第42話 月の地平線から
「……静かだね」
久しぶりに綾見がぽつりと口を開いた。依然として周囲に目新しい動きはない。
「うん……」
宇宙は無音と聞いたことがあるが、境界線が海にあったのが原因とは思うが、ときどきコポコポと泡立つ音がどこからか聞こえてくる。綾見がどう思っているのか知る由もないが、僕にとっては会話がなくても嫌な沈黙ではなかった。
「マリアさん、大丈夫かな」
「時間の進み方が違うし、まだ海面に向かって走っているんじゃないかな」
僕らが海に飛び込んでからどれくらいの時間が流れたのだろう。ずいぶん前に感じる。疲労はあるが、喉の乾きや空腹を感じないせいで時間の感覚をすっかり失ってしまった。当然時計も動いていない。深夜零時を指したまま深い眠りについてしまっている。
「戻ってしばらくは話題に事欠かないね」
「それも、ネタになりそうなことはまだ尽きてないってのが凄いよな」
目的地には近づいているのだろうか。近づいているとして、あとどのくらいなのだろう。八合目くらいには来たのか、それとも中腹にも至っていないのか。
「正直に言っちゃうと、結構不安」
唐突に綾見が本音を吐露した。
「星を元の場所に返さないと、私たちって元の世界に帰れそうにないじゃない? そもそも、どこから来たのかもう分からない。スタート地点もゴールも分からない。もし帰れなかったらって思うと……」
綾見の声はだんだんと震えてきた。当然だ、僕だって実のところかなり不安だ。でも口に出したら最後、綾見と同じく泣きそうになるのは明らかで必死に頭の片隅に追いやっていた。沈黙は苦にならなかったが、どうやら失敗だった。綾見の中で嫌な考えの侵攻を許す時間になってしまっていた。
「大丈夫だって」
自分で言って寒々しい。大丈夫と思わせる根拠はないし、実績だって当然ない。匠さんがいてくれたらと心の底から思う。あの人なら何て言って慰める? マリアさんなら? ……ダメだ、気の利いた言葉が何一つ浮かばない。僕の平凡な人生経験ではこの問いに対する正解を持ち合わせていない。僕がテンパっている間に綾見は肩まで震わせている。急降下するマイナス思考に対して自分で歯止めが利かなくなっている。
「綾見!」
なるようになれ! 正解なんか知るか! 心で叫び、僕は綾見の両肩を抱き、隣に座る僕の方に身体を強引に向けさせた。綾見の潤んだ瞳をじっと視る。
「泣いちゃダメだ! 根拠はないけどきっと大丈夫だから。綾見は大文字さんの姪だろ? それにまだまだヒヨッコだけど綾見と僕は匠さんとマリアさんの弟子なんだ。達成できないはずないし、失敗したら笑われちゃうよ。とにかく、大丈夫だから。僕がいる。二人で乗り越えよう」
いっきにまくし立て、息継ぎしようとしたら早くもネタ切れ、次の言葉に詰まってしまった。
「えっと、つまり……」
綾見の瞳を見つめていることが急に恥ずかしくなって思わず俯く。でも綾見の肩から手を離しはしなかった。励ましたい―一心だった。すると、綾見の肩の震えは止まるどころかさらに大きくなってきた。ぎょっとして顔を上げると、綾見は目を大きく見開いたまま、泣き笑いの表情に変わっていた。
「意外と強引なんだね」
その言葉に過敏に反応して、綾見の肩に置いた手を神速で離す。
「ごめんっ」
「ううん」
綾見は首を横に振る。
「別に……嫌じゃなかった」
「そっか、良かった。ちょっと自分もテンパってた」
拒否されなくて本当に良かった。ほっと胸をなで下ろす。
「とにかく、落ち着いたってことでいいのかな?」
「殺風景な風景のせいなのかな。無性に寂しくなっちゃった」
お騒がせしましたと綾見はペコリと頭を下げた。
「黙っているのが良くないのかもしれない。ネタ切れ上等で喋り続けよう」
「それもいいけど……」
不意に、綾見の手が僕の手に重なった。
「手、握っててもいい?」
「! ……手汗凄かったらゴメン」
頬を染めての上目遣い。その破壊力は筆舌に尽くせず。高鳴る鼓動の中、既に汗が滲んでいるのを自覚しながら僕は乗せられた手に指を絡めた。
ベンチで待つことが正解なのか分からないまま、僕らは反省を生かして雑談をしながら何か起きやしないとか時間を潰した。事務所のこと、この不思議な世界のことエトセトラ、そして、学校のクラスのことに差し掛かったとき、ついに動きがあった。綾見の手がピクリと動く。
「二見くん」
「ああ、僕にも視えてる」
僕らのいる月の地平線から何かが現れた。
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