サバの幽霊
「ねぇ、太郎。私、これからちょっと用事があるんだ。だから今日は、ここで」
帰り道、突然石輪さんが言った。
いつもの商店街を歩きながら、ぼくは少し驚く。
「え? あ、そうなんだ。うん、わかった」
「ん? どうしたの? ひょっとして――心配?」
「心配? 何が?」
「今、ちょっと不安そうな顔したから」
「そぉ? いや、べつに。何て言うか、珍しいなって思っただけ」
「わかった! さてはアレだな? 私の浮気を疑ってるな?」
「いや、全然」
「はぁ? なんで?」
なぜかはわからないけど、石輪さんが急に口をとがらす。
「なんか、それって、ひどくない? 太郎は、私の浮気、疑ってないの?」
「えぇ……いや、疑ってないけど……」
「疑ってよ! 『お前、まさか他の男と会うんじゃないだろうな』とか言ってくれてもいいじゃん!」
「な、なんで……ぼくはただ、石輪さんには石輪さんの用事があるんだろうな、と……」
「太郎は、私のこと、どうだっていいの?」
「じゃあ、あの……まさか石輪さん、他の男と会うんじゃないだろうね?」
「ううん。一人で買い物に行きたいだけ」
「そ、そうですか。じゃあ、あの、お気をつけて」
「あ、そうだ、太郎」
石輪さんが立ち止まり、商店街のベンチに例のスチームパンク・ランドセルを置く。
中から、いつものゴーグルを取り出した。
一体どういう仕組みなのかはわからないけど、何と言うか、これをかけたらフツーの人じゃ見えないものも見えるようになる。
「これ、調節済み。太郎にあげる」
「ぼくに?」
「もう、これ、太郎専用だから。他の人には絶対貸さないでね」
「貸したら、どうなるの?」
「もぉ、ものすンごいことになるよ。だから気をつけて」
「わ、わかった……」
石輪さんが真顔で言うので、ぼくは少しビビる。
なんか、とんでもない物を貰っちゃったなぁ……。
でも、まぁ、他の誰にも貸さなきゃいいんだから、問題ないか。
ぼくの彼女・石輪亜季さんは、金星人だ。
地球には、ちょっとした調査で来ている。
そんな彼女の彼氏であるぼくは、これまで色々と不思議な体験をしてきた。
そのたびに、このゴーグルはぼくの役に立ってくれた。
「じゃあね」と手をあげ、石輪さんがぼくの前から去っていく。
それを見送りながら、ぼくは「さて……」とつぶやいた。
ひさしぶりに――自由な帰り道だ。
自由って言うと、また彼女に怒られそうだけど……。
〇
とは言ってみたものの――とくに、やることはなかった。
そういえば、この春から、ぼくたちはいつの間にか6年生になっている。
教室が変わっただけで、クラス替えもないので、まったく実感がなかった。
来年から、ぼくたちもいよいよ中学生だ。
つまりこれからの一年は、ぼくたち最後の小学生ということになる。
そんなことを考えながら、ぼくはいつもの道を歩いていく。
そして、ふと、思った。
「そういえば、こっちの道、最近通ってないな……」
いつもは左に曲がる角を、今日は右に曲がる。
自分が住んでる町なのに、見知らぬ光景がぼくの目の前に広がった。
見る角度が違うだけで、町はなんだか他人行儀になっていく。
ここはたぶん、小さい頃、何度も通ったことがある道だ。
だけどいつの間にか通らなくなり、記憶の片隅からその存在が失われてしまった。
だけどなんとなく、覚えている物もある。
いつもウチが配達を頼んでいたお米屋さん。
通りかかるたびにビール瓶の良い音が鳴っていた酒屋さん。
近所のおばさんたちがよく立ち話をしていた商店。
自動販売機は残っているけれど、もう電気が通っていないタバコ屋さん。
当時の記憶が、少しずつよみがえってくる。
そうだ。
ぼくが小さい頃、このあたりはまだ人通りが多かった。
その中で、ぼくが一番好きだったのは――
その場に立ち止まり、ぼくはランドセルからさっきのゴーグルを取り出す。
石輪さんがいない場所で、これをかけるのは初めてだった。
ぼくは、まっすぐに自分の目の前の建物を見てみる。
当時、ぼくが一番好きだった魚屋さん。
そして「え……」と息を止めた。
このゴーグルで、ぼくは今まで色んなものを見てきた。
でもこれが、一番ビックリだ。
魚屋さんの前を……一匹の魚がユラユラと泳いでいた。
たぶん、これ……サバだ……。
〇
「サバが……泳いでる……」
ぼくがぼう然とつぶやくと、サバが明らかにこちらを向いた。
き、気づかれた?
