第4話

「馬津山精神科病院」が建つ場所は、見晴らしのよい場所だった。


丘からふもとの街へ、風が吹き下ろしていくのが見えた。

みかん畑の枝葉が、サワサワと揺れている。


街の向こうには、海が見える。


私は、

青い空と夏の緑のにおいがする空気を、

すーっと胸に吸い込んだ。


病院の患者さんも、

ここらへんを散歩すれば、

気持ちがよいと感じることだろう。


だけど、

だだっ広い美しい景色の中で、

どこか私は少し緊張していた。


きれいな景色は、どことなく怖い。


だだっ広い場所も、どことなく怖い。


どこがどう怖いのか、

うまく言葉にできないけど、

肩にギュッと力をいれてしまう。

息をつめてしまう。


丘の緑も、海の青も、

鮮やかすぎて、息を呑んでしまう。

ジャーンと脳がしびれる。


私の脳の中には、

敏感すぎる警報のようなものがあって、

それは五分おきくらいに、

私を緊張させるのだ。


私は、今にも広い空から、

太陽が不安の化身に身を変えて、

落っこちてくるんじゃかいかという気がした。

もちろん、

そんな発想は馬鹿げていると分かっている。


この開けた美しい景色を、

ただ美しいと受け止められたらどんなにいだろう。


不安な気持ちが混ざらない、

純粋な感嘆を味わえたら、

どんなにいいだろう。


私は、不安になりやすく敏感すぎる自分自身に、疲れ果てていた。


だけど、それでも、どこからともなく湧いてくる不安をどうすることもできなかった。


      • • •


病院の門を抜け、敷地に入る。


そこには、

コの字型になった、

古びた病院の建物があった。


患者さんなのか、見舞客なのかわからないが、私服を着た人がポツリ、ポツリといた。


体も心も、少しも悪そうに見えない人もいたし、

明らかに虚空に向かってブツブツと独り言を言っている人もいた。


いろんな人が混ざり合って違和感なくそこにいた。


中庭には畑があって、

キュウリやトマトが実っていた。


畑のそばには池があり、

鯉が優雅に泳いでした。

そして、池のまわりには、

のどかに鳩が歩いていた。


コの字型の建物の真上を見上げると、

晴れた空があった。


夏の、真っ青な空だった。


「こんにちは」


中庭にいた一人の男性が、

私に声をかけてきた。


その人は、見ようによっては子どものようにも、おじさんのようにも見える、

不思議な風貌をしていた。


髪には白髪も目立つが、

目だけを見ると、少年のように幼い印象を受けた。


「こんにちは」

と男性に言葉を返す。


「見ない顔だね」

と、男性は言った。


「あの……、初めて来たんです。

兄のお見舞いで……」


私が兄の名を言うと、

「ああ、あの色男か」

と、男性は鼻白んだ声を出した。


「色男?」


「何年か前から外来に通ってきてたよね。

今は入院しているみたいだね。


知ってるかい? 

外来の受付の事務員さんの中には、

何人か、

君のお兄さんのファンがいるみたいだよ。


ちなみに、ファンのうちの一人は、

僕がずっと憧れていた人だった。


かわいい人だったのに、残念だなあ」


喋り相手がほしいのか、

男性はペラペラと自分のペースでよくしゃべった。


「その事務員さんは、内田さんって言ってね……。

内田と言えば、

芸能人にもそんな名前の人がいたね、

知ってるかな? 

そう言えばさ、

昨日、テレビでクイズ番組を見てね、

野球の問題がでたんだ。

僕は小学生の時に野球をしていてね、

小学生の時の思い出と言えばさ……」


男性の話は横すべりする車みたいに、

どんどんと道筋を外れていく。

そして、果てしなく続いていく。


私は、男性が何を話したいのか分からなくて面くらった。


まるで、男性の中に、

果てしなく混沌が広がっていくのを見せられているみたいだった。

 

「メジャーリーグってさ……」


「あの」

私は長々と続く男性の話に言葉をはさんだ。

そうしないと話は終わりそうになかったし、

さっきから、いつ質問をはさもうかとうずうずしていた。


この人は、患者としての兄を知っている。

家族の誰も知らなかった兄を知っているのだ。


私は、自分の知らない兄について知りたくて仕方がなかった。


「兄はどんな様子でしたか?」


「どんなって……」

と、男性は考えを巡らすみたいに宙を眺めた。


「そうだなあ……、

いつもお兄さんのまわりには人が絶えないようだったよ。

人と言えばね……」


「人が絶えないというのは?」


また、横すべりしていきそうな男性の思考を、兄の話題に引き戻しながら、

私は男性から兄について聞き出した。


男性から聞いた話をまとめると、

こういうことだった。


•事務員さんも、通院患者さんも、

看護師さんも、掃除のおばちゃんもみんな、

兄の近くを通れば、兄に話しかけていた。


•兄は、それにいつも笑顔で感じよく応えていた。


•男性からすると、

「そんなにしょっちゅう話しかけられたらしんどいだろうな」と思えた。


「しんどいだろうな、とそんなふうに感じたんですか?」


「そうだね。僕だったら疲れるね。

だから、いちいち笑顔で返答してるのが信じられなかったな。

そんなふうに生きていて、よく疲れないよね」


私は絶句してしまった。


男性が言ったことは、

優しすぎる兄の生き方を、丸ごと言い表している気がした。


私が黙りこんでしまったあとも、

男性はマイペースにペラペラとしゃべっていた。


そして、しばらく一方的に話をしていたかと思うと、

急に話すのをやめて、不自然に立ち去ってしまった。


会話が終わったというより、

ぶちっと会話が中断した感じだった。


男性の中に「話す」とか、「黙る」とかスイッチがあって、急にスイッチが切り替わったみたいに思えた。


中庭を横切って立ち去っていく男性の後ろ姿を見つめながら、

不思議な印象の人だったな、と思った。


奇妙な物語の世界に迷い込んだみたいな気持ちで、ぼうっと中庭に立ち尽くしていたが、

しばらくして気持ちを切り替えて歩き出した。


こんなところで、

ぼんやりしているわけにはいかない。


会いに行こう。兄に。

優しすぎて、生きづらそうに見える兄に。

本心から笑っているのか分からないけど、

微笑んでばかりの兄に。


今、兄は、どんな顔で病室にいるのだろう。


続く~

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