第一話 「神楽」

 夏のピアノコンクールまで残り一週間を切った。

 鈴音は今日も学校終わりに教室へと通い、ピアノの鍵盤を弾き続けていた。


「…あれ?鈴音ちゃんじゃーん。また今日も練習しているのぉ?」


 その声に、鍵盤を弾く指が止まる。

 真横に視線を向けると、そこには同じ教室に通う同級生――音羽おとはが鈴音を見下ろしていた。


「今日も早くからやってたんでしょぉ?本当に鈴音ちゃんって頑張り屋だよねぇ。」


 長い髪の毛を耳にかけ、楽譜をまじまじと覗いてくる。


「しっかし簡単な楽譜ねぇ。こんなの練習して何になんの?」


 音羽は嘲笑いながら言葉をかける。


「どうせ私に勝てないんだから、ピアノ以外のことにその熱を使えばいいのに…どうして分からないのかなぁ。」


 ピアノコンクールで常に金賞を取り続けるスーパースター、音羽。その壁にいつも届かず、私は銀賞の座から上がることは出来なかった。


 悔しくて、悔しくて、その度にたくさん練習した。でも、その間には絶対的な力の差があり、当然かのように銀賞が言い渡された。自分が一段上がれば、相手はその間に二段も三段も上がってしまう。自分の方が練習時間をかけているにも関わらず、その座に届くことは無かった。


 時には、いつまで経っても成長できない自分に嫌気がさし、ピアノをやめて新しいことをしようとしたこともあった。けれども、運動はダメ、頭も悪い、これといった特技もない。そんな自分に新しいことが出来るはずもなかった…ピアノだけしか私には無いのだ。


「まぁせいぜい頑張りなよ。私に勝てる日は来ないけどね!」


 そう言い残して、音羽はもう一台のピアノの方へと足を運ぶ。


 分かっているんだ、このままでいても行き詰まるだけだって。でも、どうやったって私はあの人には敵わないし、ピアノ以外に対抗出来るものなんて…


「おィ、憎くないかァ?」


 その時、頭の中にカタコトの言葉が響き渡る。


「お前の気持ち、よォく分かるぞォ。憎いだろォ、やり返したいだろォ?」


 憎い、悔しい、やり返したい。

 私はただ純粋に、夢に向かってピアノを引き続けたいだけなのに、どうしてみんな邪魔をするの。


「そうだよなァ、邪魔だよなァ。そいつらを潰したいとは思わないかァ?」


 潰したい。邪魔なものは全てこの世が潰したい。


「ならァ、強くそう願ェ。そしたらワタシがァ、お前の夢を叶えてやろう。」


 私の邪魔をするものは全て…潰す。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 それから5日間、コンクールに出場予定であった神奈川県の演奏者が次々と切り付けられる事件が発生した。


 その事件は警察の目に留まり、事件の真相と犯人を究明するため、神奈川県警の捜査一課が調査に乗り出した。


 場所は横浜市内の病院。ここに、昨夜に切り付けられた被害者が入院している。その者へと聞き込みをするため、二人の警官が訪れていた。


「…ここの部屋が被害者二名のお部屋になります。」


 一人の看護師が警官二名を病室まで案内し、その場を去る。案内された2人は、病室の扉の横に設置されたネームプレートで対象者二名の名前を確認し、ノックをかけてゆっくりと病室へと入る。


 警察官の一人。現在30歳となった、名を扇浦 那義おぎうら なぎ捜査官。捜査官の道に入り十年のベテランであり、捜査官としての才も若き頃から優秀、警視庁でも一目置かれている存在である。故に、数々の難解事件の捜査を担当してきた。そして、この事件も被害者の証言から真相に結びつかないとして担当となった。爽やかな顔立ちで細身の高身長な男であるが、とある事件により片目を失っており、左目を眼帯で覆っている。そのことから、警視庁内では「隻眼の捜査官」の二つ名で呼ばれることもある。


 一方、もう一人は松田 秀太まつだ しゅうた捜査官である。扇浦とは違い筋肉質な体格である。年齢22歳の捜査官歴二年目という新人であるが、父親を神奈川県警本部長に持つという肩書きがある。


「…松田捜査官、行くぞ。」


「は、はい!」


 扉を閉め、扇浦は左前に位置するベッドに取り付けられたカーテンに触れる。


「中川奏さん、今お時間よろしいですか?」


 扇浦の声に対して「はい。」と落ち着いた返答がされる。その返答が聞こえたのちに、扇浦はゆっくりとカーテンを開ける。


 すると、ベッドに座っている一人の小柄な少女が姿を現す。名は中川奏。捜査課の事前の身元調べによると、年齢は17歳。ピアノの高校生向けコンクールに出場予定であった者の一人だ。前年の順位は7位、殺傷事件があって運ばれたのは四日前である。