どうしたらいいのかわからないぼくに、そのサバがクネクネと近づいてくる。
「おぉ。誰かと思えば、原田太郎くんじゃないか」
「しゃ、喋った!」
「そりゃあ喋るだろう。きみは私のことを、一体何だと思ってるんだい?」
「サ、サバです……」
「そう。私はサバだ。まぁ、ここにかけたまえ。ひさしぶりだ。少し話をしようじゃないか」
サバに言われた通り、ぼくはすぐそばの石段に腰をかける。
そういえば……ぼくは昔、お母さんが魚屋で買い物をしてる間、よくここに座っていた。
「大きくなったね、太郎くん」
「サ、サバさんは、ぼくのことを知ってるんですか?」
「そりゃあ知ってるよ。私はこのあたりにずっと住んでいるからね」
「ど、どのくらいお住みに?」
「どのくらいだろう……ザクッと百年くらいかな?」
「ひゃ、百年!」
「そんなに驚くことかな? 幽霊は長く長く存在できるものだよ」
「幽霊、なんですね……」
「幽霊とも言える、しかし人間とも言える」
「に、人間なんですか?」
「うむ。これをきみにどう説明すればいいのかわからないが……人間だったこともある、と言った方がわかりやすいだろうか?」
ぼくの隣にユラユラと浮かびながら、サバが遠くを見つめた。
無表情なのでよくわからないが、なんだかうれしそうな感じだ。
「太郎くんは、魚、好きかい?」
「いや、その、すいません……たまに、食べてます……」
「そうか。いや、それはべつにいいんだ。決して痛みがないわけではないが、魚は人間ほど敏感ではない。一瞬で終わる」
「は、はぁ……」
「きみは魚が人間に食べられたら、どうなると思う?」
「どう、なるんですか?」
「人間になるんだよ」
「人間に……」
「そう。調理され、人間に食べられる。すると次の瞬間から、我々はきみたちに同化するんだ。つまりきみたちの体となる」
「ぼくたちの、体になる……それは、つまり、栄養的な?」
「まぁ、肉体に関してはそうだろうね。だけど私が言ってるのは、魂の話だ」
「魂……」
「魚は人間に食べられたら、魂が人間と同化する。人間になって、肺で呼吸し、この世界を自由に動き回れるようになる」
「それは、その……憑依するってことですか?」
「まぁ、簡単に言えば、そんな感じだ」
ぼくは隣のサバさんを見つめ、ふと思う。
魚は人間に食べられたら、魂が人間と同化する。
だとすれば――この方は、今現在、どんな状態なのだろう?
ぼくの視線に気づき、サバさんが続けた。
「あぁ。私は、サバはサバでも守護霊だ。ずっとここを守ってきた」
「ここを……」
ぼくは、目の前にたたずむ小さな建物を見つめた。
完全にシャッターが閉じられた店舗。
すでに役目を終え、何の用事もなく、ただそこに存在しているだけの物体。
「つまりサバさんは……この魚屋さんの守り神だったってわけですか?」
「あぁ。私は百年くらい、この魚屋を守ってきた。次々に運ばれてくる魚たちに、事情を説明し、納得してもらう。そういった係だ」
「そういった係が……」
「まぁ、今の私は、ヒマを持て余しているがね。ご覧の通り、この魚屋はとっくに閉店した。あれ以来、ぼくはずっとこのあたりを漂っている」
「なんで、閉店されたんでしょう?」
「時代だね。キャピタリズムだ。新しくできたスーパーが、すべてのお客を持っていった」
「……」
「淘汰だ。まぁ、仕方がない」
「ぼくは、この魚屋さん、好きでしたけど……」
「そういう人も、たまにいる。だけどこの世界は、センチメンタリズムだけで構成されてるわけじゃない。時にはツラい現実が押し寄せてくるものだ」
「なんか、少しずつですが……そういう難しいこともわかってきたような気がします」
「それはたぶん、あの金星人のおかげかな?」
「え?」
「いるんだろう、石輪亜季? 出ておいでよ」
サバさんが言うと、魚屋の向こうから、一人の女の子が姿を現わす。
いつもの、いわゆる地雷系? 病み闇系なファッション。
いたずらな顔で舌を出しているのは、ぼくの彼女・石輪さんだった。
〇
「可愛い子には旅をさせろ。そんな地球の言葉に、私、感銘を受けました」
石輪さんが、そう言ってぼくの隣に座る。
