第4話
愛人を持つ貴族が多い中、父と母はおしどり夫婦として有名なはずなのに。
どうして父はあの新しく入ったメイドの肩をさすって、抱きしめていたのだろう。
あれはれっきとした浮気だ。汚い、なんて汚い。子供心にそう感じた。
あんな父は要らない。母を裏切るあんな父は、死んでしまえばいい。
そして、父は馬車で出かけてその先で帰らぬ人になった。あのメイドまで一緒だった。
しかもメイドは妊娠していた。一体、二人でどこへ行くつもりだったのか。
母は第二子を妊娠していたから、現場には反対を押し切ってリヒターが向かった。次期公爵なのだからと押し切った。
そうして二人の遺体を見た。母にこんな汚いものを見せるわけにはいかなかった。だからリヒターは騎士団にお願いをしたのだ。メイドが一緒だったことはどうか隠してほしいと。
しかし、父の事故死にショックを受けた母は流産してしまった。
母にどう声をかけていいか分からなかった。まだリヒターは十歳になったばかりだったから気の利いたこと一つ言えなかった。
あんなことを一瞬でもリヒターが思ったから。父を死ねばいいと一瞬でも思ってしまったから、父はあっけなく突然死んだんだろうか。そして、母を不幸にしてしまったのは自分なのだろうか。
自分のうめき声で目が覚めた。
「う……水……」
「はい、どうぞ!」
思わず声を上げると、喉がカラカラだった。
そしてなぜだか横から元気な声が聞こえて、一気にリヒターの意識は覚醒した。よく悲鳴を上げなかったと思う。うなされて汗をびっしょりかいているが、今は別の意味で冷や汗が出ている。
恐る恐る横を見ると、書類上の妻がニコニコして水を差し出していた。
なんということだ、なんでこんなに顔が輝いてるんだ。それにしても、この女は神出鬼没すぎないか。実は幽霊だったのか?
「よくうなされていました。廊下まで聞こえたので、つい」
男の部屋に無断で入るのを「つい」で済ますな。
あながち無断でもないか。使用人がさっき部屋から出て行ったのが見えた。
水の入ったコップをグイグイ押し付けられて、思わず受け取った。喉を潤すと、彼女の側には水を張った盥やタオルなどが置かれている。この女は一体いつからこの部屋に居座っていたんだ?
現状把握をしていると、コップの入ったグラスを彼女はさっさと奪って片付けた。
「汗をけっこうかいてますね。着替えましょうか」
「は?」
「はい、ルーク。ばんざいして」
ルーク? ルークって誰だ?
混乱していると、書類上の妻はあっという顔をする。大して顔も見ないようにしていたが、表情豊かな女だ。公爵夫人として大丈夫なのか?
「あ、すみません。うっかり。ルークは弟です。そして、旦那様はばんざいしなくっていいです」
あぁ、そういえばいたな。調査書にのっていた。彼女には弟妹合わせて四人いる。
というか、この一連の行動はすべて弟扱いなのか?
「じゃあ、拭き拭きしますね~」
拭き拭き?
喉の渇きが取れたら、頭が重く鈍く痛みを感じた。
痛みに耐えていると、あの女はあっという間に服を脱がせて体を拭いて新しいものに着替えさせている。
こちらが羞恥心を感じる暇もないほど鮮やかな手つきだ。頭が痛いので、抵抗する気力が失せた。抵抗したところで力技で押し切られそうな雰囲気さえある。
「旦那様、お熱がありますね」
「もう寝るからいい。あなたも休むように」
「お薬もらってきますね。これはお熱が高くなる予感がします」
「そんな予感はいい。話を聞け」
契約結婚したはずの妻はなんというか、落ち着きがなさすぎる。
リヒターが「話を聞け」と告げる頃には、扉を開けて使用人に薬を持って来るように頼んでいるのだ。余計に頭痛がする。ディナーの時までは何ともなかったのに。
「はい、旦那様。どうぞどうぞ」
差し出された薬を睨むと、なぜか笑われた。
「ふっふっふ。苦いからお薬飲めないですか? ゼリーも用意してもらったんですよ?」
この女はリヒターを何歳児として接しているのだろうか。
睨んだのは薬が苦いのもあるが、最近全く体調を崩していなかったからだ。それこそ、父が亡くなってからそんな暇はなかった。それなのに、この女にペースをかき乱されて体調まで崩しかけている。最悪だ。この女は疫病神に違いない。どうして契約結婚前に分からなかったのか。
独身の時はさまざまな令嬢が媚を売って来て面倒だった。でも、こんなに図々しくグイグイ真正面から近付いてくる令嬢はいなかった。
「はい、お口開けてくださいね。早く治さないとお仕事が溜まりますよ」
グイグイ来るわりに、リヒターの体調不良を喜んでいるようだ。なにせ目が爛々としている。なんだ、その輝きは。
家令リチャードから、結婚してもこの妻にリヒターはほぼ接していなかったと聞いている。初夜も行っていないと。彼女が高熱を出した時も、覚えてもいない結婚記念日も誕生日もリヒターは仕事で忙しくすべてスルーだったらしい。
記憶はないが、自分がそんな行動をとるだろうということは分かる。もう少し気遣っても良かったのだろうが、金は払っているしそもそも忙しかったのだろう。何で忙しかったのか、そもそも妻の存在さえ記憶からは抜け落ちているが。
そんな扱いをされた復讐を彼女は今したいのだろうか。
だからこんなに目を輝かせて楽しそうなのか。ちょうど片手と片足を怪我してリヒターは弱っている。弱っているところを狙うのは基本中の基本だ。
薬を強制的にゼリーと一緒に摂らされて、ダメ押しに水まで飲まされてベッドに横たえられる。目を瞑ってしばらくしても彼女が部屋から出て行く気配がない。
「眠れませんか?」
なぜか寝ていないことがバレている。
「じきに眠るからあなたも部屋に戻るといい。風邪なら移ったら面倒だろう」
「私は丈夫なので大丈夫です!」
この女には本当に話が通じない。出て行けという意味で言っているのに。頭痛が酷くなった。
「旦那様が眠れるように子守歌でも歌いますね」
やめてくれ、頭痛が酷くなりそうだ。
リヒターはもう抵抗する気力が残っていなかった。寝たふりを続けていたら出て行くだろうと諦めの境地だ。
しかし、彼女の声は意外と心地よかった。音痴ではなく、なかなかうまい。
寝たふりを決め込むつもりだったのに、知らないうちに眠っていた。
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