第35話 ヒント
ここにいる多くの人は、終点までには降りるだろう。
だから、終点がどんな所か知らないはずだ。
知らない所から来た、知らない所に向かっている乗り物に乗って、それらを知らないまま途中で降りていく。
知らないことや知り得ないことだらけで、自分の周り全てが少し暗くなったように感じた。
何分か経った後、それが当然であるかのような顔をして電車がやってきた。
私たちも、それが当然であるかのような顔で乗車した。
大学が歩いて行ける距離にあるから、朝の時間の電車に乗るのは久しぶりだ。
久しぶりの、誰もが見栄の鎧を脱いだ空間には、安心感を覚える。
しかし、私の内側にはもう、安心感を生じさせるものはない。
孤独と虚無の苦しみしかないのに、私の脳は安心だと判断している。
心は体だけでなく、この考える自我とも離れてしまったのか。
乗り換える駅に到着するまで、SNSのtwinkleでニュースを見ていた。
ここ十数年で景気の悪化が進み、特に昨年度は何も起きていないのに、災害が発生した時と同レベルの悪化が見られたらしい。
素直に私の成人を祝えば良かったものを。
精神疾患患者の増加を食い止めるべく、一時的に感情を麻痺させる薬が発売されたものの、増加率がさらに上昇してしまった。
感情が回復しないから、それを脅かすものに対して過度な潔癖症になっているのだ。
その脅威を細菌に例えたら、私はその培養液に全身が浸っている状態になる。
こんな私から逃げないで欲しい。
この二つの問題は、表から見れば前者が後者の主な原因だが、裏から見れば、普段偉そうにしているわりには小心者であるという、もっと根本的な原因が姿を現す。
何にせよ、どちらの問題も、解決の鍵を握るのはこの私だ。
だから一刻も早く、誰か私に手を差し伸べてください。
私の切なる叫びは、まもなく到着することを知らせるアナウンスによってかき消された。
電車が止まり、自分の目の前のドアが開いた。
くだらないことを考えていたからか、先導者になってしまった。
自分で動いているのか後ろの人に動かされているのかわからないまま階段を上がった。
地上に出て、改札が視界に入った時、思い出した。
過去の過ちと、同じホームで乗り換えできることを。
改札に向かう流れを利用して横の壁に逸れ、反対向きに進むべく、そこで一旦止まった。
少し前まで居心地の良さを感じていたのに、少し向きを変えただけで居心地の悪さに変わった。
人の流れが収まるまで、しばらくその場に留まることにした。
その間も、異分子であることの疎外感を身に受け続けた。
疎外感とは、孤独と根拠のない恥ずかしさが混ざったものだ。
そのため、私は今、心の壁を刺す恥ずかしさと、心の穴から伝わる孤独によって、挟み撃ちにされている。
しばらく弱い者いじめが続いたが、そのおかげで重大な事実に気が付いた。
私が今まで心の壁だと思っていたのは、肉体のことだったのだ。
感情が少しでもある頃は、同じ場所にありながら、心は心、体は体という風に、無意識に分けて考えていた。
ところが心と体は、感情によって繋ぎ目がなくなるほど、なめらかに連結されていたのだ。
おそらく、自我意識も同様だろう。
人が少なくなってからホームに戻った。
既に電車を待つ人の列がたくさんできていた。
数分後に電車は来た。
私は列の最後の方だったが、ドア付近になんとか乗車できた。
「あれ?すごく久しぶりじゃん!」
声のする方を向くと、すぐ近くの手すりにもたれて青井さんが立っていた。
「本当に久しぶりだね。最後に話したのは一年以上前だよね?」
「そうそう!それぐらい振りだ!教室では見かけてたんだけどね〜」
「今はどこへ行こうとしているの?」
「就活のことで学校に行こうと思って〜」
「偉いね、もう始めてるんだ」
「まあね〜。これから始まる長〜い社会人生活の、スタートダッシュでつまずきたくはないからね〜」
「長い……のか。働くのは嫌じゃないの?」
「そりゃ〜できたら働きたくないけどね〜。まだましな仕事に就いて、趣味を充実させたいかな〜」
「嫌なのにどうしてできるの? ……まさか……」
「よく覚えてたね〜。ここでも思い切るんですよ〜」
そう言いながら青井さんの表情が放っていた空気は、通勤時間の電車内に、瞬く間に溶けていった。
「まさかまたその言葉が聞けるとは。それだけ好きな趣味があるんだね」
「そこまでではないけどね〜」
「そうなのか。じゃあ一体何のために?」
「う〜ん。突き詰めれば生きるためになるかな〜」
「生きるため……」
「その顔は、生きたいと思ってない感じ?」
「生きたい……。どうなんだろうね。わからないや」
その言葉を発した途端、心から見える景色が真っ暗になった。
「そっか〜」
……。
会話が修復不可能な途切れ方をしたのも束の間、電車が最寄り駅に到着した。おかげで、沈黙の原因を上書きできた。
青井さんはキャンパス内のキャリアセンターに行くようなので、途中まで一緒に行って、私はそのまま蓮の池に行くことにした。
「そういえば生き物で思い出したんだけど、ミドリムシのドーナツって食べたことある?」
「抽象的だな〜。ミドリムシはさすがにないよ〜」
「実は、少し前にミドリムシのドーナツを食べなければならない状況になったんだけど、食べて以来、あらゆる輪っかがミドリムシのドーナツに見えるんだよ」
「拷問でも受けてたの? てゆうか幻覚見えてるじゃん!」
「さっきの電車とか、ミドリムシのドーナツいっぱい吊るされてたよね」
「吊り革だよ!?
じゃあ穴はどう? そこに立て掛けてある木材とか穴空いてるけど……」
「その周りが円で囲まれてなければ大丈夫みたい」
「そっか、じゃあ真ん中の何も無い所に反応してるわけじゃないんだね」
「あれ〜? 変ですね〜。普通、ドーナツと言ったら、リングの方に注目すると思うのですが〜、あなたは中央の空間に意識を向けました〜」
「洞察力に優れた刑事の真似しなくていいから! 何も起きてないんだし……」
「ごめんごめん。それで結局、なんで何も無い空間が気になったの?」
「実は最近、色々な企業のホームページを見てて、その中でドリルを製造してる会社のホームページに、ほら!」
見やすいようにこちらに向けてくれた携帯の画面を見た。
青井さんが示した指の先には、
『穴とは、空けられた物体を指すのではない! 何も無い部分を指すのだ! 我々は、無限の可能性を秘めた【無】を! 完全無欠な【無】を! この手でこの世に生み出すのだ!』
と、習字のフォントで大きく書かれていた。
「強烈だね。この企業に入りたいの?」
「う〜ん。どうかな〜。ただ、就活生向けのページに、『私たちの会社は常に穴場でありたいので、あまり周りの人には話さないでください。』って書いてあったんだよね〜」
「その会社は大丈夫なの? それに、口止めされてることすら話してるけど」
「まあ変わってるな〜とは思うけど、穴場ってことは、良いところなんだよね?」
「穴場って言葉自体にはそういう意味もあるけど……。あんまり自分から言うことではないかな」
話しているうちに、キャリアセンターのある棟の入り口に着いた。
「それじゃあ私はこっちだから、またね! あっ、ドーナツにはお気をつけて!」
「ありがとう。君も、体に風穴を空けられないように気をつけてね」
「あ、ありがとう……」
青井さんは、辺りを気にしながら建物の中へと消えた。
それを見届けてから、私はそのまま蓮の池へと向かった。
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