栄華の左目、誓いの右目
五色ひいらぎ
慈寧宮
道士
母に牡丹を見せたいのだ、と、帝は道士へ頭を下げた。
当惑したのは並居る従者、侍女たちであった。いかに鍼灸の神技で知られた者とはいえ、大宋の皇帝が一介の道士に頭を垂れるとは――だが周囲の動揺を意にも介さず、帝は言葉を続けた。
「醜きもの、
一同の当惑が鎮まる。だが代わって場を満たしたのは、孝心への感嘆よりもむしろ、触れてはならぬものに触れたがゆえの重苦しさであった。
皇帝の母、すなわち宣和皇太后の身に何が起きたかを、知らぬ者はこの街にいない。
もとの宋の都、
重い沈黙を意にも介さず、帝は道士を
皇太后は数年前から眼病を患っていた。瞳がひとたび白く濁り始めれば、またたく間に病状は進み、今では両目ともに光を失った。数多の医者が呼ばれ、様々な治療が試みられたが、成果を上げた者はいない。
帝が退去するのを見計らい、道士は皇太后へ一礼した。そして、白絹の寝間着に手をかけた。
老いた細い体が、鋭く震えた。
「男に触れられるのは、恐ろしいですかな」
道士が訊いた。
「あえて好む者がおりましょうか。まして、私は――」
厭わしげに皇太后は言葉を切った。察しなさい、と言わんばかりに。
老いた背が、露になった。体をうつぶせに寝かせ、背筋の
「これで、いくらかは
含みのある言葉尻を、侍女が質す。
「皇太后様は、並の眼病ではないと仰せですか」
「我が見立てでは、由来は気血の偏りではありませぬな。むしろ七情、すなわち喜・怒・憂・思・悲・恐・驚が鬱屈し、内傷となって眼精を苛んでおられる。七情の乱れは、薬石にて整えることは難しゅうございます」
「では、平癒の見込みはないと?」
「鍼灸や薬のみでは、どうにもなりませぬな。ただ――」
道士はふたたび、皇太后へ向けて一礼した。
「皇太后陛下。失礼ながら、心当たりはありませぬかな。両の目を損なうほどの、深い悲憤や憂悶に」
枕の上から、掠れた声が答えた。
「ええ……あります。ありすぎるほどに」
皇太后は、深い溜息を吐いた。
「見えなくなってからは、殊に。かつて目にした多くの呪わしいありさまが、見えぬ目の裏に浮かんでは、私を苛んでおります……
「ならば、失礼ながら」
道士は顔を上げた。灸の並ぶ老いた背を、髪の薄くなった後ろ頭を、静かに見つめる。
「お話を、聞かせてはいただけませぬかな。話せるところだけでかまいませぬ。ただ、胸中に凝り固まった鬱屈は、気血の流れを滞らせ、七情を昂らせて御身を傷つけまする。話せば、緩むものもありましょう」
「その言葉が真かどうか、今の私にはわかりませぬが」
太后はうつ伏せのまま、低く小さな声を発する。
「少しばかり、語りましょうか。この見えぬ目に、何が浮かんでいるのかを……靖康の受難より此の方、私が見てきたものどものことを」
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