第20話 かえる
改札を入って、行きに通った経路を逆走している途中に、例のオペ室のことを思い出した。
あの方の伝家の宝刀は、手術用メスの形をしているのかもしれない。
ホームに到着した時、タイミング良く電車も到着した。
この時間帯でも結構な人の数が乗車していたものの、大半の人がこの駅で降りたため、難なく座ることができた。
大きな駅はこの先もうないので、車両内に消化試合の雰囲気を充満させながら、電車が出発した。
電車は、しばらく地下を走った後、地上に出た。
そこからは、夜の街が見える車窓をモニター代わりに、今日の走馬灯を見た。
悲しい影が差した青井さんの表情が映された。やはり、よほど印象的だったようだ。
心の重りは当たり前の存在で、そしてそれを思い切るという手段で対処している。
その時は敢えて何も言わなかったが、今の私には思い切れるものがあまりない。
心の重りの周りに、もやがかかるように感情が漂っているばかりだ。
心の中でどうやって思い切っているのかわからない。
思い切るとは、広く言えば心の中で何かを一区切り付けることだ。
大抵は迷いやためらいに対してそうするわけだが、青井さんは心の重りや空洞に対して行うことも、同じように見ているのだろう。
私は、心の重りはともかくとして、迷いやためらいに対しても思い切れた記憶はそれほどない。
それに、感情を移植してからは、決定権はほとんどタイムリミットに取って代わられたと言っていい。
そして、緊張や恥のみならず、絶望に飲み込まれて自我を埋没させる決断に対する思い切りすら、失われているだろう。
また経験的に、これらにタイムリミットはないように思う。
言い換えれば、そんな決断を迫るものは存在しないということになるかもしれない。
心の重りの存在を思い切るとはどういうことなのだろうか。
ふと心の重りに意識を向けると、捨て犬のようなつぶらな瞳で、「そもそも思い切らないといけないもの?」とささやいてきた。
今更そのキャラクターは無理があるのではないか?
それよりも、早急に訂正しなければならないことがあった。
それは世間に対する認識だ。
セツナーと一括りにしていた世間の認識を変えなければならない。
苦しみなどから目を背けようとしているのは間違いないが、だからと言って皆が諦めて開き直っているとするのは、暴論だったようだ。
極端な選択ができない理由として、青井さんは、多くの人は自分自身何が好きで何が嫌いかわからないと洞察していた。
それは人の中で生きながら観察して見つけたものなのだろうが、表情から察するに、他人より何より自分がそうなのだろう。
そして、今の私はその不明瞭さが表面化しているのだと思う。
だとすると、はっきりしない理由は、感情を根拠にしているからなのかもしれない。
感情とは実に流動的で、名前をいくつも持つスパイのような存在だ。
それも、映画の主人公のような忠義のあるスパイではなく、自分の利益しか考えず、主人を簡単に変えるような性悪なスパイの方だ。
そのような者を拠り所にしていたら、自分の価値基準がわからなくなっても無理はない。
それに対して、心の重りは変わらなさ過ぎだ。
その不変な振る舞いによって様々な顔を見せるが、本質は何一つ変わらない。
ある意味これだけ信頼を置く値打ちのある者はいないだろう。
そう思った時、心の重り様が「苦しゅうないぞ」とおっしゃった。
どうやら先ほどのキャラクターを演じるのは諦めたようだ。
確乎不抜とした方だが、キャラクターには迷走しているらしい。
極端な選択と言っても、偉大な道を行く人のような確固とした信念があってのことではなく、やけになって感情に身を任せ、取り返しのつかない結果になってしまった場合も多いのではないだろうか。
確固とした信念を持つには、苦と向き合わなければならないらしい。
刹那に逃げるのは真逆の行為だ。
やはり、私は私の苦に向き合わなければならないようだ。
窓に馴染みのある景色が映し出され始めた。
行きと同じ暗い夜の町だが、見受けられる人の数は確実に減っている。
それから瞬く間に人の居ない最寄り駅のホームに変わった。
私の乗っていた車両からは、降りたのは私だけだった。
外に出ると、動的な夜だったのが静的な夜に変わっていた。
通る車はほとんどいないし、数少ない偶然降り合わせた人も、不均一に舗装された道路を歩く途中で、どこに通じているのかもわからない曲がり角を曲がって消えていく。
みんな、今日を終わらせるために動いていたようだ。
終わりは、一人で迎えることしかできない。自分以外、何も持っていけない。
とはいえ、私は始めから心の重り以外、何ものも持ち合わせてはいない。
この外出で、一体私は何を得たのだろうか。
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