藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない

伊井野いと『祓い屋令嬢 3巻』2月発売

序章


 ──死んだと思ったら、産まれていた。

 ちょっと何を言っているのか分からないかもしれないが、あいにくと脩子ながこにだって分かってはいなかった。

 何せ、大学に向かう途上でトラックにはねられたと思ったら、羊水やら血にまみれて、産婆に抱き上げられていたのである。全くもって、意味が分からない。


「いや、何故に……?」


 そう声に出したはずの言葉は、残念ながら言葉の形をしていなかった。

 ただ「おぎゃあ」と泣いただけである。どうやら脩子は、記憶をリセットされぬままに、輪廻転生の輪に乗っかってしまったらしい。

 さて、この記憶を持ったままの転生に、正気に戻った瞬間はもちろん困惑した。

 だが、やがてすぐに、これはこれで楽しいのではと思い直すことにしたのだ。

 何せ、二度目の人生だ。人生二周目だと開き直れば、どうにかこうにか乗り切れるに違いない。


 「あの衝撃じゃあ、どう足掻あがいても助からなかっただろうしなぁ」と、自分の前世に見切りを付けることが出来たことも、大きかったのだろう。

 前世に未練はなくもないけれど、死んじゃったものは仕方がない、と割り切れたのである。何はともあれ、かくして脩子の二度目の人生は始まった。


 さて、いったん腹を括ってしまえば、さっそく情報収集である。

 赤子のぼんやりとした視界の中で、脩子は忙しなく動く人間たちをつぶさに観察し、周囲の会話に耳を研ぎ澄ませた。そうして分かったことは、まずひとつ。


 どうやら脩子は、令和から先の未来にではなく、令和から過去の世へと転生したらしいのだ。二度目の人生の舞台は、平安時代の中期頃であるようだった。

 さすがの脩子ながこも、これには頭を抱えてしまう。

 何故なら脩子は、令和の世を生きる大学院生だった。しかも専攻は、『日本古典文学』だ。人より幾分かは、この時代に関する知識があるのである。


 平安時代はといえば、令和の世からさかのぼって、およそ千年も昔のこと。

 桓武かんむ天皇の平安京遷都せんとから、約四百年ものあいだ続く、日本の歴史区分上最も長く続いた時代である。

 平安前期に遣唐使が廃止されたことにより、中期以降には日本独自の国風文化が花ひらく、この時代。中国の影響を色濃く受けた唐風の文化をようやく脱し、宮廷貴族を中心とした王朝文化が爛熟らんじゅくする時期だ。

 紫式部や清少納言らによる女流文学が、後世に大きな影響を与えた時代でもある。


 平安時代と聞いて、まず一番に想像するのは、典雅で華やかな風景だろうか。

 寝殿造の広大な邸宅。そのきざはしの左右には、紅梅や白梅が植えられていて、そこはかとなくふわりと香る。

 屋敷の南面には大きな池が広がり、静かに揺れるさざ波の上には、龍頭鷁首りゅうとうげきしゅの舟が浮かんでいて。池の中島へは赤い欄干らんかんり橋がかかり、十二単姿の女性や狩衣姿の男性たちが、管弦や蹴鞠けまりに戯れる。その景色はまさに、絢爛豪華。

 時間の流れはゆったりとしていて、季節の移ろいを優雅に楽しむような、そんな時代──というのも、あながち間違ってはいないのだろう。一側面としては。


 けれども、残念ながら。

 脩子は人よりちょっとばかしこの時代について詳しいからこそ、知っているのだ。

 平安時代は、決して優雅で華やかなだけの時代ではなかった。

 何しろ中世以前、古代の末期という、公衆衛生という概念がこれっぽっちも存在しなかった時代である。


 貴族は基本、毎日風呂には入らないし、体臭ケアはお香任せ。

 庶民にトイレという概念はほとんどなく、糞尿ふんにょう路傍ろぼうに垂れ流しだ。

 おまけに民草は死体を火葬や土葬にす余裕もないので、庶民の埋葬は風葬──野晒のざらしが基本だった。つまりは、鳥や野犬がついばみ喰らってくれるのを待つスタイル。


 『本朝世紀』によれば、死亡した者は多く京中の路頭に満ち、往還の人びとは鼻をおおって通り過ぎた。烏犬は食に飽き、骸骨はちまたをふさいだという。

 そんな衛生環境の中で、人が健やかに生活できるはずもない。

 都では毎年のように疫病えきびょうが流行し、ひとたび罹患りかんしてしまえば、あとはもう加持祈祷かじききとうによって平癒へいゆを祈るばかり。

 鴨川はしょっちゅう氾濫するし、飢饉ききんだって頻繁に起こる。文明に甘やかされた現代人にとっては、はなはだハードモードな時代なのだ。


 さてもさても、とんでもない時代に生まれてしまったものである。ここが平安時代であると気づいた時の、脩子の絶望たるや。

「せめて、貴人の生まれであってくれよ」と願ったのは、言うまでもない。

 祈るような思いで、さらに情報収集に明け暮れた、その結果はといえば。

 やがて分かったのは、自分が想像以上にやんごとない身分であるということだった。

 なんと脩子は、先帝の后腹(つまりは皇后所生)の女四の宮──要するに第四皇女として生まれたようなのだ。

 「セーフ! 超セーフ!」と、脩子はおくるみの中で、ガッツポーズを決め込んだ。何せ貴人どころか、貴人の中の貴人である。

 これならば、少なくとも飢えとは縁遠くいられるし、自分で身綺麗を心がけてさえいれば、衛生的にもまだマシな環境で生きることが出来る。


(悲しきかな。貴族でも疫病にはそれなりにかかるし、割とぽっくり身罷みまかるのは百も承知ではあるが……)


 何はともあれ、腐乱死体と隣り合わせの生活を送らずに済むのであれば、それだけでも上々だと脩子は開き直った。

 こんな時代を実際に生きるのは不安極まりないが、それさえ除けば、自分の研究していた古典文学の世界である。

 好きでなければ、そもそも研究などしない。

 かくして脩子はこの第二の人生を、それなりに謳歌することに決めたのだった。




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