第6話 猫のおっさん その6


 それからの毎日はさんざんやった。特にきついんは、昼の餌が完全になくなったことや。メイドの子らが話しとったん聞こえてんけど、顔射おじさんのご飯捨てちゃおうよ、って。


 俺がしたんは感謝であって、顔射なんかしてないのにひどすぎるやろ。


 まあ、でも当然の流れのようにも思える。俺は猫じゃなくて人間やし。でも日本語しゃべられへんしで、正樹にチクることもできひんからな。


 飯なくなったんは、正直やばい。めちゃくちゃやばい。でもいま一番考えてまうんは、あの姉ちゃんのことや。


 ただ癒したかっただけやのに、トラウマもんの地獄見せてもた。それだけが残念やで。でも俺はそう遠くないうちに、餓死するやろう。せやから許したってな。


 人生っちゅうのは、上手くいかへんもんやな。


 みんな幸せになろうとしとるのに、世の中のみんな不幸なんはなんでやろ。もしかして人間は、幸せになろうとしたらあかんのかなあ。


 俺はもう動く力もなくなってきてて、ぐったりしとった。そのときドアが開く音が聞こえてんけど、なんの反応もせんかった。


 入ってきたんは正樹やった。俺の様子を見て、すぐに異変に気付いたみたいやった。


「あれ、元気なさそうだね。あれ、元気ないよ、ねえ、あれ、あれ」


「にゃあ……」


 どしたんや正樹、いつものゆっくりとしたしゃべり方のが似合っとるぞ。


「ここでじっとしてるんだよっ」


 正樹は慌てて部屋から飛び出していきよった。どこ行くんや。最後にお前の顔、もっと見させてくれや。ほんまに俺の息子によう似とるねん。性格は絶対に違うやろうけど。


「にゃ、にゃさき……」


 そこで俺の意識は暗転してん。




 次に俺が目を覚ましたとき、もう病院に入るとこやった。正樹は優しい声で、ここは信頼できる病院だよって言うてくれた。今日は休みやのに、お願いして開けてもらったらしいわ。ありがたいことやで。


 ただまあ、動物病院やねんけどな。


 医者は準備するらしくて、俺はソファで正樹に膝枕してもらっとった。もうええねん。俺ここで死ぬんが、一番ええんやと思う。


「死なないで。まだ君のこと、名前で呼んでないんだ」


「にゃ……」


「新しい名前をつけるの、前の飼い主に悪いかなって思っててさ」


「にゃあ……」


「前の猫もここの先生に診てもらったんだよ。手遅れだったんだけどね」


「にぁ」


「元気になってね。君のためにお嫁さんを選んでいるとこだったんだ」


「にゃ?」


「たくさん子供を作って、みんなで仲良く暮らすんだ。きっと楽しいよ」


 おい、まじかいな。それやったら俺もこんなとこで死なへんで。衣食住だけじゃなくて、嫁まで面倒みてくれるとか。いや食は微妙やけど。まあそれはどうとでもなるやろ。


 それよりも子作りや。たくさんっていったい何人やねん。俺ももう年やからな、あんま無茶はできへんで? ついこないだ屋敷で大暴れしたとこやけどな、がはは。


「正木坊ちゃん、どうぞ」


 奥から医者の声が聞こえてきた。


「雑種の猫ちゃんも一緒にどうぞ」


 誰がじゃ、しばくぞ。


 俺は正樹に連れられて、診察室に入ったんや。


 中に入ったら、なんか思ってた感じじゃなかった。イスじゃなくて、銀色の台の上に乗せられてん。俺よう考えたら、動物病院って初めてやな。まさか初めての来院が、患者としてとはな。