「あ、刑事さん…。」


「おっと、楽な姿勢でいいよ。少しお話だけ聞かせて欲しいんだ。」


「わ、分かりました…。」


 その場に用意されていた椅子に腰掛け、ベットサイドで殺傷事件に対しての聞き込みを行っていく。被害者を心配しに来たのか、看護師も二名ほど様子を見に来た。


「看護師さんから聞いているかもしれないが、僕らは警視庁の捜査課の者だ。私は扇浦、もう一人を松田という。よろしく。」


「よ、よろしくお願いします。」


 声が詰まる感じがする。相手の緊張さがこちらにも伝わってくる。それもそうか、大人四人が目の前に現れて話を聞きに来たら、それは緊張するのは間違いない。緊張状態をなるべく長引かせないようにさせていきたい。被害者は心身共に衰弱している。緊張を与えさせないのも。捜査官としての責務だと十年目となっては思う。


「ありがとう。それでは、事件当日の話を聞かせてくれないかな?話したくないことは話さなくてもいい。話せる範囲でお願いするよ。」


「はい、分かりました。」


 少女は震える手を抑えるかのように両手を絡め、ゆっくりと口を開いた。


「あれは、四日前のことでした。コンクールに向けてピアノ練習が終わって、夜9時頃に一人で帰宅していた時です。私の帰宅路は住宅街を抜けるのですが、その時はたまたま人がいなく、その道を歩いている時のことでした。突然、後方から昔のラジオ越しの音声かのような、低音の男性の声が聞こえて…。その声に恐怖を感じて振り向いた時には、腕を…。」


 そう言いながら、少女は包帯の巻かれた右腕を左手で優しくさする。どうやら、右腕の殺傷事件という形らしい。


「そうか。話してくれてありがとう。君の命が無事で何よりだ。被害を受けたのは右腕だけなのかい?他に傷つけられたりとかはしていないかい?」


「…はい。お医者さんから聞いた感じだと、鉤爪のような形で右腕が引き裂かれていたと言われました。痛みで声を挙げたあと、他の方が気づいてくれたみたいで…。その時にはもう相手はいませんでした…。なので、おかげで腕だけで助かりました。ピアノは引けなくなりましたけど…。」


「…そうですか。相手の顔は見えましたか?」


「いえ、真っ暗だったので見えませんでした。でも…いえなんでもありません。」


「そうですか。ありがとう。」


 少女が語った言葉を、隣の松田捜査官がメモしていく。すると、その時――


「――きゃぁぁああっ!」


「――ッ!?」


 隣の部屋で悲鳴が聞こえた。

 その異変に気づき、すぐさま病室にいた看護師が対応に向かう。隣のベッドは二人目の被害者である18歳の少女だ。


「い、いやぁ!こっちに来ないでぇ!」


「…扇浦捜査官、ちょっと様子を…。」


 そう松田が立とうとした瞬間、扇浦は腕でその動きを静止させた。


「彼女は被害を受けてから2日目だ。精神的な面で安定していない。我々が下手に動くと悪い方向へ進むことがある。ここは、看護師に任せた方が懸命だ。それに、元より彼女に多くを聴き込もうなど毛頭考えてはいない。」


「そ、そうですか…。」


 その言葉を聞いて、松田は足の力を抜く。

 事件の解明ばかりを考えて、相手の状態の考慮ができてはいなかった。反省点である。


「よし…収まったようだな。ここからは筆談にしよう。いいかな?」


「は、はい…。」


 少女は不思議そうな顔をしながらも、筆談に応じる。そして、扇浦は手元にあったメモ帳に文字をかき、こう少女に問いかけた。


 ――他に気になることはありますか、と。


 そのメモ用紙を見た少女は少し悩んだ顔をしながらも、何かを思い出したかのように目を見開かせ、メモ用紙にこう文字を書いた。


 ――そういえば、服に銀色の泥みたいなものが付いていました、と。


 ここまでの情報から、他の被害者とも共通することは、同じ高校生向けコンクールに出るものが襲われていること、鉤爪状の傷を腕に付けられていること、襲撃は必ず夜間であること、犯人の声はノイズ混じりの声であること、そして…銀色の泥。


