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 信じられない偶然の再会に、ようやくのように認識が追い付き始める。実際、大男の客に絡まれたよりは久遠の登場のほうが何倍も衝撃的だった。

「ああいうクレーマーみたいな客はよく来るの?」

 久遠の口調には親切な響きがまじっている。

『たまに』

「ならば一人で店番はたいへんだ。店主は――――」

 店内を見回す。この非常事態に店主はどこだと訊ねたいのだろう。碧斗は苦笑まじりに答えた。

『店主はオレです』

 思った通り、久遠が驚いた顔になる。

「え…と。そうなのか。失礼。てっきり従業員なのかと」

『いいです。よく間違われるから』

「いや、失礼した」

 柔らかい謝罪の言葉が頭上から降った。

(久遠さん、オレだって気づいていないな)

 一度だけ抱いた売り専と久しぶりに会ったのだ。気づいていたらもう少し気まずい表情をするだろう。こちらを忘れているからこそ、こんな屈託ない笑顔も会話もできるのだ。

「ちょっと店内を拝見させてもらうよ」

 気さくな問いかけに、碧斗は小さく頷いた。

 久遠は鷹揚な足取りで一通り店内を見まわる。その後で岩波文庫の並ぶ書棚で立ち止まった。

 一冊を手に取り、しばらく中身を見分し始める後ろ姿に、碧斗はそっと視線を投げかけた。ついでのように左手の薬指を確認すると、シンプルな銀色のリングが今日もある。

 久遠は今日も身なりがいい。ハイファンの時も上品な三つ揃えのブリティッシュスーツを優雅に着こなしていたが、今日はスタイリッシュなキートンのスーツをすっきりと纏っている。

 碧斗自身はハイファンのお仕着せ以外スーツなどほとんど身につけないが、男相手に男娼をしているとスーツのブランドに自然と詳しくなる。初めて会った日に久遠が着ていたものはチェスターバリーの最高級品だった。

 ポマードか何かですっきりと撫でつけた少し癖のある黒い短髪や、脇に挟んだ鞄、高価そうな靴には紛うことなき気品があって、どこかの御曹司と言われても不思議ではない。こんな寂れた古書店には似付かわしくない、丸の内の丸善や社長室の重厚な本棚とかが似合いそうな品格のある男だ。今日はこの付近にやってきて、たまたまこの店に足を踏み入れたのだろう。

「お願いします」

 丁寧な声かけと共に久遠が数冊をカウンターに置く。時間をかけて読んでいた岩波の新書も何冊かまざっている。買ってくれるのだ。

 碧斗は丁寧に袋に詰めて値段を伝えた。

『ありがとうございます』

 メモをしたためてその袋を渡した。

「それ、読んでいるの?」

 不意に、久遠はカウンターに臥せてあった碧斗の読みかけの小説に視線をとめた。碧斗は頷いて答えた。

『好きな作家だから』

「そう。珍しいな」

 そっけない返事がくる。何が珍しいのだろう。わりと有名な作家だと思うのだが。

 買い上げ袋を久遠が手にする。これでお別れだ。貴重な一期一会。どう考えてもこれは偶然の再会だから次はない。一樹が店を辞めてからハイファンに久遠の訪れはなく、だから二度と会うことはないのだ。

 久遠が一歩碧斗に近づいた。耳元に唇が寄せられてドキっとする。

「あの夜のこと、憶えてる?」

 色の乗せられた言葉に仰天した。

 久遠は悪戯っ子のような不敵な微笑を湛えている。憶えていてくれたのか。あんなつまらない性戯しかできなかった男娼など、忘れられても仕方ないと思っていたのに。

 動揺を隠せない碧斗は、久遠を見あげた視線を揺らせることしかできない。捉えどころのないような顔に戻った久遠が安穏と続ける。

「なかなかいい店を持っているんだな。経営大変だろうけど、頑張って」

 景気よく告げて踵を返す。

 出口で一度だけ振り返って、碧斗に向けて軽く手をあげた。そして颯爽と通りへ出ていく。そのすべてが碧斗の見開いた目に鮮やかな残像として刻まれた。

 それでも最後に久遠が浮かべたほほえみはつけたしのように見えた。さよならという意味の挨拶に思えた。

 忘れかけていた身体の不調がぶり返す。「頑張って」の言葉に返事をし損ねた。そうと気づいて、緊張で汗に濡れていた手のひらがきゅっと縮まった。

(これで本当にさよならだ)

 あっけない別れ。人と人は別れるために出会う。そして別れはいつもこんなふうに呆気ない。

 祖父の幸雄の最期もそうだった。末期がんを患った幸雄は延命処置を拒み、死期が近づくのを自然に任せて、その最期はしおれた花弁がほろりと落ちるがごとく呆気なかった。それに似たようなあえなさで久遠を見送る。

(オレのような人間の人生は、ただの徒労、暇つぶしだ)

 思いがけず頭痛が酷くなり、再び椅子に腰をおろした碧斗は、力なくカウンターに突っ伏した。



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