戸惑いながら、ぼくは彼女に言った。
「あの、石輪さん、買い物は?」
「ん? あぁ、あれ? ウソ」
「ウソ……」
「太郎の人生の足跡を、私、たまに追ってるんだ。そしてあなたが小さい頃よく来てたこのお店にたどり着き、このサバに出会った」
「ぼくの人生の足跡って……」
「このサバ、あなたに会いたがってたんだよ。だから今日は、二人だけで話をさせてあげようと思って」
「そ、そう……」
「ありがとう、石輪亜季。きみの心遣いに感謝するよ」
サバさんが体をくねらせ、石輪さんの前に進んでいく。
ほほ笑みを浮かべ、彼女がサバさんに返す。
「で、どうだった、サバ? 決心はついた?」
「あぁ。これでもう思い残すことはない」
石輪さんとサバさんのやり取りに、ぼくは首をかしげる。
「決心って、何の決心?」
ぼくの問いに、サバさんが答える。
「私はね、この先のスーパーに引っ越すんだ」
「引っ越す? え?」
「心配することはない。スーパーのテナントに入ってるのは、この魚屋の息子だ。建物が変わるだけだよ」
「そ、そうなんですか……」
「だけど……私はこの建物が気に入っていたんだ。だからずっと、ここに留まっていた」
「……」
「ここには本当に色んな思い出がある。その中の一つが、きみだ。原田太郎くん。きみはいつも、ぼくの仲間たちをやさしい目で見てくれていたね。私はそれを、ずっと忘れられなかった」
「ぼく、どんな感じだったんでしょう……」
「きみは今も、当時とまったく変わらないね。だから私とも会話ができるし、金星人もきみを愛す」
そう言って、サバさんがぼくにほほ笑んだような気がした。
無表情だから、それはやっぱりよくわからないけれど。
「それじゃあ、石輪亜季。太郎くんを頼んだよ」
「うん。もちろんだよ。サバも、元気でやってね。魚は今後、あのスーパーで買うことにする」
「よろしく頼むよ。太郎くんと石輪亜季が来るなら、サイコーにフレッシュになるよう、魚たちを説得しとく」
「お願い」
「じゃあね、太郎くん。きみと話せてうれしかった。さようなら」
「は、はい。あの、サバさんもお元気で。さようなら。また、スーパーで」
「きみも、いつまでもその心を失わないように」
そう残すと、サバさんは向きを変え、ユラユラと宙を泳いでいった。
ぼくと石輪さんは、そんなサバさんの後ろ姿を見送る。
あたりはもう薄暗くなりはじめていた。
〇
「サバって、話せるんだね……」
魚屋の石段に座ったまま、ぼくは石輪さんに言った。
石輪さんが、ぼくの肩に頭を乗せてくる。
「この星に住む者は、いつだって誰だって話せるんだ。地球人が気づかないだけ」
「そっか……」
「あのサバは太郎のことをずっと気にしてたんだよ」
「なんでだろうね。ぼく、何をしたんだろ?」
「太郎はモテるなぁ」
「モテる?」
「うん。金星人にも、サバにもモテる」
「それって、どうなんだろ……」
「ちょっと! サバはともかく、金星人にモテるのは良いことでしょう? 何? 太郎は私に何か不満でもあるの?」
「いえ、ないですけど……」
「ねぇ、太郎。明日、ウチに泊りに来てよ。二人で、サバ焼いて食べよ」
「うん。そうだね。あのサバさんのテナントに買いに行こっか」
ぼくと石輪さんは、薄暗くなった道を歩きはじめる。
ぼくの彼女は金星人だ。
めちゃくちゃ可愛いし、性格だって良い。
だけどぼくは――唯一、彼女に不満がある。
どうしてぼくは、突然この道を通ろうと思ったんだろう?
これはたぶん、石輪さんが金星人パワーでぼくを誘導したに違いない。
「あれぇ、太郎くん、どうしちゃったのぉ?」
石輪さんが、ぼくの気持ちに気づいたように、こちらを覗き込んでくる。
ぼくはそれに「いや、べつに」とフツーに返した。
ぼくの彼女は、可愛いから、もうこれでいい。
サバさんだって、引っ越し先があったのだから、もうこれでいい。
ぼくたちは、現在と過去を抱え、未来に向かって進んでいく。
魂だけはずっと変わらず、この世界の海を泳ぎ続けていくのだ。
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