第12話 省治学
三限目の教室は、一限目と二限目の教室の狭間にあった。
幾つかのグループが既に集まっており、反発し合う磁石のように、お互いのグループ単位のパーソナルスペースを侵さないように、絶妙に距離を取り合っていた。
私もできる限りその均衡を崩さないように席を選んだ。
先客たちは教室の後ろや窓側に集まっていたので、入り口側の後ろ寄りの位置に落ち着いた。
三限目の授業は、今年から全学部で必修科目となった[省治学]という科目である。
現代はあらゆる分野で行き詰まりを迎えている。
この大学では、その原因を、人間の外側からしか解決しようとしてこなかった点にあると見たようだ。
自分の内側からより良くしていくということが困難を極めるために、今までは見て見ぬふりしてきたが、これからはそれをしなければならない時代に入ったらしい。
そこで新たに、自己を顧みることに重点を置いて研究するプロジェクトを立ち上げた。
キャッチフレーズとして、ゲーテの言葉『いかなる政府が最上の政府であるか。我々自身を治めることを教える政府がそれだ。』を借りている。
つまり、内なるフロンティアに本格的に足を踏み入れたわけだ。
そしてこれこそが、私がこの大学に進学を決めた五番目くらいの理由である。
本を読みながら待っていると、少しずつ学生が集まり始めた。どのグループを見ても、そこに自分が馴染んでいる想像ができない。
今の状況はなるべくしてなっているのかもしれない。
いつも通り笑顔の化身アライ殿も、着地の瞬間から笑顔を発生させている。
授業開始が近づく時、少し騒がしい教室に、音も立てず講師が入ってきた。
年齢はおそらく壮年期ぐらいで、偽りでなさそうな勤勉さをまとっている。
ほどなくしてチャイムが鳴った。
鐘の知らせるものが授業開始の合図だけなのが、これほどありがたいことだったとは。
「それでは七回目の講義を始めます。
前回までは、人間がよくする振る舞いや、考え方の癖、性分といったような、良くも悪くも人間の人間らしい一面を学んできました。
様々な心理学用語や、先人達が遺してきた人間への考察が出てきましたが、根本的には苦を避け楽に流れようとする本能の成し得る技である、ということでした。
そして私たちが最終的に達成したいのは、自身の内なる苦に向き合えるようになることです。
そこで、これから学んでいくのは、苦と向き合うとはどういうことか、についてです。
まず、誤解してもらいたくないのが、楽を排して苦だけを追い求めようという苦行を強いているのではないということです。
そこまで行くとあまり人道的とは言えませんし、人間の弱さや醜さを完全否定する、ある意味楽であるとも考えられます。
私たちが目指すのは、もう少し詳しく言えば、向き合うべき苦に向き合えるようになるということです。
逆に、向き合わなくて良い苦まで背負うことはしてはいけないと言っても良いでしょう。
そんなことをしていたら人間は壊れてしまいます。
私は少し肥満気味ですが、もしドーナツを断つようなことをしたら、しなかった時より早く死ぬでしょう。
というのも、私の心と体はドーナツの鎖でかろうじて繋がっているので、ドーナツがなくなれば、たちまちただの肉塊となってしまうのです。
より善く生きるためにドーナツ欠乏症で亡くなるというのは、本末転倒でしょう。
そういうわけで、向き合うべき苦を見定める必要が出てきました。
つい目を背けてしまうことなら何でも良い、というわけにはいかないのです。
では向き合うべき苦である要件とは何か。
それは、自分を自分たらしめる苦であるかどうか、この一点だけです。
嬉しい時も悲しい時も、いついかなる時でも手放せない苦。
あらゆる言動、思考、感じ方を決定している、自分の中の公理のような存在。
それこそが向き合うべき苦であるということです。
どうしてそれに向き合うべきなのか。
それは、人間が幸福になるために生きているからです。
具体的にどういったものが幸福と言えるかは人それぞれでしょうが、ただ表面的にいい気分である状態よりも、幸福が自身の命の底まで貫いている方が正しいのは疑う余地もないでしょう。
また、自分そのものと言えるような苦であるだけに、決して逃げ切ることができません。
高い家具に囲まれた部屋に居ようと、放蕩三昧な生活をしようと、地下シェルターに逃げ込もうと、もしかすると死をもってしても、逃れることはできません。
さらに、逃げれば逃げるほど、その苦しみは大きくなります。
なので、手を付けられなくなる前に、少しずつ向き合わなければなりません。
要は、虫歯になったら早く歯医者に行かなければならない、ということです。
ドーナツが噛めなくなってはいけませんからね。
そして次に、苦と向き合うとどうなるかについて話していきましょう。
先ほども話した通り、自分が自分であると確定させる苦であるだけに、できることと言ったら、向き合うか逃げるかしかありません。
つまり、どうなったら幸せか、どういう状態が幸せかというイメージを具体化できなくなるのです。
そうなると、色々な問いが生まれてしまいます。
どうして私は生きているのか、生きることにどんな意味があるのか、どうしてドーナツのある時代に生まれ合わせたのか、と。
そして最終的には、この世の理がどういったものかという問いにぶつかります。
それら全ての問いに共通して言えることは、何も確実な証明がなされていないということです。
そうなってしまうと、自分で学んで、考えて、信じるしかありません。
ここから先は、私自身も未踏のステージで、私の師匠の言葉を借りることになりますが、
『悩み抜いた末に、何らかの姿をした(運命とは苦と向き合い続けることで幸福になっていくものだ)という希望が自分の内から現れる。
そして、その希望に命を賭けることになる。
そうなると苦は愛に変わる』
のだそうです。
加えて、そうなると、その希望を基に思考が再形成されるそうです。
また私たちは、ソクラテスの善く生きること、カントの自律、デカルトの高邁の精神、ニーチェの超人、福沢諭吉の独立自尊などは、このように生きる人々の生き方を指すのではないかと考えています。
ということで、これからの授業は、苦と向き合うために必要な、ものの考え方、様々な思想、信仰について、ユーモアについて、偉大な人間の人格について学んでいきます。
私自身もまだ発展途上でありますし、もしかするとこの中に、既に愛の段階に入っている人もいるかもしれませんので、共々に高め合っていきましょう」
昼食後にフルコースを頂いたようだった。
この方も既にドーナツに命を賭ける段階に入っている気がしてならない。
レクチャードーナツの話からすると、私にとっての苦は心の空洞ということになるのだろうか。
しかし、空洞は誰しも抱えているものであるとも聞く。
空洞といっても、人によって姿や振る舞いが異なるのだろうか。
今はまだ悩み足りないのかもしれない。
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