第6話 枷

 イルカが、空を泳いでいた。

 まるで、水族館にいる姿そのままで、空を海にして悠々と葵やアスターの頭上を、楽しそうに遊泳している。


 嘘でしょ、と葵は空から視線を降ろし、さきほどまで遊具のあった場所を凝視した。にまにまとした笑みを浮かべてこちらを見るアスターを通り過ぎたその場所には、地面から黒いバネが生えているだけで、さっきまでここにあったイルカの姿はない。

 空から、嬉しそうなイルカの鳴き声が聞こえた。


「……やっぱり、夢だよ。明晰夢。イルカが空を飛ぶわけない」

「僕の魔法の発動に伴う掛け声は、確かに夢の始まりを促すそれだけどね。残念ながら、これが僕と君との間にある現実だよ」


 イルカが泳ぐその尾の先から、きらきらと光がこぼれていく。何度も光の輪を描いたイルカは、やがてゆったりした動きで葵とアスターのところへと潜水してきた。

 なつっこくこちらに身を寄せてくるイルカを、アスターが撫でている。そのイルカの体の表面は、遊具としてここにあったときのような無機質な硬さはなく、確かに心臓を持った生き物に見えるのに、その表面には塗装が剥げたかのような模様が刻まれていて、それが、目の前の空飛ぶイルカが、先ほどまで、確かに太いスプリングで地面と結びつけられていた遊具のイルカだったのだと、証明しているみたいだった。


「これが僕の得意な魔法。無機物に一定時間だけ、命を吹き込む魔法です。……信じてもらえた?」

「……現実味がなくて、なにが、なんだか」


 イルカがこちらに体を寄せてくる。促されるままに触れれば、昔、水族館のイルカショーでイルカに触れた経験が、手のひらから思い出された。本当に、生きている。触れている。呆然とアスターを見れば、彼は得意げな顔で葵のことを見つめていた。


「でも、信じるしかないでしょう?」


 イルカが身を翻す。そして、まるで天上の月をボールに見立てるようにして大きく空へ跳躍すると、見えない水面へとざぶんと飛び込むようにこちらに一直線に落ちてきた。その瞬間、ぱっと光が散って、再び葵が目を開いたときには、目の前には固くて小さい、イルカのスプリング遊具の姿が、元通りにそこにあった。


「僕たち、魔法使いは」


 アスターが腕を振る。ふっと杖がかき消えて、葵の世界にまた、夏の音が戻ってくる。蝉の声が、油蝉のそれから、ヒグラシの涼やかなものへと変わっていく。だんだんと辺りが暗くなる。


「こうして縁を繋いだ人間の、願いを叶えるためにここにいる」


 硬くなったイルカの背に手を置いて、アスターは目を伏せて笑った。その瞳が、ゆるりと横に逸らされる。


「とはいえ、何も善意からそうしているわけじゃない。僕たちが、君たちの願いを叶える理由はただひとつ、自らに課された刑期を短くするためだ」

「刑期?」

「有り体に言えば、囚人ってこと」


 首を傾げた葵に、特に何の気負いもなくアスターが言う。


「魔法で隠蔽されているから、露見することはないんだけど。実は、月に大きな監獄があるんだよ。僕も、本体はあの場所で幽閉されている。で、時々こうやって外に出されて、刑期の短縮を餌に、奉仕活動をしてこいって働かされてる状態ってわけです」


 囚人、隠蔽、監獄、幽閉。先ほどから重々しい言葉ばかりが、アスターの口から並べ立てられている。葵の中での魔法使いといえば、南瓜を馬車に変えたりといった童話の中に出てくるような、誰かを手助けする善人の姿だったから、思わずこめかみを指先で揉んだ。


「なんか、魔法使いのイメージが……」

「君がどんなイメージを持っていたのかはさておいて、そもそも現代社会における魔法使いなんて、自己都合で悪さをするやつか、悪さをして月に幽閉されているやつのどっちかしかいないって」


 そうなると、いま目の前で説明をしてくれている彼は、後者ということになる。


「悪魔の魔に、法則の法で魔法だよ。悪魔と取引して初めてその法則を使うことが出来るんだ。つまり、悪魔と取引するような、ろくでもないやつしかいないってこと」

「悪魔とかもいるんだ……」

「いるいる。どうしようもない悪魔と、あと救いようのない天使とかね」


 魔法使いという言葉と、魔法を実際に見せられてしまった現実だけでもすでにお腹がいっぱいで、消化するのに時間がかかりそうだというのに、悪魔だの天使だのさらにファンタジーな言葉たちがファンタジーな彼から飛び出してきて、葵は頭が痛くなった。まだ自分が取ったカプセルトイの魔法使いたちが命を吹き込まれて動き出した方が、葵はすんなり状況を受け入れられたかもしれないと思う。

