栄華の左目、誓いの右目

五色ひいらぎ

慈寧宮

道士

 母に牡丹を見せたいのだ、と、帝は道士へ頭を下げた。

 当惑したのは並居る従者、侍女たちであった。いかに鍼灸の神技で知られた者とはいえ、大宋の皇帝が一介の道士に頭を垂れるとは――だが周囲の動揺を意にも介さず、帝は言葉を続けた。


「醜きもの、きたなきものを、母の双眸はあまりに多く見てきた。命尽きぬうちに、せめて多少なりとも、美しいものでお慰めしたい。これは皇帝としてではなく、ひとりの人の子としての望みだ」


 一同の当惑が鎮まる。だが代わって場を満たしたのは、孝心への感嘆よりもむしろ、触れてはならぬものに触れたがゆえの重苦しさであった。

 靖康せいこうの難以来十五年に及んだ宋と金国との戦が、紹興しょうこうの和議による一旦の終結をみてから既に七年。仮の都であったはずの臨安は人で溢れ、市は賑わい、宮殿は増築され、繁栄と喧騒とを集めている。しかしそれでも、暴虐の爪痕は至る所に残り、折に触れて影を落とす。

 皇帝の母、すなわち宣和皇太后の身に何が起きたかを、知らぬ者はこの街にいない。

 もとの宋の都、東京開封府とうけいかいほうふが陥落した折、皇太后は数多の者たちと共に北方へ連れ去られた。そして、紹興の和議に伴い南へ帰ってきた。十五年の間に何があったか、誰も敢えて問いはしない。北へ行った女がどうなったか、宋の民は皆よく知っている。老若の差も貴賤の差もなく、すべて――

 重い沈黙を意にも介さず、帝は道士を慈寧宮じねいきゅうへと導いた。侍女ひとりを伴って寝所へ入れば、皇太后は天蓋てんがい付きの寝台で静かに横になっていた。すっかり白くなった髪は縮れ、艶を失った手足には染みが色濃く浮いている。

 皇太后は数年前から眼病を患っていた。瞳がひとたび白く濁り始めれば、またたく間に病状は進み、今では両目ともに光を失った。数多の医者が呼ばれ、様々な治療が試みられたが、成果を上げた者はいない。

 帝が退去するのを見計らい、道士は皇太后へ一礼した。そして、白絹の寝間着に手をかけた。

 老いた細い体が、鋭く震えた。


「男に触れられるのは、恐ろしいですかな」


 道士が訊いた。


「あえて好む者がおりましょうか。まして、私は――」


 厭わしげに皇太后は言葉を切った。察しなさい、と言わんばかりに。

 老いた背が、露になった。体をうつぶせに寝かせ、背筋の経絡けいらくを確かめると、道士は慣れた手つきで灸を並べていく。火を点ければ、焦げるもぐさの香が寝所に満ちた。


「これで、いくらかは気血きけつの昂りが鎮まるでしょう。並の眼病であれば、これだけでも充分でしょう、が」


 含みのある言葉尻を、侍女が質す。


「皇太后様は、並の眼病ではないと仰せですか」

「我が見立てでは、由来は気血の偏りではありませぬな。むしろ七情、すなわち喜・怒・憂・思・悲・恐・驚が鬱屈し、内傷となって眼精を苛んでおられる。七情の乱れは、薬石にて整えることは難しゅうございます」

「では、平癒の見込みはないと?」

「鍼灸や薬のみでは、どうにもなりませぬな。ただ――」


 道士はふたたび、皇太后へ向けて一礼した。


「皇太后陛下。失礼ながら、心当たりはありませぬかな。両の目を損なうほどの、深い悲憤や憂悶に」


 枕の上から、掠れた声が答えた。


「ええ……あります。ありすぎるほどに」


 皇太后は、深い溜息を吐いた。


「見えなくなってからは、殊に。かつて目にした多くの呪わしいありさまが、見えぬ目の裏に浮かんでは、私を苛んでおります……永劫えいごうに逃れられぬと言うかのように。今ここに在るのは、栄華の臨安であり、錦繍きんしゅうをまとう人々であり、慈愛に満ちた帝であるというのに」

「ならば、失礼ながら」


 道士は顔を上げた。灸の並ぶ老いた背を、髪の薄くなった後ろ頭を、静かに見つめる。


「お話を、聞かせてはいただけませぬかな。話せるところだけでかまいませぬ。ただ、胸中に凝り固まった鬱屈は、気血の流れを滞らせ、七情を昂らせて御身を傷つけまする。話せば、緩むものもありましょう」

「その言葉が真かどうか、今の私にはわかりませぬが」


 太后はうつ伏せのまま、低く小さな声を発する。


「少しばかり、語りましょうか。この見えぬ目に、何が浮かんでいるのかを……靖康の受難より此の方、私が見てきたものどものことを」

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