生きるに値しない命
猿田夕記子
第1話 黒い影
――おまえなんか生まれてこなきゃよかった。
ぼくの父さんはいつもそんなふうにいっている。ひどいよね。父さんいわく「戦争で景気がよくなったのに、ずっと商売が落ち目だ。これもみんなユダヤ人とおまえのせいだ」らしい。
そんなこといわれたってねえ。父さんとこのじゅうたんのデザインがぱっとしないからじゃないの。ぼくのせいじゃないよ。
そしてぼくは顔を洗う。鏡のなかのぼくは、赤毛のちりちり頭で、そばかすだらけだ。おまけに瞳も茶色い。ブロンドの兄さんや姉さんとはぜんぜんちがう。あーあ、ぼくも金髪だったらなあ。そしたら、ナチス親衛隊に入れたかもしれないのに。
「ハンス、今日は教会に行く日よ」
「母さん、おはよう」
ぼくらは朝食――いつもの通り、憂鬱な朝食だ。父さんがぶつぶついって、みんなに当たり散らしている――を食べ終えて、日曜のミサにいった。
教会なんて、すっごい退屈。でもきちんとお祈りしよう。ああ神様、今すぐ父さんがやさしくおおらかになって、母さんをぶたなくてすみますように!
その時ふと、ぼくはある方向を見た。近所のドロテアおばさんだ。いつも通りふっくらした体で、いっしょうけんめいにお祈りしている。でも、なんだかへんだな。おばさんの背中に、黒いぼんやりとした影のようなものが見える。なんだろう、あれ。
お祈りが終わったあと、ぼくは母さんにいってみた。
「ねえ、ドロテアおばさんを見て」
「どうしたの?」
「なにかへんな、黒い影がついてるよ」
「何をいってるの。おばさんに変なこといっちゃだめよ」
ぼくの目には、おばさんに黒い影がおおいかぶさって、包み込まれていくように見えた。なにあれ。
その二日後。おばさんは自殺した。
なぜ、そんなふうになったのか、誰もわからなかった。旦那さんは子どもをかかえて途方にくれて、どうしたらいいかわからない、っていうふうだった。うちでも、みんなその話を口にしていた。だけど、ぼくはただひとり口をつぐんでいた。あの黒い影。まさか……。
それから、ぼくは次々と黒い影を見るようになった。
近所のおばあさん。父さんの仕事先の人。通りすがりの人。
影のあらわれ方はさまざまだった。ジャムのようにべったりとはりついていたり、ただ顔だけが真っ黒になって見えなくなったりしていた。でもその後すぐ、数日か数秒後かはわからないけど、その人は死ぬ。
道で、急にばったりと倒れた男の人を遠巻きにしてみながら、ぼくは理解した。
あれは死の影なんだ。
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