 自分の思考に潜る葵の傍らで、同じく自身の思考に意識を割かれて遠い目をしていたアスターは、ハッと我に返るとひとつ咳払いをしてから、再び葵と正面から向き合った。


「で、話を戻そうか。そんなわけだから、僕は君の願いをかなえなきゃいけないわけなんだけど……」

「……」

「……何て言ってたっけ、君」


 先ほどまで流暢に話していたアスターの言葉が、急にぎこちなくなる。その理由を葵は分かっているけれど、こっちだって、正気の状態で再びそれを口にするのがどれだけ勇気が居ることなのか、考慮してもらいたいものだ。もはや、やけくその気持ちで、葵は言った。


「…………彼氏が、欲しい。って、言ったかな……」

「そうなんだよね……」


 正直、聞き間違いとして処理してほしかったし、なんなら掘り返さないでほしかったまである。

 かあ、と葵の頬が熱を持つ。じわじわと足元から這い上がってきたいたたまれなさが、葵の口を開かせた。


「わ、訳が分からないまま、咄嗟に口に出しただけだから、別に叶えなくてもいい、よ?」


 彼氏が欲しい、とは口にしたが、恋に恋するような淡い気持ちだ。

 好きな人がいるわけではない。彼氏のいる友人が幸せそうに笑う姿をみて、いいな、と思った、そのくらいだ。必死になってしがみつくような願いでもない。

 動揺のせいで、敬語が取れたことにも気付かず、葵は言葉を重ねた。


「私より、ほかの人の願いを叶えに行った方が、刑期も早く終わるだろうし」


 ぴく、とアスターの目元が動く。一瞬だけ見えた剣呑な光に葵が肩を揺らす間もなく、それは長いまつげと一緒に伏せられて、はあ、とため息が零される。


「そうしたいのはやまやまなんだけど」


 それから、もう一度瞼が持ち上がって、アスターの瞳が葵を射貫いた。


「僕を引き当てたのは君だ。縁が繋がれてしまった以上、僕は君の願いを叶えるまでは、君から離れられないんだよね、これが」

「はい?」

「手首は見た? なにか、黒い痣とかない?」


 アスターが彼自身の手首を人差し指でトントン、と叩く。その動作に葵は自分の両の手首を確認するように腕を上げた。

 とたんに「あ」と葵は小さく声を上げた。自分の右手首に、黒い痣のようなものが、ブレスレットのように一周している。


「で、僕はここ」


 そして、襟に指先を引っかけて露わにしたアスターの首にも、葵の手首に合ったような痣がぐるりと一周していた。


「これは、僕が君の願いを叶えない限り、消えることはない」


 目を伏せながら、まるで首輪のようなそれを、アスターが見せつけるように指先でなぞる。それをみてやっと葵は、彼が言った「囚人」という言葉を、目の前の魔法使いと結びつけた。


「これがある限り、僕が君以外の誰かの願いを叶えても、僕の刑期が短くなるようなことはない。だから僕は、必然的に君の願いを叶えなければいけない」


 そして理解した。いま、彼の「監獄」は、葵だ。

 なんか悪いことしたな、という気持ちが、少しだけ湧いた。葵があのガチャポンを好奇心で引かなければ、きっと彼はさっさと誰かの願いを叶えることが出来ただろう。

 と、同時に、いやこっちだってとばっちりだと不貞腐れたくなる気持ちが、半分くらいはあった。こっちはただ自分が好きなガチャポンを引いただけだ。自分の願いを叶えてくれなんて一言も、誰かに頼んだ覚えはない。相反しながら、どっちも本心だから困る。

 謝るのは、違う気がした。だからって八つ当たりするのも、間違いなく後味が悪い。結果、言葉に詰まって俯いてしまった葵の視界に、イルカの遊具を迂回して近付いてきたアスターの革靴が入り込む。


「君、下の名前は?」

「……葵」

「アオイね。改めて、僕はアスター。君の願いを叶えるまでの間、どうぞよろしく」


 ばちり、と。顔を上げた葵と、見下ろしていたアスターの目が合う。

 挑戦的に微笑まれたその笑みに、思わず唇を引き結んでしまったのは、異性とここまで間近で顔を合わせたことがないからだと、葵はそう思うことにした。

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