23.美雨の回想(後編)
「その日はとてもいい天気でね、散歩するには絶好の一日になりそうとか話しながら、私と冬真は朝食をとっていたの」
過ぎ去った日々を懐かしむような美雨の瞳が、なにもない空間に向けられている。緋色は沈黙を保ったままで、赤色のロングヘアをした美貌の先輩を見やった。
「でも、まあ、私も冬真も散歩ってがらじゃなかったし、そうだねそれもいいねとか軽いやりとりをしてたんだけど」
そして美雨は再び記憶を遡る。名残のかけらをかき集め、弟と過ごした最後の時間へと。
***
「……美雨姉ちゃんは今日もバイト?」
麦茶の入ったコップを片手に問いかける弟に、姉は肩をすくめて応じる。
「新型プリンティングシステムの開発も大詰めだもの。せっかくの日曜だっていうのに嫌になるわ」
「『
「一般には出回らない代物だから難しいわね……っていうか、あんた、この話、誰にも話してないわよね?」
「オレだって機密情報を漏らしちゃいけないってことぐらいはわかってるよ」
「だったらいいけど。はあ、それにしたって、学生のうちからこんなに働かされるなんて。20代に入ったら過労死するんじゃないかしら」
「……姉ちゃんの、その性格なら大丈夫だろ」
「なんか言った?」
「べっつにぃ……」
下手な口笛でごまかす冬真に、美雨の気持ちも和む。いじめに遭っていたころとは比較にならないほど、弟は明るくなった。姉として、ただただ、それが嬉しいのだ。
「で? あんたは今日もトレーニング?」
話題を転じるように美雨が尋ねる。破顔して冬真は頷くのだった。
「モチロン! プロゲーマーになるためには、一分一秒も惜しんでられないってね!」
「仮想空間にフルダイブするのもいいけど、勉強もちゃんとしなさいよ」
「姉ちゃん、最近、小言が母さんみたいになってきたな? おばさん化が進んでるんじゃね?」
「……へぇ、この美人の姉に、そう言う口を叩くのね? あんたが気になっているって言う、ゲーム仲間の女の子にいろいろ教えてあげてもいいんだけど?」
「べ、別に気になってなんかねえし!」
「じゃあ、私がなにを言っても問題ないわね」
「ゴメンナサイ」
「わかればよろしい」
軽口をたたき合う美雨と冬真を、母親が柔和な笑顔で見守っている。平和な時間だった。
「じゃ、オレ、そろそろ部屋に戻るわ! フルダイブのトレーニングしないと」
「せいぜい励みなさい? 頑張ればあの子も振り向いてくれるかもしれないし」
「余計なお世話だよ! とにかく、姉ちゃんも仕事頑張ってな!」
片手を上げて去って行く弟を見送りながら、美雨は冷めてしまったコーヒーを口に付ける。
これが最後の会話になるとは知らずに。
***
意識を遠き日の海底から現実の岸まで引き戻した美雨は、上着のポケットからタバコの箱を取り出した。意図的に喫煙をしようと思ったわけではなく、無意識の行動だったようで、中身を取り出さず、ただただ箱を握りしめている。
「……急報を知らされたのは、それから四時間後。最初は冬真が倒れたって、ただそれだけでね、なにが起きたかまではわからなかった」
新型プリンティングシステム『KoHD』の最終調整を行っていた美雨は、慌てて研究所を抜け出すと、母親に連絡を取ろうと試みた。
しかしながら、電話に出た母親はすっかりと狼狽し、要領をつかみ得ない。嗚咽混じりに呟く単語の一つ一つをすくい上げ、ようやく搬送されたという病院名を突き止めると、美雨は脇目も振らずに駆けつけたのだった。
――どうか、どうか、冬真が無事でいますように。
ただそれだけを願って辿り着いた病院で彼女を待っていたのは、ベッドに横たわる冬真の眠っているかのような遺体だった。
白い、あまりにも白すぎる顔に、なにが起きているかわからず美雨は立ちすくむ。視界がゆがみ、頭の中が真っ白になる。脳内に繰り返し再生されるのは、「どうして?」という言葉だけだった。
「……失礼、美雨さんでいらっしゃいますね。冬真さんのお姉さんの」
いたわりの微粒子を混ぜながらも事務的な口調に振り返る。そこにはスーツに身を包んだ壮年の男性が立っていて、美雨はその時初めて、見慣れない人々が病室だけではなく廊下にもいることに気がついた。
美雨に声を掛けた男性は、スーツの内ポケットから手帳を取り出して中身を開き、みずからを刑事だと名乗るのだった。テレビドラマの中でしか見たことのない所作に非現実さを覚えていた最中、刑事と名乗った男性は型どおりの言葉を口にする。
「このたびはご愁傷様です。心中、お察しいたします」
「……その、どうして警察のかたが?」
それは美雨にとって当然すぎる疑問だった。話を聞こうにも、母親は廊下で泣き叫び、看護師たちになだめられていて、声を掛けられない。
せめて事情を知りたいと願うのは当然である。刑事の男はやや声を潜め、廊下には聞こえないような声で応じるのだった。
「幻蝕、という存在をご存じですね?」
もちろん、と、美雨は首を縦に振った。彼女が開発に携わっている新型プリンティングシステム『KoHD』は、新たに編成される組織に納品されることが決まっているのだ。
