第五話

 いっぱいいっぱいになりそうな頭を落ち着かせるため、ゆっくり深呼吸をする。


 4秒吸って……7秒息を止めて……8秒かけてゆっくり吐く……。できるだけ、できるだけ静かに……。


 繰り返すうちに脳に酸素が行き渡ったのか、冷静さを欠いた頭もマシになってきたので、今できることをすることにした。そう、目的地に進むのだ。


 時計の針はまだXIを指してはいない。離れるなら今だろう。


 鈴香は帰ってくる。そう信じるしかなかった。


 壁に耳を当て、急いで、それでいて静かに階段を登る。時折少年を気にしながら、神経を研ぎ澄まし……。


 地球温暖化がどうこう言ってるくせに、それでいて真夏なのにも関わらず、冷たい風が吹く。木々の揺れる音に身体が震える。


 少年が俺のシャツの裾をぎゅっと握るので、頭をなでる。これで少しはやわらぐといいが。


 光のない道をただ進む。それはじわじわと心を蝕んでいった。俺のじゃない。少年のだ。


 少年は最後の力を振り絞ったのか、俺のシャツの裾を引っ張った。


 俺の方に倒れたのが不幸中の幸いと言うべきか、少年を受け止めることに成功しそのまま二人で倒れ込んだ。右腕をクッションにし、できるだけ音を消す。


 肘を床に打ち付けてジンジンするし、背中が痛かったりするが、とりあえず少年が無事なので良しとしよう。


 放置するのも良くない気がしたため、口元に軽く左手を当てて息をしてるかの確認。ついでに右手を手首の方に持っていき、目を静かに閉じた。


 少年の脈は俺より少し早いくらい。息も少し荒い気がするがしている。


 それが確認できたので、ポケットから常備している干し梅を袋から取り出し一つを無理矢理少年の口に入れた。俺が大好きな特別酸っぱいやつだ。ありがたく食えってな。


 あとは、ただひたすら少年の頭を撫でていた。撫でているうちに蘇る兄との記憶に懐かしさを覚えた。


 それは幼い時の記憶。当時6歳だった俺と家出したっきり帰ってこなかった当時小6だった兄。もう誕生日すらも覚えていないし、親も最初からいなかったみたいに振る舞っているが……元気にしているだろうか。


 撫でていくうちに少年の息はゆっくりになってきたが、まだ意識が戻る気配はない。


 今、誰か来たら終わりだな。そんなことを考えたのが悪かったのか物音がした。


 追い打ちをかけるように定時連絡……時計に内蔵されているレーダーが反応した。


 少年を自分の背後に来るように、そしてレーダーの確認を急ぐ。近くにいるのは二人、そして二人の距離はそれなりにあるようだ。ということは、この一人を乗り切ることができれば、まだなんとか。


 鈴香の可能性もあることにはあるのだが、凛の頭にその考えがよぎることはなかった。それは18年の経験から来る、持論から来るものでもある。


 念の為、少年のポケットから木の枝を抜き取る。武器にするには少し頼りないが、無いよりはましだ。


 世の中には"言霊"という言葉がある。常に最悪の状態を想定している凛にとって自分の発言、考えはいずれ自分の運命を左右するものだ。不信、それ故天使が微笑むことはないし、幸運も来ない。それでも……




 賽子を振るのは誰かでも神様とやらでもない。――俺自身だ。




 凛は静かに少年の近くに木の枝を置き、ゆっくりとその場から離れた。なるべく少年の近くに、それでいて壁の近くに。


 近づいてくる足音を相手に、息を殺しながらひっそりと暗闇に身を沈める。閉じた目の代わりに耳に全神経を注ぐ。


 刹那、響いた乾いた音。あくまで賭けだったが、獲物はかかった。


 俺は無音で駆け寄り、そのまま弧を描くように右足で床の少し上を蹴る。手応えを確認すると、俺は両手を床につけバランスをとりながら両足で相手の身体を挟み、右脚を支点にして身体を回転させる。おれはうつぶせになっただけだが、盛大に鳴った衝撃音が凄まじさを物語っていた。……遠心力ってこわ。



 そのまま馬乗りになり、胸元をいじる。別に深い意味はない。ただ時計を探しているだけだ。しかもこいつ男だし……。恋愛対象に入ってないんだよな。それいいだしたら女もだけど。そもそも恋愛興味ねぇ‥。おっと時計時計。



 とりあえず左手首に時計がついてたのでそれを入手。本当に心臓が止まっているか確認するのも面倒なので首の関節を増やすことにした。



 それにしてもやりすぎたのだろう。急いで起き上がり、少年の元へ駆け寄るとさっきまでなかったはずの水たまりが音をたてる。



 少年の無事を確認するついでに背中を叩いたりしてみるが、あまり反応は期待できない。ただ息はしているので安心した。


 とりあえず目的地に向かうため少年を背負う。背中に違和感を覚えるがそんなこと気にならないほどの重量感に体力が奪われる。


 それでも一歩ずつ、確実に進みながら、少年が気を失っていて本当に良かったと心の何処かでそう思った。


 やっぱり俺は悪運が強いんだな。


 積み重なる疲労と睡魔に襲われながらも、気を抜くことなく歩を進めた。


 さっきまで吹いていた風は止んだが、おかげで月がでたのだろう。目の前が少しだけ明るかった。 

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