八
俺達が音楽室に到着する頃には、既に部員達が集合しているようだった。思い思いにそれぞれの楽器の音出しをしているのが聞こえる。とはいえ音楽室は厚い防音壁と扉に囲まれているので、くぐもった音が微かに漏れるだけである。
俺達はひとまず音楽準備室に入った。吹奏楽部がメインで利用する第一音楽室と、たいして使い道の無い寂れた第二音楽室の間に挟まれた音楽準備室は、楽器庫も兼ねており薄暗い。申し訳程度に置かれた
「どうして第二音楽室に集合してるの?」
本来の部室である第一音楽室は全く人の気配がしないため、不思議に思ったらしい日向が絵理子に質問した。
「ちゃんと活動している合唱部に乗っ取られたから」
絵理子がぶっきらぼうに説明する。
「あまりにも悲し過ぎるだろ」
「これが現実なのよ」
部員達が変わり者ばかりとはいえ、いくらなんでも扱いが雑ではなかろうか。これではあからさまに厄介者を隔離しているようである。絵理子が具体的に教えてくれないため想像するしかないのだが、おそらく新三年生達は、物凄い実力を持つ代償として人間性が犠牲になった、天才と変態は紙一重的な集団ではないかと思う。
「ちょっと聞いてみれば?」
そう言いながら、絵理子は第二音楽室側の扉を少しだけ開けた。誘われるがまま、俺も室内の様子を眺める。
「こんな覗きみたいなことしてなくてもいいんじゃないか?」
「うるさいわね。いいからまずはよく聞いてみなさいよ。打楽器専門の私の感想なんてたいした情報にならないんだから」
そんなに自らを卑下しなくても良いと思うのだが、俺は絵理子の言葉に従い息を殺して耳を澄ます。
「……おい絵理子」
「何よ」
「あれ、なんだよ」
俺の視線の先には、トランペット吹きの女子生徒がいる。
「ああ、あの子ね。一応生徒指揮者なの」
「いや、そういうことじゃなくて」
「え?」
呑気な態度の絵理子がまどろっこしくてイライラする。
「なんであいつは涼しい顔して最高音の音域でロングトーンしてんだよ!」
「どういうこと?」
「……マジかよ」
まるで何も理解していない絵理子だが、いくら打楽器奏者だからとはいえ感覚が鈍いにも程がある。
「トランペットの一般的な音域はチューニングのB♭から上下一オクターブ。あいつが今やっているロングトーンはさらにその一オクターブ上じゃないか」
「でもあの子はいつもこんな感じなのよ。耳がキーンってなる」
俺は愕然とした。
が、驚くのはそれだけではない。
「そこのテナーサックスの子、もしかして二十四調全てを網羅しているのか?」
「ああ、そういえばあの子はずっと音階練習ばっかりしているわね」
「じゃあその横でバリバリにビブラートを効かせているアルトサックスの彼は?」
「ああ、副部長ね。中学で支部大会に出場した経験があるの」
予想を遙かに超える勢いで、とんでもない集団だった。やたらと豪快にグリッサンドを連発するホルン、超高速でタンギング練習をするバスクラリネット、苦しい顔一つせず二十拍のロングトーンをこなすトロンボーンなど、目を閉じていればとても高校生が演奏しているとは思えない音ばかりだった。
常軌を逸していると言っても過言ではないその中で、さらに異質な存在があった。
「さっきからあのスネアの子、ずっと同じ調子で叩いているよな?」
この独特のリズムは、おそらくラヴェルの『ボレロ』だろう。実際の演奏もスネアドラムは約十五分間にわたって延々と同じリズムを刻み続ける。
「それがどうかした?」
当たり前のことのように絵理子が聞き返してくるので、ともすると俺がおかしいのかと錯覚する。
「ちょっとそこのメトロノーム取って」
俺は絵理子から受け取ったメトロノームのゼンマイを巻き、女子生徒が刻むテンポに調節する。そのままタイミングを合わせて動かすと、一寸のズレもなくスネアドラムの音とメトロノームの針がシンクロした。
