03 不合理な少女

 レオシュは、そっと境界に触れてみた。この人工的な肌触りが、いつも彼の気持ちを静めてくれるのだ。

 だが、この日には、いつもの習慣とは別の意味があった。

 境界の外に、あの少女が見えないかと、懸命に視線を動かしてみる。しかし外は本物の木々がいっぱいで、レオシュの視線は、そう遠くまでは届かない。

 風は強くなさそうなのに、少し先の枝だけが大きく揺れるのが見えた。

 彼女だ。

 迷いのない足取りで、彼の方へ近寄ってくる。

「こんにちは」

 レオシュは思わずそう言ってから、声が届かないことに気づいた。

 彼が挨拶をしたことが通じたらしく、少女の唇も、こんにちは、と動いたように見えた。

「境界の外にいて平気なの?」

 聞こえないと分かっていても、レオシュは、気になったことを質問せずにはいられなかった。

 少女はただ首を傾げるだけ。

 ほかにも聞きたいことがたくさんあるのに、目の前にいる人と意思疎通ができないことが何とももどかしい。

 彼は、POCOを使うことを思いついた。画面をコミュニケーション・モードにして、自分にも相手にも見えるようにすると、

【こんにちは】と音声入力してみた。

 少女は、また、こんにちは、と口を動かした後、微かに笑った。

【キミは誰?】

 少女は、微笑むのをやめて少し困った顔をした。こちらの言葉は伝えられても、相手の言葉は受け取れない。

【境界の外にいても平気なの?】

 少女は、短い褐色の髪が揺れるほど、しっかりと頷いた。

【どうして平気なの?】というレオシュの問いには、またも困った表情。

 相手は、もちろんイエスかノーでしか答えられない。

【このドームの人?】

 力強く首を横に振る少女。

【外で暮らしているの?】

 この質問にもノー。

「じゃあ、どこから来たんだろう」とレオシュは呟いた。

【一人でここまで来たの?】

 この質問にはイエス。

 少女は何者なのか。何のためにここにいるのか。そもそも、どこから来たのか。どうやって来たのか。レオシュの頭には、疑問が次から次へと浮かんだ。

【何か、書くもの持ってない?】

 少女は、すまなそうに静かに首を振った。そして、何かに気づいたように、慌てだした。身振り手振りで、何かを伝えようとしている。どうやら、もう帰らなくてはいけない時間だと言いたいらしい。その口からは、微かに白い靄のようなものが漏れていた。

 立ち去ろうとする少女を、こちらも大きな身振りで引き留めて、

【明日も、ここに来てくれる?】と書いてみたが、それには答えず、彼女はレオシュに背中を向けた。



 四つ前の世紀、この惑星では、急激に人口が減った。

 出生率は適切だった。全世界規模の戦争が起こったのでもない。

 ただ、病死する人間が徐々に増えていったのだ。病名はさまざまだったし、男女ともほぼ同じ数、年齢層にも特段の偏りはなかった。

 気づくと、人間以外にも同様の傾向が確認された。

 哺乳類だけではない。両生類、爬虫類、鳥類、そして魚類。それら脊椎動物には、調査の必要もないほど、すぐに個体数の現象という恐ろしい現象が判明した。

 調べれば調べるほど、この怪異な流行は、あらゆる生物に及んでいるように見えた。昆虫や軟体動物も例外ではなかったのだ。

 大気汚染か。あるいは水質汚濁か。

 自然環境に対してやましい気持ちのある人間たちは、まず自らの行いに原因を求めた。しかし証拠はまったく出てこなかった。

 死因も対象も多種多様で、しかも広範だったので、にわかに協力体制を構築した多くの国々も、それまでの縄張り主義を捨てて情報交換を始めた研究者たちも、肝心の解を得ることはできなかった。原因物質を突き止めることができないばかりか、発病の条件さえ定かではなかった。

 深刻なのは、死者がいても、その死因がこの一連の問題と関わりがあるのか、それとも無関係なのかさえ、見当がつかないことだった。直接の死因は、新しさを感じさせない一般的な病名だったからだ。

 死者をすべて解剖せよ、とする世論もあったが、数を考えると、現実的には不可能だった。何より、解剖してどんなに精細に死因を特定したとしても、普通の病名しか見つけられず、それは、問題の解決に何ら寄与しないだろうと考えられた。

 たまたま解剖した死者は単なる病死で、解剖しなかった死者の中に、調べるべき病気なりウィルスなりが存在するのではないか、との声もあった。しかし、世界規模の協力体制と情報交換により、症状、既往症、性別や年齢、住環境、ライフスタイルまで、なるべく異なる属性の患者を対象に解剖し研究していたので、〝たまたま〟の可能性はゼロであると言えた。

 研究者たちに等しく諦めの表情が浮かんできた頃、少しずつ、何も起きていないのではないか、という意見が聞こえてきた。

 ただ、何となく個体数が減っているではないか、というのだ。

 これには、専門家が反論した。あらゆる分野の専門家が説得力のある反証を行った。医学的にも、統計学的にも、何も起きていない、などと考えるのは不自然だった。

 世界中は、それを受け入れ、より途方に暮れることになった。

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