「グロンの裂け目」

アイリスとレミーがグロンの裂け目の最後の危うい段を降りていくと、額に冷たくぬめる不穏な汗がにじんだ。足を下ろすたびに空気は重く濃くなり、湿った土と忍び寄る腐臭を濃密に孕んだ、息を詰まらせる停滞の毛布が全身にまとわりつく。大聖堂めいた巨大な洞窟では、磨り減った石段を踏みしめる靴の反復する砕け音が束の間こだましては、すぐさま奈落の沈黙に呑み込まれて消える。頭上の断崖の壁は、常に暗い薄暮に沈み、ときおりだけ脈打つように生物発光の幽かな光柱が差し込み、その明滅はまるで怪物の心臓の遅い、不気味な鼓動だった。遠くでは、途切れぬ小刻みな顎のカチカチという音が聞こえる。見えざる強大な番人たちが、この見捨てられた地下世界を守護しているのだと告げる、厭な、持続する合図だった。


最下段に降り立ったとき、彼らの行く手を遮ったのは悪夢の産物だった。貴族の馬車にも匹敵する巨体の蜘蛛が道を塞いでいる。研磨した黒曜石のような八つの多面眼が、邪悪な叡智を宿してぎらりと光る。その一閃ごとに、彼らの精神と気概が剥ぎ取られていくかのようで、視線は魂の芯まで貫いてきた。関節だらけの長い有毛肢は恐ろしく鋭く、冷たい石床を不気味なシンコペーションでコツコツと叩く。レミーは反射的にアイリスの背へ身を引き、喉にひっかかった息を短く荒く刻む。だがレミーの驚きに反して、アイリスは不自然なほど落ち着き払っていた。読み取れぬ石の仮面のような顔で、微動だにしない。


「やあ、オクト・ウィーヴァー」アイリスは低く、しかし淀みなく声を発した。空虚に響くその声音は、どこか現実離れした調べを帯びる。「久しいな」


蜘蛛は巨大な頭部をかしげ、無数の眼でねめ回す。その凝視の強度に、レミーの肌が粟立つ。力強い口器から、疲れを含んだ溜息と喉の奥で鳴る唸りの中間のような、低く共鳴する音が漏れた。挨拶とも警告ともつかない響きだ。


やがて蜘蛛は、乾いた枯葉が石を擦るような声でかさりと囁いた。「確かに……久しいな。――若きアイリスよ、何ゆえこの荒涼たる縁(へり)へ来た。迫る嵐からの避難でも求めに来たか」


深淵の影の奥で、重く張り詰めた沈黙が漂う。時折、どこか遠い裂け目から滴り落ちる水の物悲しい滴音だけがそれを破った。腹の底を噛む本能的な恐怖に抗いながら、アイリスは蜘蛛の不気味な凝視を受け止め続けた。ついに彼は、揺るぎのない声で言い切る。「警告に来た。マオトが軍を整え、襲撃の準備を進めている。お前とその眷属は用心せよ」


蜘蛛の多眼が細まり、古い視線の底で何かがちらりと揺れた。驚愕か、それより深い何かなのか。巨体がほとんど判別できぬほど微かに震え、キチンの板が擦れ合う音が洞窟に不気味な反響を残す。「マオト……」と蜘蛛は鋭く嘶き、顎を素早く打ち鳴らした。煩悩尽きぬ災い者。必要もないところに火種を撒かぬではおかぬ。――よい、若きアイリス。伝言は承った。だがもう行け。外来の者はここでは歓迎されぬ」


レミーは圧倒的な安堵を覚え、すぐさま身を翻りかけ――その踏み出しを、アイリスの腕が横一文字に遮った。鉄棒のように堅く。冷たい予感がアイリスの背骨を凍らせる。それは蜘蛛とは無関係の寒気であり、長年の危難で研がれた本能が告げていた。まだここで終われない、と。


「それだけではない、オクト」アイリスはきっぱりと言った。「兄に会わせてほしい」


巨体の緊張が空気を震わせ、洞窟はふたたび手触りのある沈黙に沈む。八つの眼がアイリスとレミーの間を行き来し、圧の波を放った。「お前の……兄だと?」蜘蛛の声に新たな警戒が混じる。「確かな望みなのだな」


アイリスは微塵も退かず頷いた。「会わねばならない。生きるか死ぬかの瀬戸際だ」


蜘蛛はしばし沈思し、顎を小さく打ち鳴らす。熟考の音だ。やがて、諦観とも取れる深い吐息を混ぜて応じた。「ならば付いて来い。ただし肝に銘じよ。これより先は危険に満ち、辿った者すべてが戻るわけではない」