「あら、今日もぴったりで気持ち良いわね」
絵理子は牧歌的な感想を述べるが、俺はちっとも愉快な気分になれない。
「おい」
「何?」
「ここから見る限り、あの子本人はメトロノームを使っていないように見えるんだが」
「慣れたんじゃない?」
「……」
ここまで来ると、俺は驚きを通り越して何も感じなくなっていた。ボレロの刻みはたった二小節の反復である。指揮者もいなければメトロノームを使っている訳でもないのに、一糸乱れず正確なリズムを叩くというのはもはや人間離れした芸当なのだ。
「……あのクラリネットの子は年相応だな」
ようやくまともな生徒を発見した。技術が高くないことに安堵するのは不思議な気分である。
「彼女は楽器を始めて一年なの。よく頑張っているわ」
「は!?」
「何よ、うるさいわね」
「一年!?」
「そうよ。あの子は二年生に進級した春から入部した初心者だから」
結局そいつも全然まともじゃなかった。
「今のあの子のレベルになるまで、俺は四、五年かかったんだが」
「そうなんだ。……え?」
絵理子はようやく少し驚きを見せた。今さら過ぎて俺はもう感覚が麻痺している。
「こいつら本当に高校生か?」
三年生達は天才と変態の紙一重だろうとは考えていた。だが、これほどまでに衝撃を受けるのは、神童と謳われたモーツァルトが五歳の頃から既に作曲を初めていたという逸話を聞いた時以来だ。ではいったい変態具合はどれだけ突き抜けているのか、想像するだけで恐怖すら感じる。ちなみにモーツァルトもわりと変態である。
そしてその集団の中で一際輝きを放つのが、伸び伸びとフルートを奏でる一人の女子生徒だった。曲はビゼー作曲『アルルの女』のメヌエット。こちらからだと後ろ姿しか見えないが、強度としなやかさを併せ持った一本の線のような美しい音色が、真っ直ぐ俺の耳に溶け込む。
「あの子が部長よ」
「あんなに上手ければ部長になるのも納得だが……。どいつもこいつも部長に引けを取らないくらい強烈だな」
ここまで実力があるのに干されるということは、やはり人間性が相当残念なのだ。もはや人間性が宿っていない可能性すらある。
「というか、絵理子」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
衝撃的な光景を目の当たりにした俺は、つい無神経なことを言いそうになってしまった。
「いくら指揮がヘタクソでも、なんでこの子達がいて地区大会で終わっちゃうの、って思ってるんでしょ」
せっかく俺が差し控えた指摘を、しばらく空気と化していた日向がいきなり口にした。彼女の無垢な表情を見て、俺の背中には冷や汗が伝う。頼むから絵理子を刺激するのはやめて欲しい。
「お前にはデリカシーってものが無いのか?」
そう言うと、日向は即座に俺を睨んだ。
「は? あんたに言われたくないんだけど」
「俺は人と関わらないだけで、人の気持ちがわからない訳じゃないぞ」
「何を偉そうに。実際もそう思ってるくせに」
バカにしたような日向の売り言葉に、俺は乗せられてしまう。
「思ってるけど口に出してないだろ!」
「今出たわよ」
「あ」
冷め切った声が背後から聞こえた。ギギギ、と首から音が鳴るくらいぎこちなく振り返ると、闇に塗り潰された絵理子の瞳が俺達を捉えていた。口元には微笑みが浮かんでいる。顔面が上下でバラバラになるとは面白い奴だ。
……いや、笑っている場合じゃない。刺し殺される。
「絵理子、一旦落ち着こう。俺は別に何も思ってないから」
「何も思ってないのにどうしてここまで来たの? やっぱり私をバカにしているの?」
「どう答えれば正解なんだよ!」
「生きていてすいませんでした。もう二度と姿を現しません。私は土に還ります」
「おいおい話が振り出しに戻ってるぞ。さっき職員室に行ったのはなんだったんだよ」
