第39話『四つ辻に立つ女、再び』
カシュ。
缶コーヒーの芳香が寒空に漂うと、紀子はそれを一息にあおった。
店の前に置いてある自販機。おでん缶は無い。
ガコン。続いていずみはおしるこ缶を選ぶ。
「ご機嫌、斜めですね」
取り口に身を屈め、への字口の紀子にそう声をかけると、カコン。いずみはその長い髪を後ろへたくし、缶の甘い香りを楽しむかの様、その湯気を鼻腔で受け止めた。
「あんにゃろ。普段からあれくらいやってりゃ良いのによお」
「鏡さんですからね。うふふ……」
目の前にそびえ立つ教会の壁が、大きな権威の象徴であるかの様に重くのしかかって来る。
若い紀子は、西洋の教会、そのエクソシスト達がどういった者たちなのか、あまり深く考えないでいた。日本の霊的な守りを弱体化させる為に、その尖兵として? こっちに出て来る迄、余り縁の無かった話に、ああはいはいそうですか程度の軽い気持ちで連中には注意する様にとの言葉を軽く考えていた。それが、異常事態として目に見える形となった時に、負の条件として大きな影を落している事に気付かされた。
「道理で、こんなおかしな場所に、秘密基地なんぞ作ってるかと思ったらよお」
「あんまり見てると、ガーゴイルに気付かれますよ」
「気付かれねぇよ。こっちが石でも投げねぇ限りはよ」
鐘楼に配された石造群。あれが教会の防御装置だとは判っていたが、普段から何も起きないものだから、舐めてかかっていた紀子である。
まあ、それよりも紀子が不満だったのは、鏡が真面目に街を巡回していれば、もっと早く問題が起きる前に気付けたんじゃないかという事。胸の内にやるせなさが渦巻く。腹立たしさの一方、あれにそれを求めるのは無理な話だと囁く自分が居る。
過ぎた力というものは、生き方を変えてしまう。紀子の場合、それは持たざる者たちとの隔絶感であった。自分が理解出来るものを、他の誰もが理解出来ない。受け入れられない。孤高。孤独とも言える。そして鏡はああいうちゃらんぽらんな生き方を選んだのだろう。空間を自在に渡り行くが故に、物事に捉われる事の無い生き方を。拘束を嫌う性分を。
それは紀子と丁度逆位置にある様にも想えた。
結晶使いという、そこにある物に深く関わっていく性分と。
幼い頃から水晶の街として知られた裂石で育ち、祖父の工房に入りびたり、結晶の力に目覚めた紀子とは。
それは石への愛でもある様に想う。結晶のまとうキラキラとした光彩への。物を言わぬが故に、ただあるというだけの静けさへの。
故にあらゆる物から自由であろうという鏡の生き方に、戸惑いや苛立ちを感じてしまうのかも知れない。
「紀子さん」
「ん?」
鐘楼を見上げていた紀子の左腕に、ぽむと当たるものがあった。
「寒いですねぇ」
「ああ」
これからこの街はどうなってしまうのか。うすら寒い話であるが、二人が触れ合うところは暖かだった。
「……」
「あ……」
「……お?」
店の前を、通りかけた三人組の一人が、紀子の漏らした声に足を止めた。
ひらひらとした衣が風も無いのにたなびき、この寒空に革ひものサンダルが寒く無いのかと紀子にふとした疑念を呼び起こさせた。
「マッハ?」
「先に行ってて頂戴」
「判った」
連れの二人が、そのまま立ち去る。
まるで、彼女らの周りだけ、緩やかな風がうずまくかの様に。
これまでは、近くのコスプレメイド喫茶の店員なのだろうと思っていたが、あの四つ辻で出会った目の前に立つこの女は、また何か違った存在なのかもと。
「ふふふ。無事に戻れた様ね」
そのマッハと呼ばれた女は、静かな銀の光彩をまとい、例の白木の槍を携えていた。
寸分、先ほどと変わらぬ衣装に見える。
「お陰様でね。あんたも怪我しなかったみたいだな?」
「ああ、あの時の!?」
少し遅れて、驚いたいずみが変な声をあげた。
「あれくらいは一人で何とかなるわ。運が良かった様ね。それじゃあ」
「ちょっと待ちなって」
「何?」
さらりと踵を返しかけた女は、静かな瞳で見返して来る。あくまでクールに。そんな相手に、紀子は一歩踏み出す様に睨みつけた。
「アレは何だったんだ?」
「さあ、たまに来るのよ。あの手の連中が」
「何だか判らないのに攻撃したのかよ!?」
「正体を隠す者は、自ずと自分が何者かを語っているものよ。平和を望む者は、悪意の無い事を晒し、そうでない者は極力隠そうとする。彼らは全てを隠し、通り抜けようとしていたわ。それだけよ」
槍を肩に、両の掌を晒した女はそこに何も握っていない事を示すかの様にひらひらと。
そして、きゅっと槍を握りしめた。
こくりと小首を傾げ、二人を眺める。この距離感。
「もう良いかしら?」
「最後にもう一つだけ聞きたい」
「なに? 手短にお願い出来ます?」
悠然と、あくまで悠然と、女は佇む。
雑然とした気配と共に街を行き交う人々。まるでそこだけ切り抜いた様に、静かに感じられた。
「今、この街で起きてる事、あんたら気付いてんのか? いや、気付いてんじゃねえのか?」
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