「――ッ!」


 普通の殺傷事件ではない何かを悟った扇浦は、何に構うでもなくその場から立ち上がり、病室を飛び出した。


「お、扇浦捜査官!」


 それに続くのは松田捜査官。

 病室を飛び出していった扇浦の後を追うべく、聞き込みをしていた少女に断りを入れて、すぐさま病室を後にする。


「扇浦捜査官!いきなりどうしたんですか!?な、何かわかったのですか!?」


 たどり着いたのはロビーの通話可能区間。そこで扇浦は既に自身のスマートフォンを手に取り、何者かへ電話をかけていた。


「あぁ、急ぎではあるが向かって欲しい。我々も直ぐに向かう。」


 そう言って携帯電話を耳元から離す。話し方的に、どこかへ勢力要請をしていたように思えるが…。


「扇浦捜査官…なにかわかったのですか?」


 先程の扇浦の突拍子もない行動により、困惑の表情であった松田だが、その口から放たれた言葉には淡い期待も滲んでいた。もしかしたら、扇浦捜査官ならば何かの糸口を見つけたのではないかと。


「あぁ、多分な。証言のパーツから推測するに、悪魔事件の可能性が高い。」


「あ、悪魔事件って…。」


「そうだ。あの悪魔事件だ。」


 悪魔事件、その聞き覚えのある言葉に物怖じする。

 力に魅せられた者が魂を売って悪魔と契約を結び、その悪魔が事件を起こす。悪魔は自己再生能力が高く、故に何人もの命を簡単に奪う厄災ともいえる恐ろしいものであると。奪警官学校に通っていた頃も小耳に挟んではいたが、世間一般的には都市伝説扱いとされていたため、自分も空想中の作り話と思っていた。だが、まさか…。


「――悪魔は、実在すると言うのですか…?そんな馬鹿なこと…。」


「それがあるんだ。そして、ある事件を境にして、ここ数年で事件数は増加している。世間には混乱を招かないように都市伝説として通らせてはいるが、悪魔はこの世に間違いなく存在する。そして私は、その悪魔事件の第一人者として多くの事件を扱ってきたこともある。この目で見たことも…な。」


「…ははっ、」


 松田は乾いた笑いを浮かべた。

 その笑いは間違いなく、恐怖を誤魔化すために起こした笑いだった。


 正直、運が悪いなと感じた。警官として働いて約二年。やっとのことで捜査官としての業務に慣れてきたと思った矢先に、都市伝説として噂されていた悪魔事件にぶち当たるとは、自分が描いていた未来予想図の中で一番最悪なエンドであった。


 自分には結婚したばかりの妻がいる。これからしたいことも沢山ある。まだ生きる希望の多い22歳の松田には、悪魔事件という言葉が嫌という程脳内に響いた。


「だが、確証は無いから可能性の域は超えない。しかし、確証がなくても可能性の時点で芽は摘むんでおきたいんだ。そのぐらい、悪魔は放っては置けない存在だ。」


「そうですね…。」


 と、先輩である扇浦の意見に賛同はするものの、その声は若干の震えを帯びていた。


 なぜ、扇浦はここまで物怖じせずにテキパキと対処ができるのだろうか。あの悪魔と対峙する可能性があると知って、恐怖の感情は芽生えないのだろうか。これが長年捜査官を続けてきた故に身に付けた力であるというならば、自身には到底出来ないと感じる。


「――松田、怯えているのか?」


「――ぇ、」


 扇浦の視線は松田の腰あたりに位置していた。その視線を追うと、自身の手が震えていることに気がついた。


「…扇浦捜査官は、怖くないんですか?あの都市伝説として言われた悪魔ですよ…?普通の武器では太刀打ち出来ない、抵抗すれば簡単に殺される、そんな未分析の上位生物を目の前にして怖くないと言うんですか…?」


「松田…。」


「俺は、怖いです。扇浦捜査官のようには振る舞えません。市民を守るのが自身の役目であるのにこのザマです…自分が、情けない。」


 松田が警官を志したのは、人々を世の中の危険から守りたいという思いからであった。危険なものから市民を守る。そのためには、自分が前に出なくてはならない。なのに、、なのに、、


「落ち着け、松田。私が恐怖を感じていないとでも思っているのか?」


「えっ、でも…。」


「いいか、松田。私はいつだって恐怖を感じている。それだけじゃない、悲しみや苦しみも充分感じる。感情を無くして、人間を辞めた覚えはないぞ?」


 扇浦はそう言いながら松田の両肩を両手で掴む。


「本当は怖いさ、死ぬのも、誰かが死んでいくのも…。だがな、私は恐怖に押し潰される訳にはいかないんだ。自分の命を守るために、誰かの命を守るために、こんなところで立ち止まれやしない。人の命は奪われるのは容易い。一刻を争うものだからこそ、私はこうやって動いているんだ。」


