第33話 感情との別れ
一階まで降りて、初めと同じように受付の方に説明してゲートを通してもらった。
その時に、天井から「このゲートを通る者は、一切の希望と無駄を捨てよ」と書かれた横断幕が掛けられているのを見てしまったので、ここでは働くまいと誓った。
そのまま進んでエレベーターを上がり、元々いた部屋に戻った。
医師が来るまで、[パンセ]について書かれた本を読んでいたが、少し時間が余ったので、持ち物を確認することにした。
まずは執事の楠木だ。
私のもとに来て以来、いつも行動を共にしている。
次に、羊のぬいぐるみだ。
前回の実験を間近で見守ってくれた方だ。
このぬいぐるみ、顔が老年時代のゲーテの肖像画にほんの少し似ている。
そのため、とうの昔に電池は切れてしまっているが、そうでなければ「時よ止まれ、汝はiいかにも美しい」と可愛い声で音が鳴る。
眺めていると、ふと、電池が入れたままになっているのが、実験に影響しないか心配になったので、外しておいた。
そうしているうちに、医師が部屋にやってきた。
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です」
「それでは参りましょう」
「はい」
医師に連れられ、この建物の中央にある階段へ向かった。
歩き始めてすぐに、階段のある空間に到着した。下を見ると、灰色の四角い螺旋階段が下まで続いていた。
夜なので天窓から光が入らない上に、最小限の電灯しかないので、無限の闇の中へどこまでも続く階段が、少なくとも光の届く範囲まで伸びているように見えた。
一つ下の階に下り、その空間を出た。
そのまま歩いて、前回とは違う部屋に案内された。
中に入ると、前回の実験の時と同じような空間が広がっていた。
一つだけ違うのは、スーツの色が、吸い込まれそうなほど混じり気のない白色であることだ。
「移植の際の手順と基本は同じになります。眠る時はこの睡眠薬を服用してください。念の為二つ入れてあります」
「わかりました。ありがとうございます」
それを聞くと、医師は軽く一礼して部屋を出て行った。
一人になった部屋で眠るための支度を済ませ、不気味なスーツに身を包んだ。
受け取ったケースを開けると、それぞれ赤色と青色のカプセルが入っていたので、私は赤い方を選んで飲んだ。
枕元にぬいぐるみ達を移動させ、ライトを消し、ファスナーを最後まで上げて、横になった。
睡眠薬の効果が出るまで、まだ時間があるようだ。
せっかく少し時間ができたのだから、感情の遺言を聞いてやろうと思ったが、か細い声だったので全ては聞き取れなかった。
聞き取れたのは、
(身はたと◯ 無限の彼方に 散◯うとも 留◯置◯まし 利他◯輝き)
だけだった。
それでも、その魂は掴めただろう。
その直後、心の穴から「是非に及ばず」という声が響いてきた。
この期に及んでそんな言葉を吐くとは思わなかった。
感情に対する最後の情けなのだろうか。
それとも、私のこの選択は誤りで、もう取り返しのつかない所まで来てしまったということなのだろうか。
それか、まだ何かあ……。
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