エルシャの部屋に手紙をひらひらと持って、険しい顔でやって来た。出来上がった養子選定のリストを確認していたエルシャは、急にそんなことを言われても何のことだか分からない。


「実はバクスター公爵家からお茶会の招待状が奥様に届きまして。今までやり取りもなかったので怪しいと思い、まず旦那様に報告しました」


 家令のリチャードが事情を説明してから席を外すと、夫はすでに封の切られた手紙の中身を読み上げる。


「先日のパーティーでのお礼をしたいと書かれているが、これはどういうことだ」

「バクスター公爵夫人の体調が悪そうでしたので介抱しました。そのお礼だと思います」

「なぜ、それを私に言わなかった」

「えっと……お世話をしただけだったので……」

「あなたには話したはずだろう。バクスター公爵は王弟だ」


 そうでした……えぇ、忘れてました。だって王弟って皆呼んでいたし……しかも夫人の方だったから……お世話に必死だったし……名前を伺ったのはかなり後だったし……。


 エルシャは嫁いでからも社交をほとんどしてこなかった。実家は貧乏なのでそれほど他家と交流があったわけでもない。義母の人脈の中にバクスター公爵はいなかったこともある。そもそも王弟夫妻なんてエルシャには雲の上の存在なのだ。と、言い訳を心の中で並べ立てる。


 そういえば、最近は他の貴族を気にするよりも夫のことばかり気にしていた。エルシャの世界はそれだけ狭かったのだ。


 エルシャの様子を見て、夫は頭が痛そうにこめかみに手を当てている。


「あの……まだ手がかりがないならそのお茶会で何かできれば」

「あなたは、なぜそう首を突っ込んで危険なことをしようとする。足手まといだと言ったはずだ」


 夫の初めて見る怒っているような表情と冷たい声に、返事が喉の奥に張り付いてしまう。

 夫とはもっとポンポン会話ができたはずなのに、おかしい。まさか建国記念パーティーで王弟夫婦を見てしまったからだろうか。冷めきったあの夫婦の仲を。

そして、父に「女は口を出すな」と言われた時のような感覚が蘇る。


「王弟のご夫人だとは知らずに介抱しました。でも、あの、旦那様のお役に立てそうならそのお茶会に」

「あなたは役になど立たなくていい」


 怒鳴られたわけではない。普通の音量だ。でも、その言葉でエルシャの体は無意識にビクリと跳ねた。


「この茶会には欠席と私から返事を出しておく。危険だから勝手なことはしないように。バクスター公爵夫妻にも絶対に近寄るな」


 夫はそれだけ言うとエルシャの返事も待たずに出て行った。

 役に立たなくていいとまで言われてしまったら、エルシャの存在意義は何なのだろう。夫のお世話をしている時はエルシャの存在意義はあった。でも、今は何もない。


 守ろうとしてくれているのは分かるが、役に立たないならエルシャは何のためにここにいるのか分からなかった。王弟の夫人を介抱したのは本当に偶然なのに。偶然でも夫の役に立てるかと思ったのに。


 役に立たないお飾りの妻を夫は求めていたのだ。夫が怪我をして記憶喪失になってエルシャはその境界線を踏み越えてしまった。自分が悪いと分かっていても、エルシャはそれが悲しかった。

 実家では父の仕事を助けられなくても、弟妹の世話があった。でも、今のエルシャには何もない。役に立たない自分が存在していていいのだろうか。


 養子選定のリストの上に涙が落ちる。書いたばかりの文字がどんどん滲んでいった。

 エルシャはそのリストの紙を掴んでくしゃくしゃにした。自分の心のような紙を見て、エルシャはさらに情けなくなった。



「ねぇ、リチャード」

「はい、大奥様」

「どうしてエルシャちゃんはあれだけグイグイいってたのに、リヒターに今更遠慮をしているのかしら。もどかしいわ」

「喧嘩中だと伺っております」

「でも、今までのエルシャちゃんなら引き下がらなかったわ。というか、喧嘩なんて気にせずにリヒターのお世話をしていたでしょ。リヒターが分かりにくいのは棚に上げるけれども」

「旦那様のお怪我が治ったからかもしれませんね……。大奥様、これは私の姪の友達の話なのですが」

「関係が遠いわね」

「はい。そのお友達はどうでもいい人にはグイグイと平気で踏み込んでいけるのですが、好きな人には嫌われたくないから何も言えず踏み込めなくなるそうです。ご兄弟相手にはまた違いますが」

「はっはーん」


 先代公爵夫人の目はダイヤモンドよりも煌めいた。


「鳴かぬなら鳴くまで待つことも必要かしらね」

「えぇ、見守ることも大切かと。そういうタイプは両親との関係が悪いことが多いと聞いております」

「はっはーん。なるほどね。私はエルシャちゃんを可愛がっているわよね? 大丈夫よね? 意地悪義母になってないわよね?」

「意地悪など、大奥様はそんなことはございません」

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