第6話 インパルス帝国の事情
遥か遠い昔、常人を遙かに超越した力を手に入れた人間たちがいた。
それは、特殊な呼吸法により膨大な酸素を脳内に送り、人間に隠された未知の能力を引き出すというものであった。
そして、覚醒した脳を通じて〈気〉と呼ばれる不思議な力を体内から湧き上がらせ、常人を遥かに超越した力をこの世に生み出したと言われている。
やがてこの理を真に体得した者は、拳の一振りで荒れ狂う大地を裂き、豪雨により乱発した土石流でさえも一蹴のもとに逆流させたという。
そんな能力を手に入れた人間たちを、後世の武人たちは人間を遙かに超越し、神と一体化した術――〈闘神術〉と呼び、一般の人々は聖人または魔人と恐れ忌み嫌った。
しかし、〈闘神術〉は教われば誰にでも身に付くというわけではなかった。
常に過酷な肉体と精神鍛錬を己の身体に課さなければならなかったし、使う本人による資質が伴わなければ発動すらままならない。
仮に力を発動できたとしても、それを長時間維持することは不可能だった。
それは、脳から全身に行き渡る力の圧力が凄まじく、いくら鍛えた肉体をもってしても長時間耐えられることができなかったからだ。
そんな〈闘神術〉を使う者たちの間では、発動状態を長時間維持することができれば、本物の神になれると信じられてきた。
しかし、そんな人間は〈闘神術〉の歴史上存在しないとされていた。
300年前の〈ベイグラント大戦〉の時までは――。
長く暗い廊下を男が歩いていた。
男の名前はアズベルト。
短く整えた黒髪に茶色の双眸。
堀の深い威厳を感じさせる顔立ち。
四十を過ぎた年齢にしては均整のとれた肉体。
その上を黒光りする強固な鉄鎧で武装しており、大型の肉食獣を思わせる雰囲気が全身から滲み出ている。
また、アズベルトの腰に携えられている剣は奇妙な形状をしていた。
他の兵士たちの剣にはインパルス帝国の象徴でもある鷹の紋章が彫りこまれており、刀身の部分が両刃であるのに対して、アズベルトの剣の刀身は片刃であった。
それはかつて、遥か東の外陸から来訪した鍛冶屋に頼んで作らせた特注の剣であった。
そんなインパルス帝国では珍しい剣を携えながら、暗い廊下を歩くアズベルトの足音には憤怒の感情が表れていた。
インパルス帝国王宮護衛隊隊長のアズベルトは、不愉快でたまらなかった。
廊下に並んでいる煌びやかな彫刻品よりも、陰でコソコソと噂話を流す使用人たちよりも、自分を面と向かって呼び出した側近の男に対して心底腹が立っていた。
最近、異例の若さでシバ国王の側近に選ばれた男がいた。
前の側近の男が自殺したせいで新たに補充されたらしいが、アズベルトには納得がいかなかった。
シバ国王の側近に抜擢された男――カルマは今までの側近たちとはどこか違っていた。
今までの側近に選ばれた人間は、どちらかと言うと小間使いに等しかった。
シバ国王の我が儘にひたすら耐え、身の回りの雑用事が主な仕事だったからだ。
ところが今回抜擢されたカルマは、国王の身の回りの雑用事などは何一つしない。
それどころか、軍事にも何かと口を挟んでくる。
シバ国王がカルマに作戦参謀の権限を与えたからなのだが、今までに異例のないことには間違いなかった。
アズベルトは、インパルス帝国内でも名の知れた剣士であった。
もちろん、そうでなくては護衛隊長という肩書きは手に入らないのだが、それでも他の隊員たちとは比べものにならない実力差があった。
近年ではシバ国王による一切の武芸大会が禁止されている。
だが、事実上最後となった五年前の武芸大会において、アズベルトは他の追随を許さない見事な闘いで優勝している。
今でもアズベルトは、帝国内でも己が最強の剣士であるという自負は変わらない。
しかし、そんな絶対的な自負を揺るがせた男がいた。
カルマである。
初めてカルマを見たときに、アズベルトの背中に冷たいものが流れた。
アズベルトは数々の修羅場を潜り抜けた時にも、身体が高揚することはあっても背筋が凍るといったことがなかった。
(――この男は危険だ)
それが、カルマに対するアズベルトの第一印象だった。
すべてを見透かしているかのような蒼色の双眸。
冷気というのだろうか、生物特有の熱がまったく感じられなかった。
「シバ国王は、何故あんな男を……」
アズベルトは小言を呟きながら、会議に参加するため作戦会議室に向かい歩いていく。
しばらく行くと、作戦会議室の扉の前には兵士が二人立ち番をしていた。
アズベルトが部屋の前まで来ると、二人の兵士たちが深々と敬礼をする。
「全員揃っているか?」
アズベルトが兵士の一人に話しかけた。
「はっ! 皆様、すでに中にてお待ちしています!」
「あいつもいるのか?」
「は? あいつと言いますと……」
アズベルトはその名前を口に出すのも嫌だったのだが、一応、確認はしておいた。
「カルマだ」
「は、はい! カルマ様もお待ちしております!」
アズベルトはそれを聞くと、おもむろに扉を開けた。
