幻月ノ狼様
柁霍羅
第1章ー1
雪だ――
大きな洋窓の向こうで、綿雪がはらはらと舞い始める。
(気温、少しは下がるかな……)
そうならいいのに、と絃那は思った。
関東の夏は今年も長い。10月初旬になってもまだ残暑が続いている。
ここ――
ぼんやりと絃那は窓の外を眺める。落ちていく雪の中でなんとなく目に留まったものの行く末を、一片、また一片と見守っていると。
コロコロコロ……
左隣から、鉛筆を転がすような音が。
(
視線だけ動かし、クラスメイト兼親友である
彼女は口をへの字に曲げ、首をひねっていた。『おっかしいなあー』という声が今にも聞こえてきそうだ。ざっくりまとめてハーフアップにしている髪を手でわしゃわしゃしながら、麻由里は再び鉛筆を転がす。
(選択問題はなかったと思うんだけど……)
困惑しつつ、絃那はすでに解き終わり机の上に伏せている自身の解答用紙に視線を向ける。
また鉛筆を転がす音がした。
待って。本当に何をしているの麻由里。そしてなんでいちいち不服そうなの。
月白学園高等部1年特進クラスの教室内は、固定式の長い机椅子が横に三列、前から後ろまでずらりと並んでいて、教室というより、どこかの大学の講義室のようだ。
生徒は全部で50人いる。
そのほとんどが未だペンを動かしている最中とはいえ、今は私語厳禁の小テスト中。
麻由里が鉛筆を転がす音は、それなりに響く。
本人は一応気を遣って紙の上にそっと転がしているようだが、絃那同様、近い位置に座っている何人かには、しっかり聞こえてしまっているだろう。
うるさいと思われないといいのだけど、と絃那が心配になったちょうどその時。隣の列、斜め前の方に座っている1人の男子が、こちらをちらりと見た。
雪の観察に戻ろうとしていた絃那は、思いっきり彼と目が合ってしまう。
『何見てんだコラ』
三白眼気味の目でこちらを睨みながら、
理九とは幼馴染の仲だ。小学校からずっと一緒だ。ずっと、というのはクラスも一緒という意味である。故に絃那が理九とクラスメイトになるのはこれで10回目だった。
金髪ナチュラルマッシュ、強面、無愛想。今でこそこんなふうになってしまった彼だが、幼い頃はとても可愛らしく、それはそれは心の優しい少年で――……と言えたらよかったのだけど。
残念ながら、絃那には彼にいじめられた記憶しかない。
枦川理九は最初から完成されていた。小さい頃はあの手この手でいじめてくる彼に、随分と泣かされたものである。
腐れ縁が10年目を突破した今、彼と過ごした時間を改めて振り返ってみても、その間絃那が理九に感謝したのはたったの一度きりだ。
その件については、今でも本当に感謝しているというのに。
絃那は理九の鋭い眼光を全力で無視して、窓の外を見やる。
雪はいつの間にか止んでいた。目に映る景色のどこにも降雪の跡は残ってない。この分では気温も下がってないだろう。
絃那は視線を前に戻す。
そろそろ小テストも終わる。そしてこの授業の後は昼休みが待っている。お昼ご飯は何を食べよう。
季節外れの雪に対する興味は既に失われていた。
30度近い気温の中で、なんの前触れもなく突然雪が降りはじめるなんて、常識的に考えてありえない。それは絃那も分かっていた。
ただ、そういった常識をいとも容易く覆してしまう者たちがこの世に存在することも知っているから。
だから、受け入れてしまう。
というより、突然の異常気象くらい、ここでは、彼らの王国とも呼べるこの
そういえば、晴れているのに雨が降ることを昔は狐の嫁入りと言ったらしいが、今ではそれも彼らの扱う異能のせいにされている。
天気だけではない。身の回りで何かおかしなことがあれば、人々はまず、彼らの名を口にする。半分は本気で、もう半分は冗談で、こう言うのだ。
きっとオオカミのせいだ――と。
【オオカミ】――それは満月を目にすることで一時的に姿を変え、個体差はあれど、この世のありとあらゆる原理・法則を無視できるようになる異能者の総称である。
なお、その名は能力の発動条件に由来するものであり、由来元となった人狼、いわゆる狼の血が混ざった人間とははっきり区別されている。
実際、彼らは遺伝子上、異能を持たない普通の人間【ヒト】と何ら変わりはない。
オオカミはヒトから生まれ、また、オオカミが子をつくれば、ほとんどの場合オオカミではなくヒトが生まれてくる。