機密情報のため、ごくごく一部の関係者しか知り得ないが、断片的な情報であれば美雨自身も知っている。それは、幻蝕を殲滅することを目的とした特務機関らしい。
だが、それと弟がどう関係するのか? わずかに眉をひそめた美雨は、数拍の間を置き、驚愕の眼差しを刑事に向けた。
「まさか、冬真は……」
「お察しの通り、幻蝕の被害に遭われました」
***
数名の刑事と医師に伴われた美雨は、病院内の会議室に通されると薄暗い室内に映し出されたスクリーンへ視線を向けた。
「詳しく調べてみませんと、正しい診断はできないのですが……」
明言を避けた上で、医師は冬真のカルテをスクリーンに映した。死因、急性心不全。映し出された内容を説明しながら、医師は仮想空間において人間が幻蝕に襲われた際のおもだった症状について付け加えた。
「幻蝕という存在が人間にどういった影響を及ぼすのか、実はあまりわかっていません。症例も少ないですので。しかしながら、今回の弟さんの症例以外にも、脳死や精神の錯乱、臓器の破損や出血など、そのほとんどが芳しくないものでして」
つまるところ、冬真の死は避けられなかったと言いたいのだろう。美雨はそう断定し、遮るように刑事へ尋ねた。
「
「はい、重要資料ですので」
「それを見せていただけませんか?」
刑事は鼻白み、美雨の顔を見返した。ログを見せるというのは、すなわち、事件現場を再生するということで、弟が被害に遭った瞬間を見たいということでもあるからだ。
「さすがにそれは……」
いくら身内に起きた出来事とはいえ、凄惨な事件現場を見せることはできかねる。そう言いかけた刑事に、別の刑事がささやきかけた。
「……被害者の父親は『IQE社』の社長だそうです」
「新設される特務機関と関わりがあるのか?」
「はい、姉は新型プリンティングシステムの開発に携わっているそうで……」
刑事たちがなにを話しているのか、美雨にはわからない。だがしかし、数秒後、居住まいを正して向き直る刑事の口から発せられたのは、彼女の希望に添った言葉だったのだ。
「――わかりました。正式に閲覧するための手続きを踏んでいただければ、ご要望にお応えします」
それから刑事たちは、わずかな間に数十枚の書類を用意し、テーブルの上に積み上げた。ログを閲覧するための同意書や機密情報を漏洩しないという念書がほとんどで、たいていの場合、弁護士が立ち会ってこれらの署名を行うそうだ。
「被害に遭われたご家族のかたに、こんなことをさせるのは心苦しい限りなのだけれど。これらの書類はどうしても必要でね……」
署名に立ち会ってくれたのは別の女刑事で、先ほどまで憔悴しきった母親に寄り添ってくれていた姿を思い返した美雨は、この女刑事に感謝を覚えながらも、殴り書くように次々と署名をしていった。
本来であれば、書類の内容について注意深く目を通す必要があるのだろう。だかしかし、いまはとにかく、弟がどんな最後を迎えたのか、それだけが知りたい。その一心のみが彼女のペンを握る手を動かしたのだ。
数分後、美雨がすべての書類を片付けたのを見届けた女刑事は、不備がないかを確認し、ふうと軽く息を吐いてから、まっすぐに美雨を見つめた。
「美雨さん。こんなことを言うのはお節介とは思うけれど、事件現場の記録というのはけっして気分のいいものではないの。見ないで済むなら、それにこしたことはないと思うのだけれど」
「いえ、大丈夫です」
慈愛を込めた女刑事の声に、迫力の欠けた、だが決意を込めた美雨の声が重なる。
「見ます。記録を見せてください」
間もなく運び込まれたノートパソコンは事件現場を再生した。
仮想区間の中央には冬真が映し出され、純粋にゲームを楽しんでいる。食い入るように美雨が画面を見つめていると、突如として映像にノイズが走った。
次の瞬間、仮想空間にひずみが発生し、その中心部から幻蝕が現れる。なにが起きたか理解できないといった面持ちの冬真は、だがしかし、瞬時に我を取り戻したようで、懸命に後退を開始させた。
(お願いだから、逃げて。どうか間に合って……!)
現実は変えられないとわかっているにもかかわらず、美雨は願わずにいられない。どうか無事に待避(ログアウト)できますように――。
だがしかし、当然ながらその願いは叶わない。
出現した幻蝕が、その姿を禍々しいものへと変貌させたかと思いきや、巨大な口を開き、剣山を思わせる歯をむき出しにしたのだ。
それはあまりにも凶暴で、人間があらがうには無力すぎた。絶望のしみが胸の中に広がっていくのを実感しながら、それでも美雨は画面から目を離そうとしない。
やがて、画面は拡大され冬真の顔を捉える。その瞳と、わずかに動いた口元を美雨は生涯忘れなかった。
「美雨姉ちゃん、ごめん」
程なくして、冬真の上半身を幻蝕が食いちぎった。たんなるデータの羅列として残された下半身が仮想空間に残され、そして音もなく消え去っていく。
葛城冬真が短いその生涯を終えたのはこの時であり、葛城美雨が自身の生涯をかけた復讐を決意したのも、まさにこの時だった。
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