第23話 Vanilla Sky

 壮介は必死にアクセルを踏んで瀬那の家に向かっていた。

 なぜ俺はあんな些細なことで怒ってしまったんだろう。同僚たちが言ってた女の格好をしていた男だったらという言葉に、一瞬でも疑ってしまったんだろう。

 いつもの道がまるで果てしなく続く地平線の彼方にあるかのように遠くもどかしい。

 一度電話をかけたが瀬那は出なかった。できることなら出るまでかけ続けたかったが、万が一犯人を刺激してはまずいというチームの判断もあり電話をかけられないことが、壮介の不安をさらに掻き立てる。

 頼む、頼むから無事でいてくれ。君が無事なら、それ以上の贅沢は望まない。君が傷つけられることが、今は何よりも怖いんだ。

 ようやく瀬那のアパートの前に着く。はたの車は見当たらなかった。壮介は今にも心臓が飛び出しそうになるのを堪え、他の警官たちと静かに瀬那の部屋のドアまで進んだ。

 もしも……もしもこのドアの鍵がかかっていなかったら……。

 ドアの取手にかける壮介の手が微かに震える。そっと取手を手前に引くと、ゆっくりとドアが開いた。

 まさか……!

 「瀬那!」

 「壮介さん?!」

 中に踏み込むと、玄関に立っていた瀬那が驚いたように壮介を見つめていた。

 「瀬那? 無事か? 大丈夫なのか?」

 「え? どうしたんですか? 何が……」

 言い終わらないうちに、壮介は瀬那を強く抱きしめた。警官たちが慎重に部屋の中を調べる。

 「誰もいません」

 「あの、何かあったんですか?」

 「秦は?」

 「送ってくれた刑事さんですか? ついさっき、そのまま車で戻っていきましたけど……」

 「大丈夫か? 何もされなかったか? 薔薇とか、マニキュアとか」

 「大丈夫ですよ。普通にただ送ってもらっただけです」

 「何で電話に出なかった?」

 「あ、電話くれてたんですね。ごめんなさい、気づかなくて。店だとマナーモードにしてるから」

 「鍵は? 鍵をかけとけって言っただろ」

 「今かけようとしたら壮介さんたちが来たから……」

 壮介は大きく息を吐いた。他の警官たちの方を向いて頷き、秦の自宅に行くよう指示をする。警官たちが瀬那の部屋から出ていくと、壮介はもう一度瀬那を抱きしめた。

 「俺が悪かった」

 「どうしたんですか? 壮介さんは何も悪いことしてないのに」

 「もどかしかったんだ。陽大はると蒼空そらくんといい感じになってるのに、俺はいつまでたっても君を送るだけで、ただのレストランに来る客としか見られていないんじゃないかって、苛々してた」

 「そんな、ただの客だなんて」

 「ゆっくり時間をかけようって自分では思っていたけど、君に会うたびにどんどん気持ちが抑えられなくなっていって、それでつい怒ってしまって……ごめん」

 瀬那は壮介の背中を優しく撫でた。

 「謝るのは私の方です。本当はもっと一緒にいたいのに、どこかで自分を抑えてしまってたんです。私なんかでいいのかって考えてしまって……自分に自信がなかったんです。送ってもらえるだけでも幸せだって思わなきゃって」

 壮介は抱きしめていた腕をほどくと、瀬那をまっすぐ見つめた。いつもと変わらない、優しい眼差しで自分を見つめるその顔をそっと撫でる。

 「私なんかって言うな。俺は君じゃなきゃダメなんだから」

 「壮介さん……」

 「瀬那、君が好きだ」

 瀬那はほっとしたような表情で微笑んだ。その頬にできるえくぼが愛らしい。

 「お願いがあるんです」

 「なに?」

 「やっぱり、送ってもらうのは壮介さんがいい。ううん、壮介さんじゃなきゃ嫌です」

 「もちろんだ。今後一切、俺以外の奴に君を送らせたりなんかしない」

 「それじゃ、今度は送ってくれたら……部屋でコーヒーを飲んでいってくれますか?」

 壮介は嬉しそうに大きく頷いた。そのまま二人は見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねていった。


 ちょうど陽大たちが秦の自宅に着いた時、壮介から瀬那が無事だという連絡が来た。陽大は小さく安堵のため息をつく。

 事前に連絡をしておいたアパートの大家が、部屋の前で鍵を持って待っていた。

 陽大はここに来る直前にふと思いつき、人事課によって確認した秦の身上書の内容を思い出す。

 果たしてここで何か見つかるだろうか?

 鍵が開き、警官たちが中に入る。部屋の中には誰もおらず、2DKの部屋は整然と片付けられていた。

 手がかりがないかと探し始めた時、陽大の電話が鳴った。蒼空からだった。

 仕事中に蒼空が電話をかけてくることは滅多にない。嫌な予感がして陽大は電話に出た。

 「もしもし、蒼空? どうした?」

 「ああ、陽大、よかった。あのさ、ちょっと聞きたくて」

 「何かあったか?」

 「今、フルールの店長から連絡が来たんだけど、電話で青い薔薇を注文した人がいたんだって」

 「青い薔薇? いつ?」

 「さっきみたい。でも警察の人だったって。その刑事さんが捜査の一環だって言って青い薔薇を四本注文したんだけど」

 「捜査の? そんなの聞いてないぞ」

 「そうなの? 何か急いでるみたいだったって。後で取りに行くって言って切れたんだけど、青い薔薇のストックが店になくて、造花でもいいか確認したいって言ってるんだけど、どうしたらいい?」

 「後で取りに行くって言ってたんだな? わかった、確認してすぐ電話する。もう店は終わったろ?」

 「うん、さっき閉めた」

 「鍵かけて、俺が行くまで店の奥にいてくれ」

 「……何かわかった?」

 「まだ確定したわけじゃないけど、現職の刑事が関わってる可能性が高い」

 陽大は部屋の中を調べている警官たちに、花屋に向かうよう伝えた。

 「俺もすぐに行くから」

 「わかった。陽大も気をつけて」

 「十分で行くから待ってろ」

 「うん……あ、すいません、もう店は終わったんです」

 電話の向こうで蒼空が誰かと話している声が聞こえてきた。

 「蒼空? 誰か来たのか?」

 「それが……あっ、ちょっと待っ……」

 陽大の問いかけに答える間もなく、蒼空の電話から突如銃声が聞こえてきた。突然のできごとに、陽大は一瞬頭がパニックになる。

 銃声? 蒼空の店で? 秦なのか? なぜ?

 「蒼空!? 大丈夫か!?」

 返答がない。見ると、電話は切れていた。慌ててかけ直すが、いつまでたっても応答はなかった。

 陽大は息が止まりそうになるのを必死で堪えて車へと向かった。ただごとではない陽大の様子に、後輩の刑事が咄嗟に車のキーを取り、陽大を助手席に押し込んだ。

 「俺が運転します」

 「いい、俺が行かないと」

 「すぐ行きますから、都築刑事はシートベルトをしてください」

 「待て、俺が……」

 「そんな状態じゃ事故を起こします!俺がすぐ連れていきますから、とりあえず落ち着いてください」

 たしなめる声がどこか遠くで響いているようだった。

 蒼空のいたずらっぽく笑う表情が浮かんでくる。

 あいつはいつも俺をからかうんだ。いたずらっ子のように意地悪をしたり、わざと拗ねてみせたり……。だからこれも、あいつの悪戯だ。そうに違いない。今朝、俺が起きるのが遅かったから怒っているんだ。そうだ、きっとそうなんだ……。

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