「…扇浦捜査官。」


 目頭が熱くなっていくのを感じる。

 扇浦捜査官はやはりすごい、信念を持ってこの十年を生き抜いてきた。いつ死ぬかも分からないこの世の中で…。なら、自分も…。


「覚悟が決まったようだな。コンクールは今日の午前10時頃から始まる。現在は午前8時だから、まだ時間はあるな。一応、コンクール当日には多くの警備が配置されているが、悪魔ともなれば太刀打ちできないだろう。」


「では、我々が向かっても意味があまりないのでは…。」


「ふふっ…。」


 その言葉に、扇浦は笑みをこぼす。


「そのためのさっきの電話さ。特別ゲストを一人呼んである。必ずや勝てるさ。さ、刻一刻を争う。急ぐぞ!」


「は、はい!」


 こうして、市民を守る思いを抱えたふたりは闇が渦巻く街中へと飛び出して行った。





※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





 高校生向けピアノコンクールの本番がやってきた。


 午前9時。殺傷事件のあったあとであるため、多くの警官が見守る中、結城鈴音は控え室で自身の順番を今かと待ちかねていた。


「…あれ?もしかして鈴音ちゃぁん?」


「この声は…。」


 そう思って振り向いた時、鈴音の予想は的中した。意地悪同級生の音羽である。藍色の高そうなドレスを身にまとい、鈴音の元へとやってきた。


「まーだ、くたばってなかったんだ。出演者の欠場が相次いでいたから、てっきりあなたもくたばったかと思ったわぁ!」


 鈴音は何も反応せずに顔を俯ける。


「まぁ、私からしたらくたばってくれた方が嬉しかったんだけどねぇ…?あ、でも真っ向勝負でも勝てないか!いつも私に勝てないものねぇ…?永久の二番手さん?」


 無反応を貫こうとするも、どうしても手に力が入ってしまう。黒のドレスを掴み、自身の心を落ち着かせようとする。


「ま、せいぜい頑張りなよ。私の後に弾くってことにして、高校最後のコンクールを締めくくりなさい?」


 そう言い残し、音羽はステージへと向かっていく。絶対に負けられない、そう誓う鈴音であった。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 午前10時となり、コンクールが開幕した。鈴音の悪魔によって、前回のコンクールでの4位、7位、8位が欠場。前回出場経験のあるものの中では、鈴音の順位はこれで良い位置まで向かうことが出来るようになった。しかし、問題は一位の音羽だ。


 絶対的な王者――音羽。その音色は人の心をつき動かし、その美しさは人の心を魅了する。表では清廉潔白な美少女を演じてはいるが、裏では人を蔑みいじめるような奴。


 その言葉をかけられるたびに悔しくて悔しくて…でも絶対的な力が間には存在し、思うようにはいかなかった。だけど、今回は違う。自分には悪魔の力がある。この力さえあれば、音羽の絶対的力など敵ではない。


「続いては、絶対的王者――音羽さんの発表です。」


 アナウンスに続けて、大きな拍手が巻き起こる。やはり、天才ピアニストとして名が売れているだけはある。ここにいるほとんどが王者の旋律を目の当たりにするために来たのだろう。だが、それも今日で終わりだ。


「――――」


 音羽が舞台でお辞儀をし、椅子の高さを調節し、ピアノに指をかける。そして、鍵盤を滑らかな指先で弾き始める。


 綺麗な音色だ。脳内に直接響いてくるかのような美しいピアノの旋律。これがあのような人から出てくる旋律とは思えない。しかし…


「――いたッ」


 一瞬のことであった。音羽の手元を小さな針のようなものが素早く横切り、音羽の右の人差し指と中指がぱっくりとした傷が出来上がった。


 悪魔による一人目の殺傷事件が起こってからというもの、音羽の護衛の強化が入ってしまった。天才ピアニストであり、お金持ちの家庭であることから、護衛の人が着くのは容易いことであり、それが殺傷事件により警戒が強まってしまったのだ。正直、順番を間違えてしまったことに反省をした。


 だが、その警備が薄れる時があった。それは、コンクール当日だ。コンクール当日はピアノを弾く者と楽譜をめくる者以外は基本的に舞台に上がることは出来ない。つまり、警備体制が薄まるのである。そこで、悪魔を屋根裏に隠し、そこから音羽の指を狙撃してもらえば当日に引けなくなるであろうとの算段であった。


「くっ…。」


 そして、その作戦は見事成功。一瞬乱れた旋律に気が付き、審査員や観客共々、何があったんだと少しの騒ぎが起き始める。指からは血が漏れ出て、鍵盤にも跡がつき始める。これで絶対的王者の座は崩れる。舞台裏で眺めていた鈴音はそう確信していた。だが、やはり音羽は違った。