「絵理子先生、ごめん。ストレートに言い過ぎた」
「だからそれがストレートだって言ってるだろうが!」
「あんたここに来て何いきなり一般人みたいなこと言ってんの? 無職のくせに」
「いや無職は関係無いだろ」
俺は意味も無く会話に火を点けた日向から絵理子を庇っている立場だというのに、当の絵理子は冷ややかな視線を俺に向けている。
「関係あるわよ。日向はともかくあなたからバカにされるのは耐えられない」
「なんでお前まで俺を悪人に仕立て上げるんだよ!」
「もともと悪人だから」
「てめえ……」
犯人の凶行から身を呈して人質を保護したのに、その人質に背中を刺された交渉人の気分だ。
だがそんなことよりも、日向の何気ない一言でヒートアップして完全に周りが見えなくなっていた俺達は、大事なことを忘れていた。そもそも覗きをしていたのだ。呑気にエクスクラメーションマークをつけながら話していたらどうなるかなど、火を見るよりも明らかである。
「あの」
扉の隙間から放たれた可愛らしいその声は、俺の背筋を凍らせた。振り返ると、まるで不法投棄された粗大ゴミでも見るかのような蔑んだ眼差しをこちらに向ける女子生徒と目が合う。高音域ロングトーンをしていたトランペットの子だ。
「痴話喧嘩なら外でやってくれない? というか絵理子先生何してんの? それ誰?」
昔と全く変わらない深緑と濃紺のタータンチェックスカートと、同じく深緑色のブレザーの制服を身に纏った初対面の女子高生に「それ」扱いされるとは思わず、俺はただの不審者のままであった。だが、絵理子は動揺もせずその子の視線を受け止める。
「騒がしくしてごめんなさい。この人は私の同級生で、吹奏楽部のOBなの」
「ふうん?」
相槌を打った彼女はそのまま第二音楽室に向かって声を掛ける。
「どうする、部長?」
言い終わると同時に扉が全開になった。やけに静かだとは感じていたが、音楽室内の全員がこちらを見ているのだから当然だ。ともすればヒステリーモードの絵理子よりよっぽどホラーである。すると、部長がつかつかとこちらに近づいてきた。嫌な予感しかしないが、こちらから声を掛けることはなんとなく
「こんにちは。あなたも私達を潰しに来た方ですか? それは困るので消えてもらってもいいですか? さもなければ通報します」
無表情で不穏過ぎるワードをぶちまけた部長に、俺は思考が停止した。
「誤解よ」
いくら俺のことが嫌いな絵理子といえども、こればかりは味方になってくれるようだ。
「通報されるくらいの人物であることは間違い無いけれど、あなた達に危害を加えるつもりも無いわ」
まるで味方とは思えないフォローだ。さすが、交渉人を闇討ちする人質のことだけはある。いい加減にしろ。
「でも先生達、揉めていませんでした?」
「あれは学生時代からのスキンシップよ」
あんな殺伐とした風景が日常的に広がっている訳があるか。
「へえ? てっきりまた私達にちょっかいを出す人間が来たかと思いましたけど」
さっきから潰すとかちょっかいとか、この部はいったい何と戦っているのだろう。文化系の部活らしさが微塵も無い。
「ちゃんと紹介するつもりがこんなことになってしまってごめんなさい。本当にあなた達の邪魔をする気は無かったの」
「じゃあ、どういう意図なんですか?」
「……立ち話もなんだし、一旦戻りなさい」
すると絵理子は俺の手を引っ張って第二音楽室に入っていく。我ながら情けないが、ここまでなされるがままである。気がつくと指揮台の上に引っ立てられて、部員達の視線を全身に浴びていた。緊急記者会見を行う芸能人みたいだ。もちろん俺は華もオーラも無い枯れ木のような人間なので、観衆を色めき立たせるほどの魅力は皆無だ。
告別式の弔辞のような、なんとも言えぬ雰囲気が漂っている。開けっ放しになっている音楽準備室の戸の傍らでは、日向がじっと様子を窺っていた。