そんなわけで、およそ百年前にはすでに世界各地に存在していたと言われている彼らだが、統計データを見る限り、その人口推移に今のところ大きな増減はない。
最も多くオオカミが生まれる国として名が挙がる日本国内でも、オオカミの誕生は約1万人に1人といったところだ。
ちなみにオオカミか否かは、6歳から10歳までの間にオオカミ化するかどうかで決定する。11歳の誕生日を迎えた時点で満月を見てもオオカミ化しなければヒト確定となる。
そうしてオオカミとなった日本中の子供たちはこの島にやってくる。
千葉県の南端から1キロほど南へと進んだ先にある離島――幻月島。
元は小さな無人島だったというこの島は、所有者の潤沢な資産とオオカミたちの異能を駆使して開発が進み、今では東京都の6分の1ほどの大きさにまでなっている。
住民は8割以上がオオカミだ。彼らは過去、オオカミ化を経てこの地にやってきた者たちである。
皆ここで異能の使い方を学び、能力のランクを元に新たな苗字を与えられ、オオカミとしての人生を歩み始める。
『まるで異世界にでも迷い込んでしまったようだ』
初めてこの地を訪れた人々は、外壁に黒煉瓦を用いた洋風の建物が立ち並ぶ美観を前に、決まってそんな言葉を洩らす。
空が明るいうちはいいが、日が沈んだ後、特に夜の深まる時間帯に外を出歩くと、そこには完全なるゴシックホラーの世界が待っているので、怖がりには向かない島とも言える。
希望したところで、幻月島はまわりを高さ30メートルの石壁に囲まれた囲郭島な上、基本的にヒトは立ち入り禁止で、滅多にお目にかかれないのだが。
それでも近年は、オオカミの学び舎である月白学園にヒトが通える特進クラスを設けたりと、少しずつ本土との交流を進めている。
島内でヒトの姿を見かけることも、以前と比べると、珍しくなくなったのだ。
「ああ、私って本当に駄目な女」
授業が終わった途端、麻由里は力なく机に突っ伏した。結っていた髪はほぼ解けて無造作ミディアムヘアになっている。
「もう、いつもこんなのばっか……ううっ……どうせこれからもこんなゴミクズみたいな成績を量産していくんだあ……」
「ま、まあまあ、ただの小テストじゃん……うちらまだ1年だし。次がんばろ、次」
絃那がそう言って励ますと、麻由里はガバッと顔をあげて、
「そうよね! 私、もう気にしない!」
憑き物が落ちたように麻由里は輝きを取り戻した瞳で絃那を見る。
「お腹減った! はやく購買行こう!」
相変わらず切り替えがはやい。いつものことなので、絃那は驚かない。
一応麻由里の名誉のために言っておくと、彼女は決して頭が悪いわけではない。
月白学園は国内トップレベルの難関校だ。仮にもそこに実力で入ってきているのだから、頭が悪いわけがないのだ。
ただ彼女の場合は、なんというか得意科目に少々偏りがある。
理系科目だけなら、それ限定なら、この学園内でも麻由里の右に出るものはいないのに。
お昼ご飯を確保するため、2人は席を立つ。
出入り口がある教室後方に向かいながら、絃那は何気なくスマホを確認する。すると、新着メッセージが1件届いていて。
『今週の土日出かける。お前もついてこい』
(土日て)
今日は木曜日だ。こんな直前に誘ってきた挙句、この命令文。本来なら断固拒否したいところだが。
なんせ相手が悪い。絃那は今、彼――門廻弥紘に逆らえない身なのである。
気分が急降下する中、とりあえず行き先だけは確認しようと、指を動かし彼に問う。
『どこに行くんですか』
なんだか嫌な予感がするなあ。絃那は返事を受け取るのが怖くなる。
「あ、乙木さんたちもしかして購買行くー? あたしも一緒に行っていいー?」
「いいよー。ね、絃那」
へ? と絃那は顔を上げる。
麻由里と、その隣にいる華奢なおさげ髪の女子――クラスメイトの
奈央は気まずそうに絃那に尋ねる。
「ご、ごめん、もしかして迷惑だった……?」
無意識に険しい顔をしていたのだろうか。
誤解だ。絃那は慌てて首を振る。
「ううん! 全然!」
なんとか笑顔をつくると、奈央はほっと息を吐いた。
「よかったあ。じゃあ行こーっ」
奈央を先頭に、麻由里、絃那と順に教室を出る。
特進クラスの教室は、新棟と呼ばれる後から増設された校舎の中にまとまっている。
1年の教室は2階だ。
そして購買部は元々ある高等部の――現在600人ほどのオオカミ達が在籍しているらしい旧校舎の1階にある。
2つの校舎は渡り廊下で繋がっていて、そこから行き来可能だ。
