#7

 哀が搬送された病院に着いたのは、連絡を受けてから20分後ぐらいだった。


 慌て過ぎてTシャツの表裏が反対になったまま上着をはおって自転車を漕いだお陰で、受付の看護師が訝しげな目で俺を一瞥する。


「修也!」


 同じく呼び出されたのか義父は青白い顔で俺の名前を叫び、「どうやら複雑骨折みたいで……」と血の気の引いた唇を震わせた。


「た、助かるんですか?!」


 思わず彼の肩を握った俺は揺するようにしがみ付くと、怯えた様子の義父の瞳を覗き込む。


「……命に別状はないらしい」


 どこか遠くを見るように答えた彼の瞳には手術室にいるであろう哀も、目の前にいる俺すら捉える事なく、ただひたすらの虚無がそこに存在していた。


義父おとうさん……?」


 清濁を併せ呑むどころか、光の粒子も影の一抹をも吸い込むようなその色は、宇宙の端くれに存在すると言われるブラックホール。


 今まで一緒に過ごしてきた中で、義父のこんな表情を見るのは初めてだった。


「ごめん……ちょっと動揺しちゃって……ははっ、顔洗ってくるよ」


 俺の呼び掛けに正気を取り戻したように目を細めた彼は、そそくさと逃げ出すようにトイレへと走り出す。


 その素早い動きに混乱した俺の返事を待つ事なく遠ざかってゆく背中を見送った俺は、まるで別人みたいな義父の表情を反芻するように瞼の裏に思い浮かべる。


 ──まさか、な……。


 根拠の無い事は、口にしないのが一番だ。


 昔から言葉は言霊になり得ると言うように、脳味噌の端にチラつく不確かな妄想が、勝手に手足を生やして実現してしまうのが酷く恐ろしい。


「……手術は無事に終わりました」


 呆然と立ち尽くす俺の耳にその言葉が届いた時、雪みたいに美しい肌に痛々しい包帯を巻き付けた哀が横たわる担架が姿を現す。


 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、丁度トイレから出る遠くぼやけた義父の口元が、一瞬にして俺の瞳に焼き付く。


「?!」


 それはそれは意地の悪そうな片頬が、まるで死神の鎌みたいに緩やかな弧を描いていた。

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