相変わらず窓の外には曇天が広がっており、蛍光灯が点いている割に第二音楽室は薄暗い。
改めて紹介します、と絵理子が一同を見渡した。
「こちら、我が校のOBで私の同級生の秋村恭洋さんです」
機械的な口調の絵理子のせいで余計に室内の空気が重苦しくなった。部員達と顔合わせするという大目的は達成できたが、まるで歓迎されていないことは一目瞭然である。不気味なことに、総勢十八名の部員達は全員表情が希薄で、目にも全く光りが差していない。顧問の影響だとしたら、絵理子の罪は果てしなく重い。
「こんにちは。ただ今ご紹介に預かりました、秋村と申します」
黙っている訳にもいかず、OBらしさを一ミリも感じられない挨拶をしたが、部員達からの返事は一つも無かった。絵理子も仏頂面のままである。
「で、何が目的ですか?」
余計なことには一切時間を割かないという意思の表れのように、指揮台の上の俺から最も近い場所にいる部長がいきなり用件を切り出した。
「……俺が聞きてえよ」
母校とは思えないほどアウェーな状況に嫌気が差してぼそりと呟いた瞬間、絵理子の肘が素早く動いた。
「うっ!」
指揮台に上がったせいでできた身長差により、俺の太股側面に激痛が走る。
「この人はね。当時生徒指揮者だったの」
暴力を振るっておきながら、絵理子は部員達に向かって飄々と俺の素性を明かした。「生徒指揮者」というワードで、室内の空気が若干変わったように感じる。
「――もしかして秋村って、あの……?」
部員の一人が、何かに思い当たったらしい。その呟きが周囲の生徒にも伝播していくと、皆が驚愕した顔で俺のことを見つめた。これではまるで俺が天下の大罪人のようだ。火あぶりにされるのは俺なのか。
「そう、みんなが考えている秋村さんよ」
追い討ちを掛けるように絵理子が告発した。どうやら卒業してから十年経った今でも、俺のことが語り継がれているというのは本当だったらしい。俺としても隠すつもりは無かったが、こんな一瞬で身元が割れるとも思っていなかった。これでは第一印象が最悪だ。どうせ俺の名は悪名として広まっているのだから。
恨めしげに絵理子を睨むと、この女はざまあみろとでも言わんばかりの冷笑を浮かべている。やはりこいつは最初から俺を陥れるつもりだったのだ。高校時代も陽気な奴ではなかったが、今の絵理子はただただ陰湿な女になってしまっている。
だが、ここで絵理子を糾弾しても仕方が無い。
「久しぶりに母校がどんな様子になっているか気になって来てしまいました」
ははは、と愛想笑いを浮かべると、近くに座るクラリネットの女子生徒が「ひっ」と悲鳴を上げた。慣れないことをするものではない。
「本当にあなたが、歴代最高の生徒指揮者なんですか?」
部長が疑念たっぷりに聞いてくる。おそらく、俺の人相とか、滲み出る怪しさや不気味な雰囲気のせいで、全く信用できないのだろう。俺だっていきなり温和な交流ができるなどとは思っていない。
そんなことよりも、質問の中身が問題だ。
「そっちを確認するのか?」
「……は?」
部長は、こいつは何を言っているんだという顔をしているが、おそらく俺もそういう表情を浮かべていると思う。俺はてっきり、もう一方のレッテルを貼られるものだと思っていたからだ。
「歴代最悪の部員、の秋村だよ」
俺が自嘲気味に言うと、部員達は一斉に息を呑んだ。どこからともなく「実在してたんだ……」という声が聞こえる。想像上の生き物みたいだ。
「そんな方が、いったいなんの御用でしょうか」
部長は早くも元の無表情に戻って、再び俺に尋ねてくる。他の部員も驚いた表情を浮かべたのはほんの僅かで、部長と同じく虚ろな目をしている。十年近く引きこもっていた俺が見ても、闇が深いとしか表現できない光景だ。
「単刀直入に言うと、君達を指揮するために来た」