「う、嘘だ…。」


 鈴音が小さくこぼした一言。なぜなら、音羽はその傷があたかもなかったかのように先程と同じ美しい旋律を奏で始めたからである。表情も清らかなまま保ち続けている。あれだけの傷があれば激しく指を動かすのも痛いはずであるのに、、


「なぜ…なぜっ!」


 そのまま、音羽の舞台は幕を閉じた。一瞬のぐらつきがあったものの、見事弾ききってみせたのだ。


 これがプロというやつなのだろうか。これが絶対的な力の差というやつなのだろうか…。思い通りにいかない現実、手の届かない現実に、鈴音はいよいよ絶望した。


「長らくお待たせ致しました。ピアノの準備が整いました。それでは、最後の発表です。結城鈴音さんお願いします!」


 血の後を拭き取り、ピアノの準備が整った。いよいよ鈴音の出番である。しかし、アナウンスの声も、お辞儀をした後の拍手も、何もかも鈴音の耳には聞こえては来なかった。


「――――」


 だが、ここで弾かなければならない。やれることは全てやった。あとは自分の出来次第。大丈夫、できる、できる、できる…。


「――ぁ、」


 その時、衝撃的なことが起こった。ピアノの弦が一つ切られていたのである。それも、自身の曲で一番重要であろう音だ。


 いつ切られたのか…少なくとも音羽が引いていた時点では切れていなかったはずだ。となると、切れるタイミングはひとつ。先程の準備時間である。となると、ここのコンクールの職員の何者かが音羽の回し者であるということになる。


「…くっ」


 許せない。

 そこまでして私を蹴落とそうというのか。絶対的王者――音羽。あいつだけは…あいつだけはぁ!


「――力が、欲しいかァ」


 脳内へ悪魔の声が響く。

 そうだ、自分には悪魔の力がある。世の中の理不尽も、理も、全てを凌駕する絶対的な力。その力を自分は持っているんだ。


「――祈レ。お前の望みヲ。」


 私の望み。

 もう、優勝なんてどうでもいい。この世の中が憎い。なぜ、ここまで私は不幸にならなければいけないのか。この世の中が間違っているんだ。


「――そうだ。」


 この世の中が狂っている。間違っている!

 ならば、答えはひとつじゃないか…この場所を世の中を、私の力で正しいものへと導かなくてはならない!私の道を邪魔するものがいるならァ!自分の手で、道を!


「――切り開く」


 その瞬間、天井の壁が大きく剥がれ落ち、大きな衝撃波がホコリをまとって会場に響く。


「うらぁぁぁぁぁあ!」


「ば、ばけものォ!」


 三本の鉤爪を持ち、漆黒に染った忌まわしき存在――悪魔。その悪魔が猛々しい雄叫びを上げながら、この場に姿を現した。


 その存在を見た観客達はパニックに陥り、その場で腰を抜かすもの、ドアへ殺到する観客、まさに混乱という名がふさわしいであった。そして、その中にはあの藍色のドレス姿もあった。


「――やれ。」


 そう指示すると、悪魔は集団の後ろに紛れ込む音羽の目の前に立った。そして、集団から引き剥がすように、音羽の首根っこをつかみ、壁に勢いよく打ち付けた。


「化け物が出たぞ!うてぇ!」


 警官がその騒ぎを聞き付け、銃弾を発砲する。しかし、悪魔にはその銃弾は聞かなかった。まるで、水に銃弾を打ち付けても意味が無いかのように、体をすり抜けていった。


「――邪魔だなァ?」


「や、やめろ!」


 悪魔はそういうと、発砲した警官たちの前に立ち、三本の鉤爪で体を切り刻む。


「――ぐぁあっ!」


 舞台に赤き血が舞い散る。悲鳴ですらも、今は良い旋律に聞こえる。自分の手で世の中の理を崩していくのは、なんとも心地よいものなのだろうか。


「おっとォ、寄り道しちまったァ。こいつをやっちまうかァ!」


 混乱している人々をよそ目に、再び音羽の目の前にたつ。


「ゆ、許して!なんでも、何でもするわ!だからっ!」


 泣き顔の命乞いだ。これほど滑稽な姿はないだろう。笑いが止まらない。高笑いが…


「ふふっ…ふははははははっ!はっはっはっは!」


 ――高笑いが止まらねェ!!


