第15話 習慣の揺らぎ
暗闇は十分堪能したので、すぐさま照明を点けた。
明かりでさえも、誰のものでもない雰囲気を吹き飛ばすことはできないようだ。
部屋に入ってリュックを置くと、まずユニットバスのお風呂場に向かった。
もし帰宅の勢いでお風呂に入らず、先に夕飯を食べるなどして流れを止めると、再びエンジンをかけること叶わず、二度とお風呂に入る機会は訪れない。
家に帰るまでが遠足だと言うが、私にとっては家に帰ってお風呂に入るまでが戦なのだ。
しばらく硬直してシャワーを浴びてから、髪を洗い始めた。
バイトの時に感じた固定ができない現象の近縁種がここにも居る。
習慣という固定された動きが少し溶解しているのだ。
いままでは無意識に流れるように行えたことでも、時々詰まってしまう。
その度に意識して考えなければ動き出せない。
お風呂で行うことは、一括りにしていいのかと思うほど詰まる頻度が高い。
そのため、気力というモーターを酷使する時間となってしまう。
一方でそのおかげか、シャンプーをしたか忘れてもう一度洗うなどというようなおっちょこちょいは減った気がする。
全身を洗い流してバスタブから出た。
少ない置き場にバランス良く積んでおいた着替えを身に着け、一日の終戦を告げるかのように威厳をもって扉を開けた。
コップ一杯の水で喉を潤し、冷凍庫に入れておいた白米をレンジで温めた。
お米は解凍するのに時間がかかるので、その間に冷凍食品のお弁当のおかずシリーズのうち、唐揚げとほうれん草の煮浸しを取り出した。
お米は一度のレンジで全体が温まることはない。
確率は均等ではないのだ。
灼熱の砂漠みたいな場所もあれば、凍てつく極寒の地もある。
一度目の温めが終わり、お米を取り出した。
外側は温まっていたが、そんな見せかけだけの温かさに私は騙されない。
外面は炊きたてご飯でも、内部は凍った泥団子のようになっている事も少なくないのだ。
だからといって、外面が凍った泥団子の時に中身が炊きたてご飯になるわけでもない。
事はそう単純ではないのだ。
外が冷凍泥団子なら中身は絶好調な時の保冷剤のようになっていることも多い。
実際に中身を確認するまでは真実は決してわからない。
火傷しないようにラップを剥がし、箸で割って中身を確認した。
今回は偶然経験則が活きたようだ。
私は内部に熱源を持つ人間になると意気込んで、もう一分ほど温めた。
お米が温まったので、次に冷凍食品も温めた。
皿洗いは面倒なので、お米はラップに乗せたまま、冷凍食品はケースに入れたまま机に並べた。
音を立てないように椅子に座り、心の中でいただきますをして、唐揚げを口に運んだ。
味がする。
疲れもあるのだろうか。味がする以上の感想が出てこない。
唐揚げは好物の一つなので、好みの味なのだが、美味しいという感想にはならない。
好みの味がするという味覚の次元ならはっきり認識できるのだが、美味しいという感情の次元には何も存在しないように思える。
美味しいと思うように努力しても、心に力が入らない。
どうやって美味しいと思えば良いのかど忘れしてしまった。
こういう時は無理矢理思い出そうとしても、決して思い出せない。
ど忘れとゲシュタルト崩壊と運動会当日の天気だけは、人間の手ではどうすることもできない。
どれだけ雨よ降れと念じようと、自分の顔にしか降らせることはできない。
食べ物たちには申し訳ないが、生命維持のためだけに摂取し、夕食を終えた。
お腹が落ち着くまで、台所にもたれてぼんやりとスマートフォンでSNSやニュースに目を通した。
学習量で言えば、ただ無心で川を眺めるのとほとんど変わらなかった気がする。
少し身動きが取れるようになってから、洗い物と洗濯の予約と歯磨きを済ませ、寝室に入った。
入ったといってもワンルームなので、部屋の呼び方が変わっただけである。
名前は変わったが、変化したのは周りではなく自分自身である。
逆に、たとえ環境が変わろうと、自分が変わらなければ世界は同じように見えるだろう。
もしこの部屋で料理をしている時に、ひとりでに布団が敷かれたとしても、自分の中では部屋の名前はキッチンのままだ。
もしかすると怖がりの人はお化け屋敷という名前に変えるかもしれないが、それも自分の心が恐怖に変わったためである。
私なら動じない。
この部屋を一目見た時から、至る所に刻まれた年季によって、既に微かに恐怖心を抱いていたからだ。
大学に入って、住むところも暮らしも、人間関係も変わった。
自分の外だけでなく、内側の感情までもが変わった。
うっすら認識していた心の空洞も少しはっきり見えるようになった。
それでも、私自身は根本的には何も変わっていないように思えてならない。
周りの物や人が違っても、この世界に対して抱く意味や価値は同じままだ。
今までの人生はシャトルランのようなものだった。
たとえ心が目的地まで追いつかなくとも、タイムリミットが来れば違う方向に走り出さなければならない。
大学入学も、タイムリミットによって決められた方向の一つに過ぎない。
そして、自分が変わらなければ、就職しようが結婚しようが子供が生まれようが、死のうが、おそらく同じだろう。
それでは変わる自分とは一体何だ。
外見や肉体の変化はほとんど関係がない。
感情だと何か物足りない感じがする。
心の空洞はそもそも変わる気配がない。
わからないので、とりあえず今日はこれくらいにしておいてあげることにした。
隣接する部屋から僅かに漏れる生活音をバックミュージックに[夜と霧]を少し読み、ぬいぐるみをいつもより近くに置いて目を閉じた。
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