 医者はすごい真面目そうな男やった。わざわざ動物の医者になるくらいやから、ほんまに動物好きなんやろな。じゃあわかるやろ、俺はどっからどう見ても人間や。


 医者は俺の目にライトを当てて、瞳孔チェックしてから口開いてん。さあ、正樹に人間やて言うてくれ。


「ずいぶんおっきな猫ですね……」


 あかん、こいつヤブ医者や……。


 そらそうか。クレイジーサイコ野郎の正樹が信頼する医者やで。まともな医者のわけないやんか。


 俺は残った力をすべて振り絞って、人間ってことをアピールすることにした。


 日本語がしゃべられへんくても、口の形を作ることはできるからな。


「に」「ん」「げ」「ん」


 ヤブ医者はばっちり、俺の口元を見てるようやった。よし、もっと続けるで。


 俺は何回も口の中で、にんげんって言い続けてん。そしたらヤブ医者の顔色がな、どんどん青くなっていくねん。これもう通じたやろ。


 そしたら、そのときな。俺は自分でも信じられん光景を見てん。


 ヤブ医者がな、目ぇ反らしてん……。


 それどういう意味? 俺の目ぇ真っすぐ見られへん理由ある? 絶対に俺が人間ってわかっとるやんか。っていうか最初っから気付いとったやろ。


 あ、あかん。このヤブ医者、思ってたより数段やばい。正木家の権力に影響されて、俺を猫のまま診察しようとしとる。ふざけんな、命かかっとんねんぞ。


「ちょっとブリーフ失礼しますねぇ」


 ヤブ医者がそう言うて、俺のブリーフに手ぇかけた。


 そんとき、正樹が口を開いた。


「あ、先生。この猫ちょっと珍しくて、尻尾が前についてるんですよ」


「うわあ、本当だ……」


 おい、そんな猫おるわけないやろ! ていうかその理屈やと、お前らも前に尻尾一本ずつついとるやろがい!


 そのあともヤブ医者は、診察っぽいことを色々しとった。なんか一生懸命っぽい感じがすごい出てるわ。


 もう俺もこいつが、真面目に仕事しとるように見えてきてるもん。お前そんな真面目な顔で、いまなに考えとん?


 こうなったもう、俺を猫として見るんはしゃあない。それよりいま一番大事なんは、なんで衰弱しとるかの原因を正樹に伝えてもらうことや。


 ヤブ医者は自分のあごに手を当てて、うんうん頷きよった。


「なるほど……」


「先生、わかったんですか。この猫、助かりますか?」


 正樹の心配そうな声に、医者は手のひらを天井に向けた。どうやらお話にならんってことらしいな。そりゃそうや、ただの栄養不足やからな。


「お手上げですね」


 え、そっち? 違うやん、餓死しかけてるだけやん。飯食わしたら全部解決やんけ。


「先生、なんとかならないんですか」


 なるなる、体のサイズにあった量の飯くれたらええだけやん。そんな簡単なことがなんでわからへんねん。


「もう本人に生きる意志がないみたいです」


「そんな……」


 あるある、生きる意志めっちゃある。だって正樹、嫁を見つけてくれるんやろ。それで子供たくさん作れって言うてたやん。俺ちょっと枯れてるけど、栄養ドリンクくれたら一日三回くらいはできるから!


 あかん、このままやったらほぼ医療事故みたいな感じで死んでまう。なんかええ方法ないんか。


 俺はこんなところで……ってよう考えたら、なんも心配いらんやん。


 だって投薬で患者を無理やり延命させるんが問題になっとるって、新聞で読んだことあるもん。


 ヤブ医者はお手上げ言うてるから、あとは延命措置で時間稼ぐくらいやろ。でもそれやったら、点滴くらいは打ってくれるやろな。それで十分や。点滴って要するにカロリーぶち込んでくれるってことやからな。


 それに俺が知らんだけで、他にも色んな手段があるはずや。いまの俺の体調やったら、なにされても回復するやろ。なあ? 俺は期待を目に込めて、ヤブ医者のほうを見てん。


 額に手ぇ当てとった……。


「残念ながら、安楽死しかないですね……」


 アホか、それが一番ないわ!


「うぅっ……」


 正樹は目を抑えとる。泣きたいんはこっちやねんけど?


「準備しますね」


 ヤブ医者はそう言うて、部屋から出ていきよった。


 その後ろ姿を見送ってから、正樹は俺のお腹に顔を埋めて大声で泣き始めてん。俺にはその頭をさすることしか、してやれんかった。


 おいおい、俺ほんまに死ぬん? こんなとこで? こんな頭のおかしな奴らの茶番で?

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