「そうですか」
言葉を飾っても無意味だと思い目的だけ告げたのだが、返答があっさりしていて拍子抜けする。
「そうですか、って。もうちょっと何か無いのか?」
まるで構って欲しいような言い方になってしまったのがなんとなく恥ずかしい。しかし、それすら無視されたので、そもそもコミュニケーション能力が欠如している俺は精神の限界を迎えつつあった。
「確認なんですが」
唐突に部長から質問をぶつけられる。
「なんだ?」
「あなたに関する噂って事実なんですか?」
どうやら興味ゼロという訳では無かったようで少し安心した。
「実際、どういうふうに伝わっているんだよ」
もしも脚色されているようなら最初に否定しておくに越したことは無いと思い言葉を返すと、部長は面倒そうに口を開いた。
「まず、絶対音感でしたっけ。音程の高低まで正確に聞き分けられるとか……。 それから、顧問レベルの指揮。当時の顧問が歴代で唯一、演奏会の全プログラムの指揮を任せた生徒って、秋村さんのことですよね。それと……」
部長は息継ぎをして、真っ直ぐ俺を見つめる。
「あなた自身が、管楽器全てを演奏できて、ピアノも弾ける。私が知っているのはそのくらいです」
ここでもまた、俺の指揮者としての情報を話す部長に違和感を覚える。俺が起こした事件のことに触れると思ったからだ。
「……そんなの嘘に決まってんじゃん」
部長が語った俺の噂を、先ほどのトランペットの生徒が即座に全否定した。彼女はたしか生徒指揮者だと絵理子が言っていた。同じ役職に就いているからこそ、余計に信じられないのかもしれない。
「管楽器全部って、何種類あると思ってんのよ。リアリティ無さ過ぎ」
「……」
どういった形で回答すれば良いか迷っていると、当然ながら一同は懐疑的な視線を俺に向けた。
「実際演奏してみせるのが早いんだが、楽器を準備するのは手間だしなあ……」
うっかり呟くと、生徒指揮者が即座に反応する。
「え、ちょっと待って。事実なの?」
「まあ、うん」
ようやく少しはっきりしたリアクションがあったかと思うと、目の前にいる部長が自身のフルートを俺に差し出した。
「お願いします」
「……は?」
「まずは、このフルートを吹いてください」
あまりにも自然な依頼に俺の手が伸びかけて、すぐ止まる。言うまでも無いが、管楽器は基本的に口をつけて息を流し込むことで音を鳴らす仕組みだ。不審者とたいして変わらない俺が、女子高生の楽器にいきなり口をつけるなど、合法である訳が無い。
「気にしないでください。レッスンとかセミナーでもよくありますから。それよりも、あなたの噂を確かめることの方が重要です」
部長は機械的にそう言った。
たしかにクラリネットなどのリード楽器も、そのリード(楽器を発音させるためにマウスピースへ装着する板)の厚みを確かめるために講師が直接生徒の楽器を試奏することがある。当然、俺だってなんの下心も無い。
とはいえ、だ。
「そのフルートを手に取った瞬間、通報するから」
絵理子がいる目の前で、そんなことが許されるはずも無い。
「先生、止めないでください。そもそもこの人を連れてきたのは先生じゃないですか」
「それは……」
痛い所を衝かれたのか絵理子は黙ってしまった。連れきた、と言われるのは絵理子にとって心外であるに決まっているので、ヒステリーが炸裂するかと思われたが自重したようである。俺に対してもそうして欲しい。
「お前が証言すればそれで済む話だろ」
みんな頭が悪いな、と思いながら絵理子に話しかけた途端、俺の内心を察したように睨まれる。
「ちっ」
生徒の前で舌打ちはやめてください。お願いですから。
「そうね。にわかに信じ難い話かもしれないけれど、さっき部長が言った噂は全て事実よ」
仕方無さそうに絵理子がそう言うと、さすがに顧問の言葉は信憑性があるようで、反論を口にする者は現れなかった。やはり腐っても顧問なんだなと思う。
