第6話
夫の熱が下がるまで待ち、急ぎの仕事を処理してから領地に向かうことになった。
熱が下がるまではかなりお世話をして、エルシャも満足だった。
しかし、今は少しばかり……いや、かなりつまらない。
なぜかって、夫の足の捻挫が治ってしまったのだ。
あまり動かさないように固定していたので筋肉が固まっていたが、お風呂上りを狙ってエルシャがマッサージしたおかげでもう夫は普通に歩ける。
しかし、面白くない。
普通に歩けるようになった夫はエルシャからよく逃げ回るのである。あんなに体も拭かせてくれて、されるがままだったのに! 一度懐いた犬に無視されている気分だ。
執務室で一緒に仕事をしている時はいいが、食事時になるとすぐ逃げてしまう。
「申し訳ございません。奥様。旦那様はあれほど看病されたことがなくて恥ずかしくお思いなのです。大旦那様が亡くなられてから、ずっと忙しくされていましたので」
家令リチャードに謝られて、ほんの少しエルシャは口を尖らせた。
夫にいろいろ食べさせるのがエルシャとしては一番楽しかったのだ。あの薄い唇をエルシャに向かって恐る恐る開ける瞬間が最高だったのに。せっかく、夫は豆とピーマンが苦手だということまで知ったのに。
エルシャがピーマンを差し出した時のあの可愛い反応! 眉間に皺を寄せながら「要らない」とはプライドで言えなかったのか、苦しそうに食べていた。大変可愛かった。
最近では、まだ骨折しているにも関わらずコソコソ一人で食べて、利き腕ではない方の手を使うのに慣れてきたようだ。袖口にソースもついていない。夫がとうとう両利きになってしまうかもしれない。
まぁ、執務室から追い出されないだけ以前よりマシだ。
エルシャとしてはつまらなく思いながらも仕事を片付けて、療養のために領地へ向かう準備をした。
「伯爵家では……執務をしていたのか」
夫は領地へ向かう馬車の中で、独り言のように唐突に聞いて来た。沈黙に耐えかねたのだろうか。エルシャから夫に話しかけることはあったものの、逆はほぼない。お世話していてもそんな感じだった。エルシャが一方的に喋るのだ。
「いえ。父は女が仕事に口を出すのは好まなかったので全く……」
父は家族を大切にしている。それは分かっているが、仕事に関しては男の領分という意識が強い人だ。何度かエルシャも役に立とうといろいろ言ってみたのだが、あからさまに「女が口を出すな」という態度を父からも父の周囲からも取られたのでいつの間にか諦めていた。
夫は意外そうな目をエルシャに向ける。
「そうなのか? てっきり手伝っていたのかと思った。初めてのわりにミスがないから」
夫は最初こそ、エルシャを執務室から早く追い出したがっていた。
エルシャがやった書類や手紙を穴が開くほど見つめていたからだ。あれは致命的なミスでも探していたのだろう。
でも、父とは明らかに目に宿る感情が違った。そもそも夫は女性嫌いだが、女性を見下しているわけではない。どちらかというと恐怖だろうか。お世話のためにエルシャが近付いても、真っ先に警戒や怯えが見える。
「それは良かったです」
「その……仕事を手伝ってくれて助かった」
え、この人誰?
義母に何か言われたのだろうか。あの義母のことだから「エルシャちゃんに感謝しなさいよ!」くらいは言っているかもしれない。ただ、夫がそれを実行するとは思っていなかった。怪我と記憶喪失と熱で夫もかなり弱っているのかもしれない。
「よ、良かったです」
目をぱちくりさせながら、お礼を言われるのに慣れていないため声が上擦った。
今のってお礼で合っているのよね? 実家ではエルシャが弟妹のお世話をするのが当然だったから、お礼なんて最初のうちしか言われたことがない。
夫は早くに父を亡くしているから、本当にお世話されることに慣れていないのだろう。たったあれだけのことでお礼を言うなんて。使用人の仕事を奪うなと文句を言っても良かったのに。
馬車が急に停止する。
さっき休憩したばかりなので、何かあったのだろうか。
「申し訳ございません。馬車の事故があったようで迂回する道を探します」
使用人の声に応えてから夫を見ると、なんと夫の顔は真っ青だった。
「旦那様? 馬車酔いですか? お水でも?」
そう問いかけるが返事がない。しかも夫の体は小刻みに震えている。
向い合せに座っていたが、急な体調不良かと慌てて夫の横に座る。
「旦那様? お医者様を呼びますか?」
夫はふるふると首を振ってエルシャの腕をぎゅっと掴んでくる。
え、なにこれ。可愛い。
一瞬夫の行動にキュンときてしまったが、夫の呼吸が不自然なほど浅く早いので背中をさする。
「大丈夫ですよ、旦那様」
よしよしと背中をさすっていると体重をかけてくるので、最終的にエルシャが膝枕している状態になる。
あぁ、もしかして。夫の父は突然の馬車事故で亡くなったからそれを思い出して不安定になっているのだろうか。ついさっきまで夫は何ともなかったのだ。
エルシャの膝に頭を預けた余裕のない夫を見ていると、エルシャはなんだか変な気分になってきた。
夫の足の怪我が治ってつまらないと思っていたのに。また完璧な夫に戻っているのだと思っていたのに。
この人は思っていたよりもずっと弱くて傷だらけだった。
「大丈夫ですよ、旦那様」
子守歌はやめておこうか。どうしようか。
悩んで夫の胸を軽くトントン叩いたりさすったりしていると、夫はエルシャの手を掴んで指を絡めてきた。夫の顔は青白いので、色っぽい雰囲気は一切ない。目だってどこを見ているのか分からないほどぼんやりしている。
しかし、エルシャはうっかり鼻息荒く興奮してしまった。なんと可愛いのか。
恐らく過去の体験を思い出して苦しみながら、夫はエルシャの手に縋っている。え、可愛い。これまでエルシャに対して過剰にツンツンしていたのに、夫が可愛い。とても可哀想なのに可愛い。
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