因縁が何かに変わる手前
蜜柑桜
第一話
夜の帳が下りたあとの宮廷庭園は、ひっそりと落ち着いた空気が流れている。繁る緑は色を濃くし、まばらに灯った火と月明かりの中で花びらが淡く浮かび上がる。
さすが大国カタピエの領主邸。壮麗な屋敷と同じく広大な庭園も見事だ。今宵の晩餐も実に豪奢で、慣れない者にはやや疲れる。
背中に当たる宴の喧騒も、布と玻璃を隔ててしまえば喧しさも弱まり微弱に夜気を震わすだけだ。渦中にいれば様々な思惑が入り乱れた上っ面だけの談笑が鬱陶しいが、逃れたいまや一人、久方ぶりに異国の地にいて眠る前の草木と同化するような落ち着いた心地に浸れている。
不思議なものだ、と思いつつ、クルサートルは酒盃に口をつけた――すると、背後で硝子戸が滑る音がした。
「失礼。先客がいらし――」
思わず振り返った途端、目が合った相手の顔が固まった。
一瞥してから、クルサートルはそのまま盃を傾けた。
「こちらこそ失礼を」
短く述べると、さらにひと口、喉に流し込む。素面でやれるかと強い酒で咽頭を焼くが、生まれた不快感はこのくらいの刺激でも紛らわしきれない。
再び庭園へ顔を戻す。とはいえ後ろからの視線を感じていては、先ほどまであった清々しい空気も台無しである。
「賓客がこんなところにお出でとは」
感情を抑えに抑えた声がかかるが、さっさと戻れというのが見え見えだ。
「此度は御招き頂き感謝申し上げます、メリーノ公。かような場に来賓として遇されるのも勿体無いことにございます」
話しかけて欲しくなどないが、一応、体面というものがある。極めてにこやかに返してやると、メリーノは愛想笑いを作るどころか、返事がうまく見つからないと口の中で「ああ」と下手な相槌を打つ。
「こんな外でお一人で酒とは、宴は気に入らなかったか」
「いえ。神職の者が座にいては興を削ぐかと」
公務で来ているクルサートルは教会総帥秘書官の正装たる神官服だ。軽い儀礼での暗色とは違い、白地に金の縁取りが施された荘厳式典服に列する類だが、煌びやかな夜会服の中にいてはやはり異質だ。
まあ服装などただの言い訳に過ぎないが。そしてそのことをメリーノが気づかないとも思っていない。
「それより主たる貴公が宴を離れては皆様が残念に思われるのでは」
座に戻りたくないのだろう、と指摘される前に、微笑をそのままに厄介払いの先手を打つ。しかしメリーノは嫌そうに口の端をひくつかせたのち、何故か欄干に近づいて来た。
「外交が疲れることくらいは貴殿も痛感しているだろう。休みもなしに客の相手をしてみるが良いよ」
なぜこちらに来る、と思ったが口には出せない。再び首を庭の方へ回して様子を伺うと、城の主人ははぁー……と情けなく息を吐いてそのまま自分と同じく欄干にもたれて空を仰いだ。
「というわけで星でも見るかと退避してきたわけだ」
「……それはどうも御苦労なさっているようですね」
「貴殿も似たようなものだろう。それなら休憩時にまで堅苦しいやりとりをするのもあれだ。今日くらい無礼講ではいかがか」
渋々ながら応答してやったらあらぬ方向へ話が長くなりそうだ。極めて面倒くさい。
「そのように仰られても華々しい大国領主と比べて卑賤の神官が招かれた身でありながら憩いの場を同じくするのは非礼に当たるかと」
「息継ぎも無しの棒読みに聞こえるぞ」
途端に声音が冷えた――かと思えば直後に沸騰した。
「貴公のその慇懃な態度が一般には無礼というのだ!」
横でガシャンと鉄柵が鳴り、それが荒げた声に重なった。しかしクルサートルとしては故意なので別に痛くも痒くもない。
自分の応対に嫌気が差して戻ればいいと踏んだのに、メリーノは「はっ!」と嘲笑ってさらに話を続ける。
「全く貴殿のような人間と彼女は大違いではないか。澄ました顔をして眼は全く笑っていない輩の横にああまで誠意ある微笑で礼を述べる女性がいてみろ」
メリーノは欄干に身を預けて肩を落とすや、つらつらと言葉を並べ始めた。本音がぼろぼろ出始めたな、とちらと見ると、右手に酒盃がある。恐らくはまあまあ酔っているだろう。
別に返事を要してはいないだろうし、返事をしてやる気もない。
「今だって社交もそっちのけで一人悠々と逃避もせず、実に和やかに歓談をしている」
「私の連れにとっては初めての夜会で、興味があったようですから」
敢えて頭のところだけ強調すると、メリーノが眉をぴくりとさせてこちらを凝視するのが視界に入った。無言で聞き流そうとしていたのに咄嗟に答えてしまったのである。だがこの反応を見てしまっては、追い討ちをかけておこうという気にもなるものだ。
「彼女はこうした宴でよく見る仕立ての服はどうも好みでないようですが、私から贈った夜会服ならばとても気に入ったようです」
暗に、お前の趣味とは相容れない、と含みを持たせてにこやかに続ける。メリーノならば読み取るだろう。それならこれで黙って退散するはずだ。
しかし、そうはいかなかった。
「あれか!」
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