抱き締めた手〜いとしのエリー〜

たーちゃんさん

出会い


  私の学生時代からの大好きなお友達に、エリちゃんという人がいる。

 サークル活動の合唱団で出会った彼女は、ソプラノパートでも一際煌めく様な美声の持ち主で、普段のおしゃべりの声や笑い声なども、文字通り鈴を転がすような心地よい響きを奏でる人だった。

 ある夏の日、それは合唱団の合宿中の出来事だったか、後に私と彼女が親しくなって、社会人になり妻となり母親となり、親の介護に明け暮れる様になっても尚、途切れずに細く長くお付き合いする事となるきっかけとなった事件が起こった。

 その日私たちは、山中湖畔の小さなコテージで実施される三泊四日の合宿の、三日目の朝を迎えた練習ホールにいて、数席離れた場所に各々着席して、うんざりした気分で指揮者を見ていた。

 エリちゃんのパートはソプラノ、私のパートはアルトであったから、団員達が整然とパート毎に並んで着席すると、自ずと私たちは数席分離れる事となる。

 午前の部午後の部、そして夜の部と、練習に次ぐ練習を強いられ、それが三日目ともなれば集中力を保って臨む事が難しくなり、自分の座席から目に入る景色にも、いい加減飽きが来ていた。

 前の列の団員達の後ろ姿。横を向けば、後ろの列の団員達ともうっかり目が合ってしまい、気まずい思いをする。

 指揮指導をしているのは合唱団顧問の教授だ。

 日々、勉強になる音楽のエッセンスを授けてくれるのだが、如何せんこちらの持久力が破綻寸前であった。このままでは、何かとんでもない事が起こるのではないか。

 思えば、予兆はあった。

 私の視界の中で右斜め前方に、前を向いて座っていたエリちゃんが、時々心持ち左後方をかえりみて、私の視線を誘う様な素振りを見せるのだ。

 そんな仕草が数回重なった後の休憩時間だった。

 午後の時間帯の二回目の休憩時間は長めに取ってあり、確か三十分間くらい自由に過ごせる時間があった。

 教授が指揮棒を置き、全員で声を揃えての挨拶を終えるのを待つのももどかしく、いち早く彼女が私の所に駆け寄ってきた。

「ちょっと、湖に行ってみない?」

 普段通りの笑みを浮かべて、軽やかに踵を返し、私を従えて玄関で外履きに履き替えると、彼女は一段声のトーンを落とした。

「なんかもうやってられなくない?缶詰め状態は限界なんだけど。」

 本当にキツいよね、早く終わらないかね、とぼやく私の耳に、畳み掛けるように、今度は打って変わって弾けるような瑞々しいソプラノが響いた。

「ねえ!ボートに乗らない?!」

 急な展開に驚いて思わず彼女の顔を見やると、目を輝かせて湖面を指差している。

 合宿所となっていたコテージ所有の手漕ぎボートは、宿泊客はいつでも使用可能とされている。

「大丈夫かな。休憩時間、終わっちゃうんじゃない?」

「大丈夫大丈夫。」

 岸辺にセットされていたボートの船尾部分に両手をかけ、思い切りよく全体重をかけて湖面に押し出し、彼女はすばしこく乗り込んだ。

「私漕ぐね!」

 彼女を一人で湖に漕ぎ出させる訳には行かないと私は多少焦って、大急ぎでボートに滑り込んだ。

 まるで水を得た魚の様に生き生きとして、風に髪をなびかせながら両手でリズミカルにオールを操る姿は、本当に嬉しそうで、一緒にいるこちらまで有頂天になってしまうのだった。

「自由っていいねえ……」

「生き返ったねえ。」

「ああ、風が気持ちいい!」

「広いねえ!」

「水が冷たい。」

 指先を湖水に浸してパシャパシャやっていると、まるで時の流れが止まってしまったかの様に感じた。

 漕ぐ手を休めて、ボートに身を任せ、しばしたゆとう。最早、言葉さえ要らない。ゆらゆら、ゆらゆら。

 ちっとも戻りたくはない。

 でも、まさに心を鬼にして戻らなければならない現実が、二人の前には横たわっていたのだった。

 どちらからともなく、この世の終わりくらいの気持ちで、恐る恐る腕時計を盗み見た。

 断末魔の叫びを上げたのは、二人ほぼ同時であった。

「どうしよう?あと十分もないよ!」

 超特急での復路のオールを操ったのは、彼女であったか私であったのか、記憶にない。

「早く!早く!」

「急いで!!」

 練習開始の時刻に不在となれば、団員達は即刻一致団結して、公開処刑を執行するであろう。

 『みんな我慢して頑張っているんだよ。』

『練習しにここへ来てるんだよ。』

 呆れた様な表情を浮かべ、嘲笑混じりに発する彼らのセリフが聞こえて来る様だ。

 自らの疲労や疲弊に蓋をしているが故に、そこから派生する不平不満のはけ口として、同調圧力に押し流された団員達によって、私たち二人は無惨にも生贄にされる迷える子羊となろうとしていた。

 船首が岸辺に上がった。

 オールを放り投げた。

 ボートの縁をまたいで降りた。

 シーンの一つ一つがまるで静止画の様に記憶に刻まれている。

 転げる様に走りに走り、靴を履き替え、練習ホールの自分の席に着席したのは、練習開始の挨拶の号令がかかる、まさにその瞬間であった。

 奇跡が起こったのだと思った。

 公開処刑を免れた。

 パート譜に目を落とし、旋律を追いながら、頭の中ではついさっき見ていた湖の光景を再現していた。

 綺麗だったなあ。

 間に合って良かった。

 ふと彼女と目が合うと、ペロリと舌を出していたずらっぽく笑う。

 目が、「セーフだったね。」と語っているのも、とてもチャーミングなのだった。

 

 

 

 

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