「もちろん、悪名の方も事実だけどね」
憎たらしくそう付け加えた絵理子が得意気な顔をするので、俺も舌打ちをしたくなった。
「みんな、どう思う? 今日はこの人が勝手に来たから、同級生のよしみで紹介したの。さっき指揮をしに来たとか言ってたみたいだけれど、私はこんな人間が関わるべきじゃないって思ってる」
絵理子は一同の目の前で俺を貶めることで、皆の総意として俺を排斥するつもりなのだろう。
「この男はね。当時私達の部が最も重要な時期に、何もかもを放り投げて逃げ出したの。しかもそれからまともな職にも就かず、今も世捨て人みたいな生活を送っているのよ」
彼女の言葉を止める者はいない。俺も口を噤む。
「とっておきのことを教えてあげましょうか。昔から、この男に関わった人間は不幸になるの。だから、みんなも軽はずみな気持ちで接しない方がいいわ」
いよいよ勝ち誇った表情を浮かべる絵理子に対して、俺は「こいつバカだな」と思うだけであった。
「恭洋、やっぱりあなたは不要だったみたいよ。さようなら。もう関わらないでね」
部員達が無反応であることを都合良く捉えた絵理子が演説を終えた。
――ここが正念場である。
俺は一同の反応を待った。もしもこの部員達が俺の思うような性格の人間ならば、絵理子に対して声が上がるはずなのだ。
「ちょっと、いつまで指揮台にいるの? もうあなたの仕事は終わったわよ」
しかし、生徒達は相変わらず淀んだ瞳でぼうっとしている。
俺の見当違いか。それとも、もう全く心がないのか。
「……わかった。今日は急にすまなかっ――」
「あの」
俺の言葉を遮るように、一人の生徒が手を挙げた。
「ん? どうしたの?」
アルトサックスを持つ男子生徒だ。たしか副部長だったか。
「先生は、いつ指揮を振ってくれるんですか」
その発言で、室内は水を打ったように無音となった。
「いつまで個人練習とパート練習をしていればいいんですか」
「……ちゃんと考えているわよ」
「代わりに指揮を振ってくれる人がいるなら、頼めばいいんじゃないですか」
――俺は内心ほくそ笑んだ。その言葉が出るのを待っていたのだ。
「別に秋村さんの素性はどうでもいいです。今よりもまともに音楽ができるならそちらを選びます」
「え、ちょっと待って、何を言って」
「絵理子」
急に焦りだした彼女を制し、俺は反撃を開始する。
「いくら俺が最下層のクズでも、さっきお前が得意になって説明したことを隠し通すつもりなんて、もともと無いんだよ。むしろ説明の手間が省けて助かった」
俺の言葉に絵理子は目を見開いた。
「この子達は、当時の俺と同じなんだ。音楽さえできればそれでいいんだよ。お前、指揮が振れないからしばらく合奏練習してないんだろ」
「知ったような口利かないで! そもそも冬はアンサンブルコンテストがあるんだから合奏なんてしないでしょ!」
「……もう三月なんだが?」
ちなみにアンサンブルコンテストとは、だいたい三~八人のチームで演奏する重奏の大会だ。ほぼ各チーム単位での活動となるため絵理子の言う通り全体で合奏練習をする機会は減るが、県大会まで出場したとしても一月には終わる大会だ。
「というか、そもそもアンコン辞退してるじゃん……」
部員の一人から驚愕の事実が明かされる。
「なんだって?」
目眩がしてきた。
「絵理子、お前……」
いくらなんでも部が崩壊し過ぎだし、絵理子も職務を放棄していると見做されても仕方が無い。
「うるさいうるさい!」
誰がどう見ても教師とは思えない絵理子に、俺は掛ける言葉が見つからなかった。
薄暗い第二音楽室は、終着点が見えないまま混迷していくのだった。
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