「うらぁぁぁぁぁあ!」


 三本の鉤爪が音羽の間近に迫る。これで1つ目の祈願が達成される。そう思っていた。だが、


「はぁぁぁぁあっ!」


 何者かの影が音羽の目の前を通り過ぎ、


「うぁぁあァッ!」


 悪魔の腕が振り払われ、その反動で悪魔の体ごと舞台の反対側の壁へと打ち付けられる。


 一体、何が起こったのだと衝撃波が拡がる最中、鈴音は目を見開く。するとそこには、制服にオレンジのパーカーを身につけた一人の少年の姿があった。


「大丈夫!?早く出口へ逃げて!」


「…は、はい!」


 そう言うと、音羽は舞台の出口から逃げ出そうとする。だが、ここで取り逃す訳にはいかない。


「悪魔っ!早く取り押さえて!」


「――あいよォ!」


 指示された悪魔は驚くべきスピードで、音羽の背中を追いかけようとする。しかし、


「――悪いな、ここを通すわけにはいかない。」


 悪魔の進路に謎の少年が立ちはだかる。悪魔の存在を見たらば混乱して逃げ惑うのが普通だ。なのに、この少年はそれを恐れない。一体何者なんだ。


「ははッ!人間風情がッ、調子乗んじゃねェ!」


 悪魔の鋭い右手が少年の体に襲いかかる。しかし、次の瞬間――


「…なにィ?」


 その鉤爪を大きな筆で受け止め切っていた。いや、筆型の剣というべきであろうか。見たこともない武器…しかもそれが突然にして少年の手元に現れた…。一体何なのだ。


「はぁぁぁあっ!」


「――ぐぁぁぁッ!」


 少年がそのまま筆を振り上げると、大きな衝撃波と共に、悪魔は再び鈴音のいる舞台の壁側まで吹き飛ばされる。


「人間風情がこんな力を…ク…くそったれェ…!」


 悪魔はその場にあった瓦礫を少年のいる天井へ投げ飛ばし、形の崩れた木片が少年の元へと降り注ぎ、その瓦礫と砂埃に埋もれて姿が見えなくなる。悪魔も2回も壁へ打ち付けられ、息絶え絶えだ。


「ナ、なァ。お前ェ、このままだと俺らはやられちまうッ。お前モ、このまま終われば犯罪者として終わるだけだァ。だかラ、俺の話を聞けェ。」


「犯罪者…」


「そうだァ、お前ェはこの理不尽な世界を帰るために立ち上がったんだろォ?でもこのままいけばァ、何も変えられずに終わるんだよォ。そんなの嫌だろォ?悔しいだろォ?」


「…苦しい…悔しい…。」


「だからよォ、ワタシの手を取れェ。ワタシの力が欲しいと欲しろォ、さァ…さァ!!」


「私は…私はっ…!」


 悪魔が話を持ちかけている間、少年は瓦礫の山からやっとのことで這い上がることができた。筆の剣をスピンさせて瓦礫を咄嗟に防いだが、流石に移動には手間取った。


「くっそ…あの悪魔野郎…。」


 瓦礫をはねのけた先、砂埃が舞う視界の中で少年は舞台の方へと視線を上げる。するとそこには――


「…ッ!?」


 少年の目に飛び込んできたのは、悪魔に手を伸ばす少女の姿だった。


「君!何をしているんだ!そこから離れろ!」


 だが、少女は呼びかけに応えることはない。その場に留まる悪魔へ、虚な表情で、ゆっくりと手を伸ばす。


 悪魔は契約者の底に秘めた想いを反映する存在。すなわち、自分の写し鏡のような存在だ。自分ができなかったこと、叶えられなかったことを実現してくれる。悪魔さえいれば、自分にも力が手に入ると思ってしまう。だが、それが悪魔の狙い。


「さァ…願え!心から、ワタシが欲しいと願うのだ!」


「ダメだ!そいつに触るな!もう一度考え直せ!」


 悪魔は契約者の底に秘めた想いを反映する。つまり、本人が悪魔の力を心から欲しいと願った時、相互の思いが一致し、最終契約が完了する。そして悪魔が人の心に棲みつき、精神を支配する。すなわち、魂からの死が起こる。


 だから、最終契約を結ばせないための二つの方法の内の一つが、その人の想い自体を揺るがせることなのだ。思いを揺るがせて契約を留まらせる。そのために、相手の心に訴えかけるんだ。


「いいか!君の父親は悪魔に殺された!そして契約者たる母親もだ!」


「…ッ!?」


 手の動きが止まった。説得が効いている。事前情報を聞いていたのが功を奏した。

 まだ足元の瓦礫が邪魔で手が出せない。説得を続けながら少女の元へ近づいていくしかない。


「そして、母の悪魔同様に、君の悪魔も他人を傷つけた!君が力を手にしても、先はもう想像がつくだろう!?」


「バカな真似を…。さァ、あんな奴に耳を貸すな。ワタシを選べ。」


 悪魔も契約者に囁き始めた。早く、決着をつけなければ…。


「悪魔の力を借りても人が傷つくだけだ!君は知っているだろう!?家族が傷つけられた時の悲しみを、怒りを、苦しみを…!!」


「ううッ…私はっ…!」


 口を開いた…!

