伯爵夫人ベアトリーチェの贈物

 ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、大きなため息をついた。


 ノール伯爵の王都邸、その談話室。ルドヴィーコはソファに身体を沈めて、天井を眺めていた。


 何もかも急すぎて、到底自分についていける気がしない。しばらく前に聞かされた娘のクラウディアと王太子との婚約話も、元婚約者であるマレス侯爵令嬢の追放も、あまりに唐突な話だった。そして今日、婚約披露の宴を明日に控えて、ルドヴィーコは頭を抱えたい気分でいる。


 いくら略式の宴で、新たな婚約者である己の娘を内々に紹介するだけのものとはいえ、集まるのは王国の有力者ばかり。振る舞いひとつ、言葉ひとつで何もかもを失うような時代では、たしかにない。それでも、何か失敗でもして列席するお歴々に睨まれるようなことでもあれば、と考えると、気が休まらないこと甚だしかった。


 一代侯爵への昇爵と、内大臣就任。


 それらはどちらも、実際にどうこうというよりは儀礼的なもので、自分の何かがそう大きく変わるわけではない。そのように理解はしていても、あるいは己に言い聞かせていても、ルドヴィーコの心は落ち着きからは程遠い。

 ルドヴィーコがもう一度ため息をついたその時、ノックの音が聞こえた。


「旦那様、香草茶をお持ちいたしました」


 扉の外から呼びかける声は、この屋敷の執事のそれだ。


「いや、もうすぐ休むから――」


「奥様のお言いつけでございまして」


「――入りなさい」


 妻の差配であれば、断る理由はなかった。というよりも、断ることなどできなかった。


 考えていても仕方がないことなのだから、今日はもう寝てしまおう、と考えていたのは事実だ。もっとも、その前に強めの酒でも飲んで、とも思ってはいたのだが。香草茶を飲んで休むのなら少なくとも、強い酒を飲んで寝るよりも、明日の寝覚めはいくらかましなはずだった。


 そのあたりを考えてくれる妻を、ルドヴィーコは大事に思っている。

 その妻が、執事と使用人と一緒に談話室に入ってきた。


「ベアトリーチェ? おまえ、もう休んだものとばかり」


「旦那様がお休みになられないのですもの」


 涼しい顔でそう答えて、ベアトリーチェは隣のソファに腰を下ろす。

 ポットから香草茶がカップに注がれ、テーブルに置かれる。その脇に、小さな木箱がふたつ置かれた。ベアトリーチェが軽く頷くと、執事と使用人が一礼して下がる。最初からそういう話になっていたに違いなかった。


「よくおやすみになれるように、用意させました」


「……カモミールかね」


「はい」


 ベアトリーチェがにこりと笑う。

 金色に近い薄めの色合いと、そして独特の香気。カモミールには鎮静の薬効があり、穏やかな眠りを助けるという。ルドヴィーコが置かれた状況には似合いの香草茶なのだった。


 正直なところ、ルドヴィーコは香草茶の類があまり好みではない。苦手でさえある。だがそれはそれとして、愛する妻の心遣いを無碍にするつもりなど、ルドヴィーコにはない。

 カップを取り上げて、一口含む。少々当たりが柔らかくなってはいるが、ルドヴィーコにとっては薬湯とどう違うのかをうまく説明できない味でもあった。


「旦那様」


「ん」


「出仕はいつからなのでしょう?」


 返答するまでにわずかな間があった。内大臣就任のことを言われている、と思い至る。


「まだ何とも。名目だけだと思っていたのだがね、殿下はどうやら部屋を用意してくださるらしい。その準備がまだ整わぬ、ということだったから」


「お仕事の道具のご準備は、旦那様?」


 妻の問いかけに、ルドヴィーコの手が止まった。香草茶の入ったカップを持ったまま、ルドヴィーコは目をしばたたいている。仕事道具のことなど一切考えていなかった。


「――まあ、うちで使っているものを持参すればよかろう。そのうち揃えねばならんなあ」


「いけませんわ、旦那様。新たなお役目を賜るのです。使い古しのものなどお持ちになられては」


「そうは言うがな、ベアトリーチェ」


「――そういうわけですから」


 妻の手が、テーブルの上に置かれたふたつの箱を示す。


「ご用意いたしました」


「――君が? ええと、開けても?」


 もちろんです、とベアトリーチェが頷く。


 箱の中には、陶製の小さなインク壺と、そして同じく陶製のペーパーウェイトが収められていた。

 白い地に、薄紫の釉薬で蔦草紋様が描かれている。インク壺の蓋の出来栄えといい、紋様の繊細さといい、ルドヴィーコの趣味にこの上なく合致するものだった。


「いつもご覧になるものほど、旦那様好みのものがよいかと思いまして」


「うん、ああ――これは、たしかに、好みだね。とても好みだ。ありがとう、ベアトリーチェ。いつも机の上に置いて使うだろうから――そうだね、うん」


 ――見るたびに君とクラウディアのことを思い出すだろう。


 その台詞は、濁した言葉の中に消えた。ルドヴィーコには、さすがに照れくさく思われたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る