タムリン・パルストラは、雨が嫌いだ。

@HTGT5K

第1話

 ぴたんぴたん……という音に、目を覚ました。正確には、意識は覚醒した。なぜ正確には、と断らざるを得なかったかというと、目が開かないのだ。左目はうずくもののなんとか、開きそうだ。右目はダメだ。ずきずきして腫れているのか、熱くてしびれている。力を入れると痛みを覚え、全く開かない。


 ぴたんぴたん……どこからか水漏れしているのか、それともこれは、雨音なんだろうか?

 眉間に皺がより、つれたような痛みに、顔を顰める。……雨は、嫌いだ。


 こんな目に遭ったのも、昨日の雨のせいかもしれない。

 雨具の用意もなく、職場である宿場から早く帰りたくて急いでいたのが良くなかった。じっちゃんの教えにうっかり背き、背後をあまり気にせずに森を抜けようとした。近所だからと気が抜けていたのかもしれない。森の木陰でちい、となく小さな声がして、捨てられていたのかはぐれていたのか、生まれたばかりの子猫を見つけた。寒さで震えている猫を持っていた布で包み、職場で牛乳でも探すかとりあえず家に連れて帰るかと考えていたときにおい、と暗がりから声をかけられ、気がついたら十人以上の男たちに囲まれていたのだ。


 めちゃくちゃに暴れて、ほぼ全員を戦闘不能にした自信はある。武器さえあればもう少し上手く戦えたのだが。なんていったらじっちゃんに叱られる。ただ、全員をしっかり仕留めたかを確認せずに戦闘を止めたのは自分のミスだ。もう少しで逃げられるか、と、いったん近場の木陰に隠れたことは覚えている。そこで首の後ろにガツンと殴られたような感覚があり……そこで記憶は、途切れた。あの子猫、大丈夫だろうか。布で包んでとっさに木陰に隠したから、雨に濡れてはいないだろうが……


 ……四肢の先の感覚が、ない。


 開く方の左目をなんとかこじ開けてみると、暗い部屋だった。椅子に手首と足首、それから首も固定され、座らされている。体中がびりびりと痛いし、しんしんと冷たさが体の芯までしみてくる。痛みと寒さ、そして重さで、体にがちがち、震えが来た。真正面には鋼鉄のドアがあり、小さな窓がついている。部屋にはほかには何も見当たらない。


 寒さと痛みで、頭がぼうっとしてくる。精神がじわじわと追い詰められる感覚に、もう落ち着きがなくなりそうだ。少しでも正気を保とうと、数を数えはじめた。


 いち、に、さん…… 指に少し力を入れながら数を数え、ずいぶんと落ち着いた。そのままゆったりと、追憶にひたることにした。なるべくきらきらしい、素敵なものがいい。そう思ったのにこの水音で、嫌でも雨のことを考えてしまう。昨日も嫌な雨を避けようと近道をして、この有様だ。


 雨はとにかく嫌だった。タムリン・パルストラの人生の悪いことはいつだって、雨とともにやって来た。


 別に、親をことさら悪く言う趣味はない。ただそれが、常に酔っていてたまにしか顔を見せない、自分と、あまつさえ母親に対しても暴力をふるうだけの存在だったら、どうだろうか?もちろんいつも雨だったとは思わない。ただ思い出そうとするといつも、自分を抱きしめて泣いている、母の顔が脳裏に浮かぶのだった。


 騎士の身分のくせに素行が悪く父は大概酔っていて、言葉はいつも散らかっていた。切れ切れの言葉から察するに母は誰かの愛人であり、妊娠とともに父親に押し付けられたらしい。つまりは父は、義理の父だった。義父は本当の父には頭が上がらないようで、その苛立ちが自分に、向いたのかもしれない。


 ぽたぽた……と母のエメラルドグリーンの瞳からこぼれる涙が顔に落ち、そして父親に殴られたり蹴られたりしてぼろぼろのタムリンの体を拭いたり、さすったりしてくれたものだった。ごめんね、といったのか、悪かったとかいったんだろうか。一度ひどく激昂した義父に窓から突き飛ばされて路上に転がり落ち、ガラスや瓦礫で血まみれになったことがあり、心配した近所の人が病院に連れて行ってくれた。その時の傷は長く胸に醜いケロイドとしてのこり、見るたびにまた母は泣くのだった。それがいやでいつも、胸のボタンをきっちりと、首までとめる習慣ができた。


 殴りながらも義父はタムリンの体を離そうとはせず(最後は突き飛ばされるのだが)顔を両手で挟んで、俺の顔をみろ、と喚き散らすのが常だった。叫び声と殴られた痛みで耳がいつも、じわっとしていた。屋根や壁にあたる雨音がいつも耳に残っていて、じん、としびれた。とにかくタムリンにとって雨は、そのようなものだった。  

 その義父のところに急に老人がやってきて、タムリンを引き取ると言い出した。どんなやりとりが義父と老人の間にあったのかはわからない。老人にしては立派な体躯に、義父が恐れをなしたこともあったのかもしれない。老人、じっちゃんは多くを語らずにタムリンを連れ出し、母親と引き離されて遠くの田舎の町に連れて来られた。その日ももちろん雨で、やはり母は泣いていた。あれはひどい、雨だった。


 母は美しく優しくて、弱くて儚い人だった。絶対に迎えに行くからね、といったそばから、まるで花がしおれるように、ことり、と亡くなったと聞かされた。荼毘に付されるまでそれを教わらずに、それを知った時にたぶんタムリンは、一生分泣いた。涙だまりに血豆ができるのをはじめて知った。


 それからは義父を殺してやりたくて必死だった。タムリンを引き取ったじっちゃんは傭兵上がりで、タムリンに色々なことを教えてくれた。料理から洗濯から、戦う術や武器の扱い、実はタムリンは偉い人の愛人の子供であることも、すべて。

 義父は愛人である母とタムリンを押し付けられたということなんだろう。とはいえ義父への憎しみが消えることはなかった。引き取ってくれなくてもよかったのに。母と自分を捨てた顔の見えない父よりも、実際に母と自分に暴力だけを与え続けた義父のほうがよっぽど、憎かった。暮らしぶりは悪くなく、あれだけ父は酒浸りになれたのだ。実父は、相当の金を払ったに違いない。

 タムリンはいつも、夢想していた。いつか義父のところにゆき、驚愕の表情を浮かべてこちらを見て命乞いをしてくる男に一言、天国には行けないだろうが念のために、あの世では母に近づくなと言ってやるのだ。そうできれば本望だ。

 だのに義父はあっけなく、亡くなった。酒場でのいざこざとか闘いの中殺されるとかそんな普通の死に方ですらなく、なんと転んで亡くなったのである。転んで頭を打ち、次の日眠るようにベッドの上で死んでいたそうだ。ふざけるな、と思った。最低の仕打ちをしてそのくせ、殺すチャンスまで与えずに、のんきにベッドの中でぬくぬくと死んだだって?


 もちろんその日も雨だった。風の噂では、庭で濡れた石畳に足をとられたとも聞いた。最悪の雨は母を泣かせ、自分の復讐まで台無しにした。


  ……雨は、嫌いだ。

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