蜘蛛は身を反転させ、毛むくじゃらの脚で刻む一定のリズムを響かせながら、グロンの裂け目の迷宮のさらに奥へと二人を導いた。幽かな生物発光に照らされ、きらめく絹糸の管が迷路めいて絡み、その壁面は亡霊めいた光沢でゆらゆらと輝く。絶え間ない水音、どこからともなく走り去る未知の生物の気配が、胸を圧する不安をいや増しにした。歩を進めるほどに空気は冷え、かすかな腐臭が濃くなり、喉の奥に張り付く瘴気となって残る。


やがて蜘蛛は立ち止まり、地下の岩壁をくり抜いて作られた独房の前を示した。厚く重い、蜘蛛糸で綿密に編まれた格子が口を塞ぎ、人の力はおろか刃でも断ち切れまい。獄舎の奥、冷えた石壁にもたれかかる影がひとつ。かすかな脈動光の下では輪郭も心許ないが、その身からは骨身に沁みる絶望の冷気が溢れていた。


「お前の兄だ」蜘蛛は感情の起伏を見せぬ声で言う。しばしその場に滞空すると、不可解な多眼のきらめきをひと度だけ残し、息を詰まらせる闇の向こうへと音もなく消えた。


アイリスは慎重に格子へ歩み寄る。肋骨を内から叩く鼓動が痛い。目が暗がりに馴染むにつれ、うずくまる影の素顔が少しずつ浮かび上がる。鋭い痛みが胸を刺した。覚えている兄の面影は骨組みだけとなり、明るく誇らしかった翅は裂け、砕け、背に憤怒のような傷痕だけを残している。かつて悪戯に輝いた眼差しは、今や冷ややかで距離を置くような光を宿し、薄気味悪いまでに澄んでいた。


「兄さん……?」躊躇いと相反する感情の渦を孕んだ声で、アイリスは呼びかけた。


影がゆっくりと――わざとらしいほどの慎重さで――頭をもたげる。削げた頬、長年の苦痛と重圧が刻んだ深い皺。やがて虚ろな瞳がアイリスと合う。そこに微かな認識が灯り、直後にはるかに暗いもの――鬱屈した憎悪が燃え上がった。


「……アイリス」長く声を使っていなかった者の掠れた音で彼は言う。「何があって、こんな忘れられた穴倉へ?」


喉が詰まり、言葉が出ない。アイリスは嚥下してから絞り出した。「警告に来たんだ」そして、マオトの差し迫った攻撃、その暴走を阻む必要がどれほど切実かを、一気に、切迫のままに語った。兄は恐ろしいほどの集中で聴き、顔に一切の感情を浮かべない。脈打つ奇怪な光が渦を描いて彼の顔を流れ、頬の窪みと顎の鋭角を残酷に強調する。


語り終えると、兄は冷たい石へ後頭部を預け、口の端を嘲弄の弧に引いた。「わざわざここまで来て、忠告とな」声は重く、皮肉が毒のように濃い。「随分と殊勝ではないか」


「それだけじゃない」アイリスは懇願めいて続ける。切迫した声。「マオトはあなたを狙っている。手段を選ばない。皆を、すべてを壊すまで引かない」


だが返ってきた答えは、別の悪寒をアイリスの背に走らせた。「逃げる?」兄は冷たく、どこか侮蔑を含む調子で鼻を鳴らす。「どうして私が逃げねばならぬ。――忘れたのか、弟よ。私は備えている。生き延びるだけでなく、さらに進むための手筈を」


その時、岩そのものが唸るような重低音が地の底から立ち上がった。振動が石を伝い、洞窟全体に反響する。天井から細かな粉塵が舞い、生物発光の灯りが不穏に揺れて、闇へと落ちかける。レミーは蒼白になり、周囲を見回してアイリスの腕を掴んだ。声にならない叫びが目に宿る――「何が起きている」


アイリスには答えられなかった。視線は兄に釘付けだ。兄の顔に、ぞっとするほど勝ち誇った確信が浮かんでいる。「何をした」地鳴りが強まる中、アイリスの声は辛うじて届くほど弱く掠れた。


兄の瞳が狂気と勝利の混淆でぎらりと光り、嘲る笑みは歪んで凍えるような嗤いへと裂けた。「すぐに分かるさ、弟よ」歌うような調子で、滑稽なまでに明るく。「グロンの裂け目はマオトの物にはならぬ。私が舵を取る。ここは、私とともに――起き上がるのだ」


震動はさらに烈しくなり、古の力が解き放たれる咆哮が断崖を渡った。大地を割る奔鳴が闇を揺さぶり、混沌と破壊の到来を告げる。

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