 このまま説得すれば必ず勝てる。


「だから、それを繰り返すな!戻ってくるんだ!」


「ええィ!こうなれば、僅かに想いがあるうちに契約を済ませるだけだァ!」


 思い留まった契約者の手に、悪魔側からすかさず手を伸ばす。逃すぐらいなら、少しでも可能性を見出してやろうとの行動だろう。だが、思い通りにはさせない…!


「させるかァァァァァ!」


 その瞬間、スニーカーが地面を強く蹴り上げ、少年は少女の元へ走り出す。

 悪魔との契約を阻止する方法は二つ。その内の一つは契約者の想いを揺らぐこと。そしてもう一つは物理的にその手を遮断することだ…!


「創造の筆!!」


 胸ポケットから抜き出した筆ペン。少年の掛け声と共に右手の中で巨大化し、そして二人の腕の間をスライディングしながら、伸ばした悪魔の手を下から切り落とした。


「ぐわぁぁぁあァ!手がッ…!お前ェ、何をしたァ!」


「最終手段に入らせてもらっただけさ。お前の手を切り落とさせてもらった。」


 そう言いながら、少年は筆を振り落として、筆に付いた血を地面に流れ落とす。


 血といっても悪魔は通常の生物とはかけ離れた存在なので、血は存在しない。体を構成するのはヘドロのような得体の知れない物体。悪魔の体は、活きのいいヘドロ集合体といっても良いだろう。


 そうしたのも束の間、切り落とした手は溶けたアイスのように、泥状化したヘドロとなって形を成さなくなる。飛び散った肉片も、どす黒いヘドロのようにその場で溶けだす。体から離れた部分は形を成さなくなってしまう。それが悪魔の特徴でもある。そして、大きな特徴としてもうひとつ。


「ははッ、だが残念だったなァ。我ら悪魔は永遠に体を再生することが出来るのだよ。ほら、この通り…。」


 そう言って、悪魔は自らの腕に視線を向ける。だが、そこから切り落とされた手が生えてくることはなかった。


「な、何故だァ!こんな不具合は無いはずだッ…。まさか…お前の筆はッ…!」


 悪魔がその筆の正体に気づいた時にはもう遅かった。


「そうさ、これは神器の一つである創造の筆。悪魔も切れる筆の剣…って言ったら分かるかな?」


「お、おのれぇぇええ!こうなれば、こいつ諸共死んでやるわァ!」


 その瞬間、悪魔は近くに落ちていた木の破片を拾い上げ、


「――ひッ…!」


 少女の目の前に瞬間移動をし、頭に目掛けて突き刺そうとする。


「――ぁ、」


 その時、少女は死を悟った。視線のすぐ近くにまで迫る尖った木の先。このままでは片目をくり抜かれて私は死ぬのだろうと、そう感じた。だが、今危機感を覚えたところでもう遅い。私にはそれを防げる力もないし、時間も残っていないのだから。


 いや、むしろ力も時間も無駄に浪費してしまったのは自分なのではないか。亡き母がくれた最初で最大の宝物であるピアノ。今となっては、そのピアノは私の才能を利用して金を稼ごうと画策して教えこんだものと分かった。その裏が見えた今でも、あんな母のためにピアノを練習し、世界一のピアニストを目指すのは馬鹿らしいであろうか…。


 確かに、あの時は苦しかった。出来ないことが続いて、母に怒られ、怒られないように頑張ろうとするも徐々に色々なことが上手くいかなくなって…いつの間にか私の住む場所は部屋に用意された檻の中になっていた。最初は父もその様子に反対していたが、しばらくすると見ないふりをするかのように仕事に没頭し始め、母の怒り方も暴力的になってエスカレートしていった。私の居場所はどこにもなかった。


 だけど、その中でもピアノだけは私の心の拠り所になっていた。初めて誕生日プレゼントとして母がくれたピアノのおもちゃ。父も母も幼い私も、みんなが笑顔で幸せな瞬間だった。その思い出があるからこそ、私は、母が暴力を振るうのは何か理由があって仕方の無いことなのだと思っていたし、母は私を愛してくれているんだと信じたいからこそ、ピアノを引き続けた。