作戦会議室の中には、インパルス帝国の最高幹部たちの顔ぶれが揃っていた。
最高幹部といっても仕事のほとんどを部下に押し付け、自分たちは贅沢三昧を味わっているだけの肩書きだけの幹部たちだった。
(――卑しい豚どもが)
アズベルトは心の中でそう幹部たちを罵り、作戦会議室の中へと入っていく。
さして広くもない殺風景な作戦会議室の中央には、長方形の形をしている木製の机が一つ堂々と置かれている。
その机の上には、会議に必要もない高級酒のボトルとグラスが人数分配置されていた。
そんな作戦会議室の中で一番目立つ物といえば、部屋の奥の石壁に貼り付けられている巨大なベイグラント大陸の全体地図であった。
アズベルトは最高幹部たちを一望しながら部屋の奥へと進んでいった。
最高幹部たちはグラスを片手に談話を楽しんでいた。 緊迫感などは微塵もない。
金で手に入れた宝石や女の話などで盛り上がっている。
不意にアズベルトの足がピタリと止まった。
作戦会議室の隅には男が一人立っていた。
銀髪の長髪を風になびかせ、全身を覆うような漆黒のマントで身体を包んでいる。
しかし、それ以上に冷たい氷のような雰囲気が全身を包んでいた。
カルマはアズベルトが来たことを確認すると、低い声で全員の注目を誘う。
「これで全員揃いましたね。 それでは次の作戦について議論したいと思います」
カルマはあくまでも冷静な口調で、淡々と話を進めていく。
「この度のブリタニア皇国侵攻作戦は、皆様の御尽力により見事成功致しました。
ですが、この侵攻に異論を唱える国々が出てくるのもまた事実。 皆様には今回以上に、他の国々の制圧に乗り出していただきたい」
カルマの饒舌な提案に、他の幹部たちは早く終わってくれと言わんばかりな態度で黙って聞いている。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
さして広くもない殺風景な部屋に、カルマの美声だけが響いている。
「……さて、以上が今回の議論のすべてなのですが、何か質問はありませんか?」
いつもの会議ならば誰も質問はせずこのまま解散になるのだが、そこに挙手をする者がいた。
アズベルトである。
「よろしいですかな? カルマ殿」
アズベルトは敵意満々といった表情で、カルマに質問を投げかけた。
「ええ、かまいませんよ。 アズベルト殿」
カルマは冷たい表情で笑みを浮かべる。
「何故今頃になって、ブリタニア皇国に侵攻することになったのですかな? ブリタニア皇国を守護する〈守護同盟〉が結ばれて数百年。 我々インパルス帝国が同盟の先駆けとなってブリタニア皇国を守護してきたはずですが……」
最高幹部たちの間にも緊張が走る。
たしかに、今回の戦いは腑に落ちないことが多かった。
ブリタニア皇国に対して、侵攻が決まったのは戦いのわずか五日前。
戦争を仕掛けた本人たちでさえ準備が足らず、半ば中途半端な状態で戦争が行われた。
ブリタニア側はもっと驚いたことだろう。
戦争というのは、なにかしらの理由があり行われるのが普通だ。
もちろん、その理由は国によって様々に異なる。
宗教、資源、反乱、飢饉、革命といった、少なくとも自分たちが命を賭ける明確な理由が必要である。
だが、今回の戦争はブリタニア側に狙われる理由はなく、インパルス側にも狙う理由がなかった。
それでも戦争は行われたのである。
すべてはカルマの一言で戦争が始まった。
シバ国王に作戦指揮を任されたカルマは、独自の理念と作戦内容で幹部たちを説得し、わずか数日で軍備を整えブリタニア皇国に侵攻したのである。
王宮護衛が任務のアズベルトは納得がいかなかったが、「シバ国王の命令です」と言うカルマの言葉に従うしかなった。
その命令を出したシバ国王は、最近、部下たちの前に姿を見せてはいない。
急病のため、床に伏せっているらしい。 アズベルトが面会を求めても、カルマがそれを固くなに拒否するのだ。
アズベルトの中で、ある種の疑問が湧き上がっていた。
(この男にいいように使われているだけではないのか?)
事実、カルマが側近に抜擢されてからというもの、インパルス帝国内で不可解な事件が頻繁に起こっていた。
街中での集団失踪から始まり、まるで獣に食い荒らされたような死体の散乱。
宮殿内の使用人たちが夜中に聞こえてくるという謎の声。
今のインパルス帝国は怪奇な事件に満ち溢れていた。
それもすべてシバ国王の急病に始まり、カルマの異例な抜擢の後に起こり始めたことだった。
アズベルトは、猟師が獲物を追い詰めるような勢いでカルマに問い詰める。
「明確な理由を聞かせて頂きたい! カルマ殿!」
アズベルトは真っ直ぐな視線をカルマに浴びせる。
カルマは表情を変えずに静かに口を開いた。
「すべてを手に入れるためですよ」
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