(それにしても)
珍しい組み合わせだな、と歩きながら絃那は思う。
どこの学校でも大抵そうであるように、学園に入学してしばらくすると、クラス内ではグループのようなものが出来上がった。
絃那は普段麻由里の他、寮で部屋が近い数人の女子と過ごすことが多い。
が、奈央とは、言ってしまえばこの半年間ほぼ関わりのなかった間柄だ。奈央とも、奈央のいるグループとも、別に仲が悪いわけではないけれど。なんとなく距離を感じていたのは事実だ。というのも……
「ねーねー、さっきの授業中さあ、雪が降ったの見たあ?」
ぐるんと勢いよく振り向いて、笑顔の奈央は尋ねてくる。
悲惨な結果に終わったテストを思い出してしまったのだろう。麻由里は首を振りながら「見てない、私は何も見てない」と遠い目をして言う。
絃那も気づかなかったふりをする。「雪降ったの?」
「そう降ったの! こんな暑い日なのに、すごいよねーっ! さっすがオオカミ様!」
はしゃぐ奈央に、麻由里はのんびりと返す。
「松本さん、ほんと好きだねえ」
すると、奈央は少しムッとして、
「あたしからしたら、どうして2人がそんなに冷めてるのか不思議なんだけどっ。難しい試験を突破してまで幻月島にきたんでしょう? 少しくらいはオオカミ様に憧れとかあるんでしょう⁉」
絃那と麻由里は顔を見合わせ、順に答える。
「私は学費無料と難関大への推薦に釣られて」
「私もそんなとこー。あ、例のガジェットには興味あるけどーっ」
奈央はため息を吐く。
「もう、隠さなくていいのにー……」
不満そうに言って、彼女は歩き出す。
隠しているわけではないのだけど。言ったところで分かっては貰えない気がして、絃那は言葉を呑み込んだ。同じく『やれやれ』という顔をしている麻由里とともに、奈央を追いかける。
奈央のようないわゆるオオカミ信者は、若い世代を中心に近年増加傾向にあるらしい。
持っている能力が能力だけに、その危険性から、過去にはオオカミが忌避され迫害を受けていた時代もあったのだが。
のちに『オオカミ化は満月の夜に限る』という大前提を覆す特別なガジェットが開発され、彼らが大きな力を得たことから風向きが変わった。
今では日本も国を上げてオオカミとの共存を目指している。
オオカミは排除すべき、といまだに彼らを毛嫌いしているヒトは一定数存在しているものの、人知を超えた異能を使うオオカミや異国情緒あふれる幻月島での暮らしに大きな憧れを抱くヒトも、確実に増えている。
そんな信者たちが学生として堂々と幻月島に滞在できるこの機を逃すわけもなく。
結果として、特進クラスのメンバーもオオカミ信者が多くを占めている。
絃那や麻由里のような生徒は、はっきり言って少数派だった。
そうこうしているうちに、渡り廊下を過ぎ、絃那たちは旧校舎に入る。
購買部が見えてくる。
混雑しているようだ。来るのが少し遅かっただろうか。絃那はどうにか前に進もうと、人混みの中に足を踏み入れようとして、
「?」
突然、ぽんと頭を叩かれた。絃那はきょろきょろ辺りを見回す。
と、今しがた絃那の横を追い抜いて行った背の高い男子が、こちらを振り向く。
(……あっ)
目が合ったのは、ほんの一瞬で。門廻弥紘はすぐに視線を戻し、その先のカフェテリアがある方へ向かって歩き去っていく。
「今あいつ、絃那のこと殴らなかった?」
いつの間にか隣に来ていた麻由里が、立ち去る弥紘の背中を見て、怪訝そうにする。
「さ、さあ? 混んでたからぶつかっただけじゃない?」
あと殴られてはない。
笑って誤魔化し、麻由里をつれて購買部に向かう。
昼食は無事に確保できた。
サンドイッチとカフェオレを抱え、奈央、麻由里と3人で教室に戻る。
途中、絃那はこっそりスマホを確認する。
弥紘から返事が届いていた。
画像、だ。『どこに行くんですか』の問いに対する答えとして、送られてきたその画像は――
「どしたー? そんなこの世の終わりみたいな顔して」
麻由里が不思議そうに尋ねてくる。
絃那は顔を引きつらせながら「なんでもない」と首を振る。
(言えない……)
いずれ麻由里には相談したいとは思っている。けれど今はまだ言えない。絃那自身も、心の整理ができていないのだ。
(本当に、なんで私なんだろ……)
絃那は途方に暮れる。
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