 そう、ピアノしか無かった。ピアノしか私にはなくなってしまったのだ。時間も金も力も、全てを費やしたこのピアノの世界から抜け出したかった。その力が欲しかった。だから、私は悪魔と契約を結んだ。世界一のピアニストになれればきっとピアノを諦めきれるって、そう信じたから。


「しねぇえェ!」


「させるかッ!」


 だけど、その力を欲したせいで多くの人を巻き添えにしてしまった。私のせいで、家族を失って苦しむ人が増えてしまった。その痛みは自分がいちばんわかっていたのに…なんてクソな人間なのだろう。ならば、もういっその事この世から亡くなった方が…。


「おうらぁぁあ!」


「ぐがぁぁあッ!」


 目の前まで迫った木の先は、刺さる寸前で私のスカートの上に落ち、ヘドロがまとわりつく。

 痛みに悶える悪魔と、息を切らしながらでも私を守る男の子。こんなクソ人間を、なんでここまで必死に守ろうとするんだろう。私、分からない、分からないよ…。


「いいか、よく聞いてくれ。」


「…ぇ」


 背中を向け、私を守る男の子はこう説いた。


「さっきの続きだ。確かに君は力を欲した、そのせいで多くの人を巻き込んだ。だが、力がなければこの先の未来を明るくはできない。それは確かだ。」


「うん…。」


「俺は、力というものは諸刃の剣だと思っている。未来を切り開くには力がいる。だが、力を持つものは、時に人を傷つけてしまうんだ。誰かがコンテストで1位を取れば2位は傷つく。そうだろ?」


「うん…。」


「さっきの言い方では、人を傷つけるのは良くないというように聞こえたと思う。だけど、人を傷つけない生き方は無理だ。自分の未来を、夢を切り開くには誰かを大小必ず傷付けることとなる。」


「じゃあ、悪魔はっ…!」


「――ただ、悪魔は人を殺めてしまう。自分の思いを無理やりでも貫こうと命をも奪う。これはただのわがままだ。だから、力には飲まれないで欲しい。力は飲まれるものではなくて制御するもの。それだけは覚えておいてくれ。」


「う、うん…!」


「よし、そろそろ終わりにするぞ!」


 少年はそう言うと、胸ポケットから辞書のような分厚い茶色の本を手元で開き、こう唱えた。


「封印の書よ!理を紐解き、因果を制御し、あらゆる万物をここに記せ!」


「な、なんだッ!?」


 どこからともなく吹き荒れる激しい突風。その風で、少年の手元にある本は音を立てながらなびき、その本から零れた紙の破片が風に乗って悪魔の周囲を包囲していく。


「お、おい!何をするつもりだ!今すぐここから出せェ!」


「封印の書!フルバースト!!」


 その掛け声と共に、包囲していた無数の紙切れが徐々に悪魔の体へ迫り、紙がナイフのように悪魔の体を切り裂き、引きちぎり、そして…。


「はぁッ…ぁ、うぁぁぁぁッ…!」


「…消え…た。」


 ヘドロとなったのだろうか。その場から悪魔の姿は消え、役目を終えたかのように無数の紙切れは少年の本の中へと戻っていく。


「終わった…?」


 この言葉はフラグ立てのような言葉だが、今はそれを言ってしまうほどに、衝撃的な終わり方であった。


「あぁ、これで終わったよ。あの悪魔は完全にこの世から存在を抹消され、この本の中に封じ込めた。あ、再復活することは無いから心配してね。魂はあの世。封印はあくまで体のみさ。」


 よく分からないけれど、これで終わったらしい。しかし、この男の子の正体は一体…。


「これで俺の役目は終わった。あとの処理は警察が何とかしてくれるだろう。俺はここを後にするよ。」


 筆の剣は姿を縮めて普通の筆ペンに戻る。その筆ペンを制服の胸ポケットに付け、封印の書を教科書と同じリュックの中に入れる。そして、何事も無かったかのようにこの場を…


「――あ、あの!」


「…ん?なんだい?」


 この場を去ろうとする少年に、少女はこう問いかけた。


「あの、あなたは一体何者なのですか?あと、あの筆と本は一体何なのですか?それから…」


「おっと、質問が多いね。時間があれば全部答えてあげたいんだけど、あいにく時間が惜しいものでね…。だが、これだけは教えてあげよう。」


 そして少年はこう答えた。


「俺の名前は。これだけは覚えておいてね。よろしく。」


 神楽と名乗る少年と少女の出会い。

 この出会いが今後の運命を大きく揺るがすこととなるとは誰も想像がつかなかった。

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